第40話 ゴールデンフラワーの一着
翌朝の神楽坂は、昨夜の星の名残を、石畳の隙間にこっそりしまっていた。早い時間なのに、路地のパン屋から甘い匂いが流れてくる。工房の軒下、金色の花が彫られた看板は、まだ眠そうに光っていた。
鍵を回したのは、茉子だった。昨日までなら、遼が無言で先に開けていた。けれど今朝は、遼がわざと少し後ろに立ち、茉子の手元を見守るみたいに息を合わせる。
「……開け方、うまくなった」
遼が言うと、茉子は振り返らずに笑った。
「鍵穴にも、慣れてきました。布と同じで、角度ですね」
「角度は大事。財布にも」
言いながら、遼は当然のように照明のスイッチを二つだけ入れ、残りは手を伸ばしたまま止めた。茉子が「暗くないですか」と言いかけて、やめる。暗がりの中で見える遼の横顔が、昨夜より少しだけ柔らかいからだ。
奥の作業台では、芽吹がすでに針山を抱えていた。寝癖を直す気配がない。鼻歌だけが妙に整っていて、ミシンの上に置かれたマグカップが小刻みに震えている。
「おはよー。二人とも、帰宅遅かったね。石畳で転んでない?」
「転んでません」
茉子が即答すると、芽吹は満足げに頷く。
「うん、返事の速度が昨日より早い。恋の縫い目が固くなってきた」
「芽吹、言い方」
遼が咳払いをすると、芽吹は針を一本くるりと回して笑う。
「違う違う。仕事の話。縫い目の話。ね、遼さん」
遼は返事をしない。代わりに帳簿を開き、ペン先を指で整える。いつもの動作なのに、今日は少し照れを隠す動きに見える。茉子はそれが可笑しくて、笑いそうになるのを飲み込んだ。笑えば糸が乱れる。ここは、落ち着いて縫い始める場所だ。
ガチャ、と玄関ベルが鳴った。まだ開店の札も出していない時間だ。茉子が驚いて扉へ向かうと、遼が先に「俺が」と言い、ドアを開ける。
そこに立っていたのは、花の香りを連れてくる女性だった。ベージュのコートの腕に、紙袋と花束。花束は黄色いフリージアが中心で、朝の光みたいに眩しい。
「すみません……『ゴールデンフラワー』さん、ですか」
女性の声は、丁寧なのに少し震えている。遼が看板を見上げ、頷く。
「はい。どうされました」
女性は紙袋から一枚の招待状を取り出した。角が少し擦れている。何度も開いて、閉じたのだろう。
「来週、妹の結婚式があって……私は受付を頼まれました。でも、今の私の服だと、どうしても自信がなくて」
茉子は女性の手を見た。花屋の人だ。指先にうっすら残る土と、爪の縁の小さな傷。働く手だ。自分の手と似ている。働く手は、いつだって少しだけ不器用で、誠実だ。
「どんな服が、お好きですか」
茉子が尋ねると、女性は花束を抱き直した。
「派手じゃなくていいんです。でも……妹の晴れの日に、隣で笑える私でいたい。……花の仕事をしてるから、花に見劣りしない、って言うと変ですけど」
芽吹が後ろから顔を出し、花束を見て目を輝かせた。
「花に勝つのは難しいよ。花は季節の最強カードだから」
女性が困ったように笑う。遼が芽吹を肘で押し戻し、落ち着いた声で言う。
「花に勝つ必要はない。……花と並んで、映える形なら作れる」
その言い方が、いつもより少しだけ優しい。茉子は胸の奥が、針で軽く触れられたみたいにちくりとした。
女性は小さく頷き、紙袋からもう一つのものを出した。黄色い布片だ。光沢のある生地。けれど端はほつれている。
「市場で、これを見つけて……。端布です。これで何か、花みたいに……」
茉子は布片を受け取り、指腹で撫でた。滑らかで、薄いのに芯がある。まるで、昨夜の遼の言葉みたいだ。嘘をつくなら最後まで守る。でも、嘘をつきたくない。芯があるのに、柔らかい。
「この色……フリージアの花粉みたい」
茉子が言うと、女性の目が丸くなる。
「分かります? 私、毎朝それを見るんです」
「見てきた色は、嘘をつきません」
茉子の言葉に、遼が帳簿から顔を上げた。茉子は気づいて、少しだけ頬が熱くなる。言葉が勝手に出た。けれど、今の自分はそれでいいと思えた。
「採寸、させてください。受付のお仕事なら、立つ時間も長いですよね。動きやすさも必要です」
女性が「はい」と答えた瞬間、博宣が静かにカメラを構えた。いつの間に来たのか分からない。シャッター音も出さない設定なのに、存在感だけがしっかりある。
「……記録、撮るんですか」
女性が驚くと、博宣は短く頷いて、スマホ画面を見せた。そこには「制作過程」とだけメモがある。
「後で、妹さんにも見せられるように」
遼がさらりと言う。博宣が言ったのではないのに、遼が代わりに言った。その自然さに、茉子は思わず遼を見た。遼は目を逸らさない。逃げない。昨夜、指を絡めたまま帰ってきた人の目だ。
採寸テープが女性の肩を一周し、芽吹が「ここ、動くときに引っかかりそう」と言い、遼が「予算内で」と口を挟む。茉子はスケッチブックに線を引きながら、三人の声の重なりに耳を澄ませた。
この工房は、いつも少しだけ騒がしい。けれど今は、その騒がしさが、布を切る前の正しい音に聞こえる。必要な音だ。
「茉子さん」
女性が、採寸テープを握ったまま小さく言った。
「……私、結婚式が苦手で。みんなが幸せそうで、置いていかれた気がして。だから、服に頼るのは卑怯かなって」
茉子はペンを止めた。自分も、誰かの幸せを見て、置いていかれた気がしたことがある。縫う現場で叱られた日、誰かの手際が良すぎて、自分が余計な布みたいに思えた日。
「卑怯じゃないです」
茉子は、真っ直ぐに言った。
「服は……隠すためだけじゃありません。笑うための手助けにもなる。あなたが笑えたら、妹さんも安心します」
女性の目に、少しだけ水が滲む。芽吹が気づいて、急に明るい声を出した。
「じゃあ、名付けよう。『ゴールデンフリージアの受付戦闘服』!」
「戦闘って言うな」
遼が即ツッコミを入れる。茉子も笑ってしまい、女性も笑った。笑うとき、肩がほんの少し下がる。緊張の糸がほどける瞬間を、茉子は見逃さなかった。
採寸が終わり、女性が帰ったあと、工房には端布の黄色が残った。茉子は布片を窓辺に置く。朝日が当たり、金色の花粉みたいに光る。
「……いい仕事、来たな」
遼が言った。帳簿を閉じる音が、今日は軽い。
「来週まで、間に合いますか」
茉子が聞くと、遼は少しだけ笑った。
「間に合わせる。……無理な嘘はつかない。だけど、できることは増やしていく」
茉子は頷いた。できることを増やす。その言葉は、茉子の背中を押すだけじゃなく、遼自身の背中も押している。
芽吹が針を通しながら、ふと真面目な声になった。
「遼さん、最近、ちゃんと眠れてる?」
遼は一瞬だけ固まってから、ペンを置いた。
「……昨日は、眠れた」
芽吹が「へえ」と笑う。博宣がカメラの電源を入れる音が、やけに大きく聞こえた。
「証拠、残しとく?」
芽吹がからかうと、遼は帳簿で顔を隠して言った。
「残すな」
茉子は笑いながら、スケッチの線をもう一度引き直す。襟元は花びらの重なりみたいに。袖は動きやすく、手元が美しく見えるように。腰の位置は、受付で何度もお辞儀しても皺が目立たないように。機能と美しさを一緒に縫い込む。それが、この工房のやり方だ。
玄関の看板が、日が高くなるにつれて少し眩しくなる。金色の花が、昨日よりもはっきり見えた気がした。茉子は机に向かい、遼は帳簿を開き、芽吹は鼻歌で針を通し、博宣は黙って撮影の準備をする。
茉子が言う。
「今日も、世界に一着を縫います」
遼が答える。
「じゃあ、共犯者でいよう」




