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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第9話 博宣の単独行動が連れてきた客

 七月の神楽坂は、昼になると石畳が熱を抱えて、路地の影までぬるい。工房の窓を少しだけ開けても、入ってくるのは蝉の声と、焼けた木の匂いだった。扇風機の風も、温い布を撫でるみたいに弱い。


 茉子は昨日の市場で見つけた紺の布を作業台に広げ、指の腹でそっと撫でた。金糸が散ったような織りは、光の角度で星になったり、ただの埃みたいに沈んだりする。自分が選んだのに、まだ布の気分が読めない。


 「布は機嫌があるからな」

 遼が電卓を置いて言った。目線は帳簿のままなのに、茉子の手の動きだけは見逃さない。

 「機嫌……」

 「湿気で伸びる。手汗でも変わる。あと、人が焦ると皺が増える」

 焦るな、と言われた気がして、茉子は背筋を伸ばした。


 芽吹は扇風機の前で糸を通していた。風で髪が揺れて、針穴に近づくたび、前髪が邪魔をする。けれど芽吹は前髪を留めない。留めるという行為そのものに飽きるらしい。針は不思議と通る。

 「芽吹さん、すごい……」

 「風、嫌い。でも通る。そういう日」


 優歌は今日は来ない。審査会の話をしてから、工房の空気が少し硬くなった。茉子はそれを笑いに変えたいのに、笑いどころが見つからない。

 遼が布の端を持ち上げ、端切れの長さを書いたメモを確認した。

 「この紺は主役。脇役を節約する」

 「脇役って、裏地とか……?」

 「裏地、芯、ファスナー、ボタン。あと、ミシン糸でも金は金だ」

 遼の言い方が、舞台監督みたいで、茉子は少しだけ口角を上げた。


 そのとき、階下の戸ががたん、と重い音を立てた。続けて、木の階段がきしむ。誰かが、ためらいながら上がってくる足音。遼が眉を寄せ、茉子が針山を抱えた瞬間――。


 「ただいま。連れてきた」

 博宣が、汗だくで現れた。肩に古い革の鞄、両手には、布で包まれた大きな箱。箱というより、引き出しを丸ごと抱えている。

 「……何を」

 遼の声が低い。電卓が机の上で小さく震えた。


 「階段が狭い」

 博宣が言い、後ろから「すみません、すみません」と声が重なった。箱が踊り場で引っかかって、持ち上げるたび紙が擦れる音がした。芽吹が無言で立ち上がり、箱の角をひょいと持ち上げる。博宣が「あ、助かる」と言って、遼が「そういう時だけ素直」と呟いた。


 博宣の背後から、白い手袋をした男が顔を出した。五十代くらい。背筋が真っすぐで、帽子のつばを指先で押さえる動作が丁寧だ。

 「突然で失礼します。市谷の丘の洋館で管理をしております、篠宮と申します」

 名乗りながら、男は深く頭を下げた。頭の角度が、さっきまでの蝉の騒がしさを一気に静かにする。


 「博宣さんが、こちらなら――と」

 篠宮が言いかけたところで、博宣が先に口を挟んだ。

 「駅前で会った。水出し麦茶が安い店、教えたら、話が長くなった」

 「安い店で人脈を作るな」

 遼が言うと、博宣は悪びれずに箱をどすんと床に置いた。床板が鳴き、芽吹が扇風機を止めた。


 「本当は、蝶番の油を買いに行っただけなんだがな」

 博宣が鞄を叩く。中から出てきたのは小さな缶一つ。遼が額に手を当てた。

 「で、ついでにドレスが増えたと」

 「増えたな」

 博宣はあっさり肯定した。


 篠宮は箱の布をほどいた。中から出てきたのは、さらに薄紙に包まれた白いドレスだった。紙を一枚めくるたび、かすかな香りが立つ。ラベンダーと、古い木箱の匂い。丁寧にしまわれた時間の匂いだ。

 茉子は息を呑んだ。白は白でも、ただの白じゃない。黄みのある柔らかな白で、胸元に小さな金色の花刺繍が散っている。ゴールデンフラワーの看板を思い出して、胸が少しだけ熱くなる。


 「妻のものです」

 篠宮が言った。言葉は短いのに、喉が一度だけ動いた。

 「亡くなって十年。けれど、毎年、同じ日に……このドレスを出して、窓辺に掛けていました。ところが今年、袖の縫い目が裂けまして」

 篠宮は、裂けた部分を指さした。確かに、脇の下の縫い目が、糸ごと抜けている。生地自体は傷んでいない。糸が先に負けたのだろう。


 「直せます」

 茉子が思わず言って、遼の視線が刺さった。値段と時間と責任を、遼はいつも先に抱える人だ。

 茉子は慌てて付け足す。

 「直せるか、見ます。きちんと……見てから、決めます」

 遼は小さく頷き、篠宮に椅子を勧めた。

 「いつまでに必要ですか」

 「八月の一日です。妻の誕生日でして」

 日付が出た瞬間、工房の空気がさらに重くなった。期限表の青い丸が、頭の隅で瞬いた。審査会の準備と、修復。二つの針を同時に持てるだろうか。


 芽吹がドレスの裾をそっと持ち上げた。指先の力が驚くほど弱い。布が痛がらない持ち方だ。

 「……縫い目、古い。でも、きれい」

 茉子も覗き込む。裏側の縫い代は細く、目が均一で、角の処理が一切もたつかない。まるで線を引いたみたいに真っすぐなのに、硬さがない。

 「手縫い……」

 声が漏れた。ミシンでは出しにくい、糸の沈み方。


 遼がルーペを持ってきて、裂けた部分の糸を拾った。

 「糸が古い。たぶん、当時の絹糸。湿気で弱ったか、引っ張りが続いたか」

 「窓辺に掛けると、風で揺れます」

 篠宮が申し訳なさそうに言う。茉子は首を振った。

 「大切にしていたから、揺れたんですね」

 その言い方が自分でも少し恥ずかしくて、茉子はドレスの胸元に視線を逃がした。


 そのとき、裏地の端に、小さな盛り上がりを見つけた。糸が違う。ほんの少し、色が濃い。

 茉子は「触ってもいいですか」と目で遼に確認し、遼が頷いたので、指先で裏地をめくった。

 そこに、細い糸で縫い込まれた文字があった。


 「……署名」

 縫い目で書かれた、控えめな名前。アルファベットの頭文字と、数字。見えない場所に、見える人だけが分かるように置かれた“作った人の手”。

 茉子は喉が鳴った。技術は、表だけじゃない。隠れた場所に、息遣いが残る。


 博宣が、ふっと笑った。

 「いい人の仕事だな」

 いつも曖昧なことしか言わないのに、その一言だけは断定だった。


 遼は篠宮に向き直った。

 「修復は可能です。ただし、当時と同じ素材は揃わないかもしれません。近い糸で、強度を優先します。それでもいいなら、引き受けます」

 篠宮は少し迷ってから、深く頷いた。

 「強度を。妻が……また裂けるのは、見たくありません」

 言い終えて、篠宮は視線を伏せた。指先が白手袋の上で、小さく震える。


 茉子は、その震えを、布を大切にする手の震えだと思った。泣くためじゃなく、壊さないための震え。

 「八月一日までに、必ず整えます」

 茉子が言うと、遼が横から短く付け足した。

 「無理な徹夜はしない範囲で」

 篠宮が、思わず口元を緩めた。

 「徹夜は……妻も叱ります」

 その一言で、工房の空気が少しだけ緩んだ。笑いは短い。けれど確かに、ここに灯った。


 篠宮が帰ったあと、茉子たちはドレスを作業台の端に置き、光の下で再度確認した。裂けた部分だけでなく、裾の擦れ、胸元の刺繍のほつれ、内側の汗染み。修復は、縫うだけでは終わらない。

 遼は帳簿を開き、修復に必要な糸の候補を書き出した。芽吹は「匂い、残す」と言って、洗いの方法をメモにした。博宣は、誰にも頼まれていないのに、古い針の箱を出してきた。


 茉子は、裏地の署名をもう一度見つめた。

 “名前を縫う”という行為が、急に現実の重さを持った。表に出なくても、縫い目は嘘をつかない。隠すなら、守る責任がついてくる。


 窓の外で、蝉が一匹だけ鳴いた。工房の中では、針が布に入る音がした。小さく、確かな音。

 茉子は針山を抱え直し、紺の布に目を戻した。世界に一着を作るために、まず一着の時間を守る。



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