第78話:クズ男の末路
痛い。
寒い。
「どうして、こんなことに……」
俺の口から漏れた声は細く、今にも消えてしまうんじゃないかってくらいだ。
服のまま風呂に入ったように、皮膚と下着がベッタリとくっついている。
普段なら不快感で満たされているところだが、今は違う。
目の前にある死への恐怖でそれどころじゃなかった。
◇
冬美の部屋は驚くほどなにもなかった。
四畳半くらいしかない部屋なのに、やけに広く思えた。
以前の俺なら狭いと笑っていたかもしれないが、刑務所で与えられていた部屋と比べたら天国のようにも思えた。
「今日からここで2人で住むの。その、狭くてごめんね」
「狭いなんて──。冬美、ありがとう。冬美がいなかったら帰るところがなくて野垂れ死ぬところだった」
彼女の背中に手を回すと、ずっと前にいなくなっていたはずの欲が芽生える。
男しかいない刑務所で、散々な目にあっていたんだ。
思い出したくもない記憶が蘇りかけるが、そんなことはどうでもいい。
「まだ、ダメ」
伸ばしかけた手が止められる。
「ちょっと臭いからさ、お風呂に入ってきて」
茶化すように言われて気まずくなる。
自分の衣類に鼻を近づけてみると、想像以上に不快な臭いがそこにあって、思わず吐きそうになった。
「そ、そうだな。確かに臭いかも」
「お風呂はそこの二つ目の扉。着替えは用意しておくね」
「ありがとう」
本当に優しいな。
刑務所で傷がついた心になおさら沁みる。
熱々の風呂に浸かって、「ふぅー」と大きく息を吐いた。
ここには俺に害をなす者は一人もいない。
こんなに安心したのはいつぶりだろうか──。
風呂から上がったら改めて冬美にお礼を言おう、そう決めて、時間に縛られないことをいいことに長風呂をした。
湯船で休んでいると、瞼が重くなった。
薄くなっていく思考の奥で、シャッ、シャッと、なにかが擦れる音がしたが、気に留めることはなかった。
◇
彼女が言った通り、目を覚ますと浴槽の隣に着替えが置かれていた。
脱衣所がない小さな部屋なので、濡れてしまわないようにレジ袋に包まれていた。
コンビニで買ってきてくれたのだろうか──
「冬美……」
鼻の奥がツンと痛くなる。
目頭が熱くなるのを感じて、すぐに冷水で洗い流した。
寝起きではっきりとしなかったので、好都合だった。
「風呂、ありがとな。──って、なにしてんだ」
「…………」
シャッ、シャッ。
規則的なリズムを刻んで、冬美は包丁を研いでいた。
ようやく、風呂の中で感じたものを思い出す。
二時間ほど風呂に入っていたが、その間ずっと研いでいたのだろうか──?
わからない。
どうして包丁を研いでいるのか。
どうして感情のない目をしているのか。
「待っててね、ぇ……龍生く、ん……」
「冬、美……?」
俺の存在に気がついていないようだ。
なににせよ、冬美はおかしい。
今までは取り繕えていたが、その化けの皮が剥がれようとしている。
「あ、龍生くん──上がってたんなら教えてくれたらよかったのに」
「声をかけたぞ」
「そうだったの? ごめん、私考え事してた」
「なにを考えてたんだ?」
冬美の顔から笑みが消える。
元から気色悪かったが、それ以上に恐怖が込み上げてきた。
「なにって──昔のことに決まってるじゃない」
「…………」
「わからない? あなたと出会って、私の人生が終わったときのことよ」
「なんだよ、それ。まるで俺が悪いみたいじゃねぇかよッ!」
ついカッとなってしまった。
これから同居するのに、関係を悪くしてしまっては居心地が悪い。
「あ、ごめ──」
「さよなら」
鈍い音がした。
「え──?」
冬美は研いだ包丁を自分に突き刺していた。
少しも躊躇がなく、冬美は笑っていた。
「全部全然、あなたのせい」
言葉にならないほどの痛みが襲いかかる。
「どう、して……」
冬美の腹を貫いていた包丁は、次は俺に突き刺される。
「あなたが私を刺した……。私は、抵抗しただけ…………」
「は──はぁ?」
「さよなら、殺人者さん」
冬美は安らかな表情で意識を失った。
そんなの、あんまりだ。
俺はようやく刑務所から出てきたというのに。
痛い。
寒い。
「どうして、こんなことに……」
なにかに縋ろうと手を伸ばすが、無理だった。
この部屋には、なにもないのだから。




