第11話 締切の紙、机の上
六月の神楽坂は、朝の光がやわらかい。路地の石畳に落ちた影が、少しずつ形を変えていく。二階の工房では、ミシンのカバーがまだ外されておらず、空気に布の匂いだけが残っていた。
遼が机の端に白い紙を置いた。折り目のないA4が二枚。さらに、細いマス目でびっしり埋まった一枚。彼はそれらを重ね、角を揃え、紙がずれないように上から定規を置いた。
芽吹が椅子の背もたれに顎をのせ、紙を覗き込む。
「……長い。これ、読むだけで昼ごはんになるやつ」
遼は返事の代わりに、ペンの芯をカチリと出して、紙の左上に小さく日付を書いた。書き終えると、今度はマス目の表を指でなぞり、項目ごとに線を引いていく。一本、また一本。迷いがない。
茉子は布台の前で、昨日ほどいたドレスの裏地をそっと畳んだ。縫い代のところに、あの小さな署名が浮かぶ。見えない場所に入れた文字なのに、今朝は胸の中で何度も確かめたくなる。
遼が紙を茉子の方へ向けた。
「提出するものの一覧。審査会の受付は、七月の第三週。写真は二週間前。線の図面は十日前」
「……期限が、紙に貼られた瞬間、追いかけてきますね」
茉子が言うと、芽吹が肩をすくめた。
「追いかけてくるなら、逃げ道も書いといてよ」
遼は机の引き出しから、二つ折りの厚紙を出した。中には、方眼のメモが何枚も挟まっている。彼は一枚を抜き、一覧の横に貼った。そこに、細い字で“今日”と書き、下に短い言葉を並べる。
茉子は紙を見つめたまま、針山を指で押さえた。底のフェルトのふくらみが、以前より頼もしい。遼が余り布で作ってくれた針山だ。小さなメモはもうしまってあるのに、言葉だけが手のひらに残っている。
「長いなら、今日から」
茉子はそう口にして、型紙用のクラフト紙を広げた。袖。審査会に出す一着の要になる部分だ。縫い代をどう取るか、腕の動きをどう受け止めるか。紙の上で決まらないと、布はもっと迷う。
芽吹が目を丸くする。
「いきなり袖? そこって、一番しんどいとこじゃない?」
茉子は鉛筆を握り、紙に曲線を描いた。腕の丸みを想像しながら、線をゆっくり引く。途中で止まりそうになると、もう一度、息を吸って続きを描く。
「しんどいから、最初にやります。先に嫌なものを置いといたら、あとが軽くなる気がして」
遼は黙って立ち上がり、裁断ばさみを研ぎ布で拭いた。刃の先を光にかざし、欠けがないか確かめる。次に、机の紙を指先で押さえ、項目の横に太い線を引いた。
その線は、締切を囲う枠ではなかった。今日やる分と、明日に回す分を分ける線だった。
芽吹が急に紙を持ち上げ、端を折りかける。
「これ、折ったら短く見えるんじゃ……」
遼の手がすっと伸び、紙の角を押さえた。折り目がつく前に止まる。芽吹は「はい」と素直に戻し、代わりに紙の余白へ小さな花を描いた。鉛筆の花は五秒で完成したのに、一覧の文字はまだ長い。
博宣が階段を上がってきて、カメラバッグを床に置いた。無言でストラップを整え、窓際の椅子に座る。カメラのレンズを布台へ向け、軽くピントを合わせる。シャッターは切らない。まだ、切る場面じゃないと分かっている顔だ。
茉子が袖の型紙に“表”“裏”と書き込むと、遼が小さく言った。
「まず、ここまで」
指さしたのは、一覧の中の一行。“袖の形決定/仮縫い用布の裁断”。その横に、遼の字で“本日”と書かれている。
芽吹が椅子から起き上がり、布台の端に腰を下ろした。
「本日って書かれると、なんか、やらないと怒られそう」
「怒らない」
遼は短く言い、次の線を引いた。紙の上に、一定の幅で区切りが増えていく。長い一覧が、ふしぎと息をしやすい形に変わっていく。
茉子はその様子を横目で見ながら、袖山の高さを調整した。ほんの数ミリ。だけど、数ミリで腕の動きが変わる。彼女は紙を重ねて、線をなぞり直す。二度目の線は、最初より落ち着いていた。
ふと、茉子の頭に、修復中のドレスの袖がよぎる。古い縫い目の、柔らかなカーブ。あれは誰かの手の記憶だった。自分は、その記憶に触れている。触れただけで終わらせたくない。自分の線として立ち上げて、別の人の身体をきちんと支える形にしたい。
「遼さん。写真の提出って、どのくらいの数でしたっけ」
「全身三枚。寄り二枚。手元二枚。背景は白。光は午前」
遼は言いながら、窓のカーテンを少しだけ開いた。光が布台に落ち、紙の上の鉛筆線がくっきり見える。
「午前の光って、節約のためじゃないですよね」
茉子が冗談めかして言うと、遼は少しだけ口角を動かした。
「電気も使わないし、影が柔らかい」
芽吹がその会話を聞いて、笑いながら手を伸ばした。
「じゃ、私は影担当。影を柔らかくする係」
「係はいらない」
遼は言いながらも、芽吹の前に裁断用の布をそっと置いた。仮縫い用の安い綿布だ。芽吹は布を指でつまみ、ぴんと張って、縫い目の方向を確かめる。
茉子は袖の型紙を切り抜いた。はさみの音が、工房の静けさをほどく。切り終えると、紙の縁を指で撫で、ささくれをならした。そこまでしてから、ようやく胸の中の緊張が少しだけ落ちる。
遼が机の上に、もう一枚、白い紙を置いた。そこには、太い文字で“締切”と書かれている。下に、日付が三つ。七月の第三週、二週間前、十日前。
そして、その右側に、さらに小さな文字が添えられていた。
“机の上に置いたら、守れる形にする。”
茉子はその一文を見て、息が漏れた。遼は視線を上げず、ペン先で“袖”の欄に丸をつけた。
「……守れる形。いいですね」
茉子が言うと、遼はペンを置き、机の端を指で軽く叩いた。
「紙のせいにしないため」
その言い方が、責めるようでいて、なぜか優しい。
茉子は袖の型紙を布の上に置き、チャコで線を引いた。布の白に、薄い線が生まれる。線はまだ弱い。でも、弱い線でも、針はそこを目指せる。
芽吹が布を押さえながら言った。
「ねえ、茉子。さっきの“今日から”って、ほんとに今日から?」
「うん。今日から。昼までにここ」
茉子は袖の型紙を持ち上げ、線を確かめた。
「夕方までに仮縫い。夜に一回、見直す」
「夜まで……」
芽吹が大げさに天井を見上げる。
「じゃあ、私、途中でリボン作りたくなったら怒られる?」
茉子は笑って首を振った。
「怒らない。だけど、リボンは“夜の見直し”の後にしよう。順番、守ろう」
遼が椅子を引き、布台の横に座った。彼は布の端をそっと押さえ、茉子が切りやすいように角度を整える。言葉は少ない。けれど、布の動きが止まり、刃が迷わない。
茉子ははさみを入れた。布が切れる音が、紙の線と重なる。締切の紙は机の上にある。だが、追いかけてくる足音は、もう怖くなかった。机の上の紙が、工房の空気を締めつける代わりに、今日の手を動かす理由になっている。
切り終えた袖の布片を、茉子は両手で持った。軽い。けれど、その軽さの中に、七月の第三週までの時間が入っている気がした。
遼が、袖の布片の端を指でなぞり、短く言う。
「いい線だ」
その一言で、茉子の肩が少しだけ下がった。彼女は布片を針山の横に置き、針を一本抜く。
机の上の“締切”の紙は、まだ白い。
でも、工房の手元は、もう動いている。




