第76話:妃菜のハジメテ
テレビが消えたリビングは静寂に包まれ、妃菜の僅かな息遣いさえよく聞こえた。
「お、俺たちって──付き合ったの?」
沈黙が気まづくなって思わず聞いてしまった。
思い返してみると、俺は『付き合ってください』を言わなかった。
一人だけ付き合ったと勘違いして、後になって『え、付き合ってないけど?』と鼻で笑われるのは嫌だ。
──妃菜はそんな冷たい奴じゃないが、何が待っているかわからない。
「付き合ってない、の……?」
「付き合った、のか……?」
妃菜は少しだけ残念そうに肩を窄める。
責任を取らなきゃ──。
俺は彼女の手を握る。
初めは冷たかったのがすぐに熱くなった。
「妃菜。頼りない俺だけど、付き合ってくれないか……?」
「うん、もちろん。付き合って!」
もう一度彼女を抱き寄せる。
俺の胸にすっぽり収まってしまうその背中は、庇護欲を大いに揺さぶった。
妃菜の両肩を掴む。
力を入れてないはずが、彼女は驚いたように体を震わせた。
「ひ、ひーくん……?」
甘くなった声が、頭の中を狂わせる。
リップが塗られた唇は、ふわりと柔らかそうで、目が離せなくなった。
これから起こることを察したのか、彼女は目をゆっくり閉じる。
俺は、妃菜の唇に口付けをした。
全身が溶けそうな思いになる。
しかし、朦朧としていたが、すぐに意識が戻った。
「んん──!?」
口の中に暖かなものを感じた。
息ができない。
肩を軽く叩いてやると、彼女の顔はゆっくりと離れていく。
「…………なにか変だったかな?」
妃菜は小さく首を傾げた。
……可愛い。
小動物のようで、思わず頭を撫でてしまった。
不服そうに唇を尖らす。
「ごめん。ちょっと驚いただけだよ」
「……?」
「えっと──、キスが……」
なんて言えばいいんだろう。
付き合って一回目のキスが、こんなにも濃厚なものだとは思わなかった。
それを直接言うのは気が引けて、遠回しに伝えることしか出来なかった。
「あ、ああ……私、そんなことを……!?」
話を聞いて、顔を真っ赤にした妃菜は、俺の胸をバシバシ叩いた。
もっとも、少しも痛くなかったが。
「驚かせてごめんね。初めてだったから……」
初めて。
その言葉を聞いた瞬間、胸がきゅっと苦しくなる。
妃菜と本当に付き合ったんだ、という歓喜と、俺は初めてじゃなかった罪悪感。
俺の初めては、無理やりだったが冬美に奪われた。
今までは何も感じなかったのに、今になって胸が苦しくなる。
「──大丈夫だよ」
その言葉で顔を上げると、彼女は悲しそうな目をしていた。
妃菜は賢い。
察したのだろう。
返す言葉が見つからなかった。
俺が黙っていると、妃菜は二度目の口付けをしてくれた。
「大丈夫。あの女のことは私が忘れさせてあげるから」
彼女の細い手が背中に回される。
俺も応じるように手を回すと、妃菜ははにかんだ。
過去は変えられない。
でも、妃菜となら、浮気されてどん底にいた俺を救ってくれた妃菜とだったら──
妃菜を絶対に幸せにしよう。
そう決意して、今度は俺から口付けをした。




