第10話 初めての「名前を縫う」
午前九時前。神楽坂の路地はまだ人影が薄く、石畳の水気だけが光っていた。二階の窓を開けると、遠くで配送の台車が鳴り、焙煎した豆の匂いが風に混じる。
作業台の上には、昨夜、洋館の管理人が抱えてきたドレスが横たわっている。紺に近い深い青。光を受ける角度で、静かな海みたいに色が揺れた。茉子は手首までの薄い手袋をはめ、袖口をそっと広げる。古い香水の甘さが、布の奥からふわりと立った。
内側に縫い込まれた裏地は、見た目よりずっと繊細だった。縫い糸が細く、針目が均一で、まるで息づかいが布に残っている。茉子は、昨夜見つけた小さな文字を思い出す。裏地の端、折り返しの影に隠れる場所に、糸だけで書かれた名前。
「……これ、ほんとに糸なんですね」
声に出してしまうと、妙に大げさに響いた。茉子は慌てて口をつぐむ。
遼は窓際の小さな机で、帳簿を開いていた。鉛筆の芯を指先で拭い、角が丸くなった電卓を一度だけ叩く。茉子の呟きに、顔を上げずに返す。
「うん。見える場所じゃない。だから、嘘がつけない」
遼の言葉は、値段の話をするときと同じ調子だった。飾らないのに、ずしんと落ちる。
芽吹はライトを点け、首を傾げる。まだコートも脱ぎきっていないのに、もう工具箱の前にいた。
「名前って、そんなに重い?」
茉子は「重いよ」と言いそうになって、針山を抱え直した。重い。軽く縫えるほど、まだ自分の手は慣れていない。けれど、管理人が見せた顔――亡くなった妻の話をするときの、視線の揺れ――を思い出すと、適当に直すわけにはいかなかった。
今日やることは決まっている。胸元の刺繍のほつれは、糸を選び直す。内側の汗染みは、裏地を外して洗い、乾かしてから戻す。裾のほころびは、同じ針目の間隔で拾う。目立たせないのに、もう一度生き返らせる。
茉子はドレスの裏地をほどき、縫い代を開いた。そこに、あの名前が見える。文字は小さいのに、布の奥に芯が通っている。まるで「ここまで責任を持った」と、縫い目が言っているみたいだった。
針を進めながら、ふと手が止まった。
自分が直した痕は、どこに残るのだろう。
もちろん、目立つ場所に何かを足すつもりはない。亡くなった人のドレスに、勝手な飾りを付けるのは違う。それでも、縫い直した針目は、誰の針なのか。いつか、誰かが裏側を見たとき――この一着に触れた人の名前が、どこにもないのは、少し寂しい気もする。
茉子は糸を指に巻き、ほどけないように押さえた。針先が、布の上で小さく震えた。
「……署名、どうしよう」
言葉にした瞬間、自分でも驚いた。自分の名前を、服の中に入れるかどうか。そんなことを考える日が来るなんて。
遼がようやく顔を上げた。眼鏡の奥の目が、作業台の上のドレスと、茉子の指先を行き来する。
「入れたい?」
問い方が、変に優しかった。茉子は、すぐに頷けなかった。
芽吹が口を挟む。
「でっかく入れたら? 背中にドーンって」
「だめだよ!」
茉子が即答すると、芽吹が笑った。笑いながら、ライトの角度だけは丁寧に変える。明るさが増し、縫い目の影が薄くなる。
遼は帳簿を閉じ、椅子の背もたれに肘をかけた。
「見えない場所でいい」
それだけ言って、遼は糸巻きを一つ取り出した。新品じゃない。残りが少しだけ残った糸だ。ラベルの端には、小さく数字が書いてある。遼が自分で書いたのだろう。糸の太さと色番、そして残量。必要なぶんだけを計算して、余らせないための癖。
遼はその糸を、茉子の前に置いた。
「この色なら、裏地の端に溶ける。誰かに見せるためじゃなくて、あとで困らないために入れればいい。……直した人が、分かるように」
茉子は糸を手に取った。冷たい。糸はいつも冷たいのに、今日はそれが、妙に現実味を帯びた。
芽吹がまた首を傾げる。
「困るって、誰が?」
遼は一瞬だけ口角を上げた。
「自分」
言い切ると、遼はまた作業台に寄ってきた。茉子の隣に立ち、手元を覗き込む。距離が近い。茉子は針を落とさないように、呼吸を整えた。
遼が指先で裏地の端を示す。
「ここ。折り返しの内側。表からは絶対に見えない。洗いに出しても、擦れにくい」
茉子は頷いた。頷いたのに、指が動かない。縫える。縫い方は分かる。けれど、名前は別だった。糸で書いた瞬間、逃げ道がなくなる。
「茉子」
遼が、名前だけ呼んだ。呼び方に、いつもみたいな事務的な硬さがない。
茉子は顔を上げられず、針を持ったまま視線だけを遼に向ける。
「……ここに、ひらがなで、三文字。小さくでいい」
遼の声は低い。布の上を流れるように、余計な熱を入れない。だからこそ、茉子の胸の奥が熱くなる。
芽吹がライトを少し寄せた。何も言わない。けれど、明るさが増したぶん、茉子の手の震えもよく見えるはずだった。
茉子は針を裏から表へ通した。糸がするりと滑り、布がわずかに持ち上がる。次に、横へ。次に、斜めへ。文字の形を作るには、縫い目の方向を変える必要がある。普段より神経を使う。
「ま」
頭の中で声に出しながら、茉子は一画目を入れた。曲線が、思ったより難しい。針が布を抜けるとき、指先に軽い痛みが走った。針先が指に触れたのだ。茉子は小さく息を吸い、声にならない「いたっ」を飲み込む。
遼がすぐ、手元に紙片を差し出した。指先を押さえるための、薄い和紙。いつも引き出しに入っている、余りの紙だ。
「慌てなくていい」
遼の言葉に、茉子は和紙で指を押さえた。痛みはすぐ引く。けれど、心臓の音が落ち着かない。
「こ」
次の文字を縫う。小さく、小さく。針目が乱れないように。糸が引っ張られ過ぎないように。布が波打たないように。
「……」
芽吹が、咳払いをした。じゃまをするためじゃなく、空気が真面目になりすぎたのを誤魔化すみたいに。
「なんか、卒業式みたい」
茉子は思わず笑いそうになって、口元を押さえた。笑ったら針がぶれる。けれど、芽吹の言葉で肩の力が少し抜けた。
最後の文字。
「こ」
茉子は糸を引き、結び目を作った。結び目は裏に隠れる。表には、ほんの小さな三文字だけが残る。裏地の端、折り返しの影に沈むように。
見えない場所なのに、茉子には眩しかった。
茉子は糸端を短く切り、針を針山に戻した。自分の指先を見つめる。さっきの震えは、もう止まっていた。代わりに、指先がじんわり温かい。
遼が帳簿に戻ろうとして、ふと足を止めた。
「……これで、いい」
遼はそれだけ言った。褒めたわけでも、確認したわけでもない。けれど、茉子の胸の中で、何かが静かに整った。
芽吹がライトを少し引き、肩をすくめる。
「じゃ、次は汗染みね。私、洗いの道具、出す」
芽吹が下へ降りていく足音が、階段を軽く叩く。
茉子は裏地をそっと閉じた。三文字は、布の中に隠れた。誰にも見えない。けれど、そこにある。
窓の外で、神楽坂の午前が動き始める。人の声が増え、車の音が遠くに重なる。茉子はドレスの胸元を撫で、針山を抱え直した。
この一着に、自分の手が触れた証は、布の中に眠っている。
だから、次の針目も逃げない。
茉子は小さく「まこ」と息で言い、縫い直しの続きを始めた。




