第56話:龍生、自業自得の涙
コト、と音を立てて、龍生は目の前にコーヒーが注がれたカップを置く。
見た目は──いつもと変わらない。
微かにナッツの香りがして、目を細めた。
「ありがと」
龍生は意外と育ちがいい。
ご飯を食べる前には必ず手を洗うし、料理の腕は私以上だ。
「先に飲んでいていいよ。俺は手を洗ってくる」
「わかった。いただきます」
どこかの高級菓子が盛り付けられた皿を前に、龍生は手を洗いに部屋から消えた。
私はすかさず、目の前に置かれたカップを、龍生の物と変える。
幸いにも、どちらも同じ見た目で助かった。
「いただきます」
自然を装うために、私はお菓子の山からフィナンシェを一つ手に取って、袋を破いて口に運ぶ。
濃厚なバターが凝縮された味に、思わず頬が緩む。
彼がくれる物は全て一級品だ。
しかし、『女は金を使えば操れる』と思っていそうでムカつく。
などと考えていると、龍生が戻ってきたのが足音でわかった。
「ただいま。──あれ、コーヒーをまだ飲んでいないのか? せっかく温めたんだ。早いうちに飲んでくれ」
「そうだったね。今飲むね」
「ああ……それでいい」
不気味な笑みを浮かべる龍生の隣で、私は一口コーヒーを啜る。
その様子を見てから、彼もコーヒーを口に運んだ。
音を立てずに飲む姿は上品で、見惚れるくらいだった。
「それで──どうして尋ねてきたんだい?」
数分間談笑した後、突然龍生が口を開いた。
ヤバい。と私が目を逸らすと、龍生は再び問いかけてくる。
「どうして……尋ねへきたん、ひゃい?」
「なに……。怖いんだけど」
龍生の言葉が、粘りつくような違和感とともに途切れる。
「あれ……? な、んか……おかし……」
膝に力が入らず、龍生は椅子から崩れ落ちるように床へ沈み込む。
額にはダラダラと汗をかき、指一つ動かせないまま、
「ごふっ、おえっ……!」
龍生は口元を押さえる間もなく、その場に激しく嘔吐した。
床に這いつくばり、自分の吐瀉物にまみれながら、彼は必死に空気を吸い込もうとする。
しかし、意識のシャッターは容赦なく下りていく。
「……ねえ、自分の薬の味はどう?」
朦朧とした状態の龍生は、最後に「クソ女……ッ」と呟いて意識を途切れさせた。
指先は痙攣で震え、呼吸はヒューヒューと惨めなものになっている。
死なれたら困るので、私はすぐに救急車を呼んだ。
数分も経たないうちにサイレン音が聞こえた。
眼下で倒れている龍生の目には、微かに涙が溜まっていた。
◇
苦しい……
気持ちが悪い……
俺は、どうして病院に……?
白い天井と消毒の匂いを感じながら、曖昧な記憶を辿る。
そうだ。恋春に睡眠薬を飲ませようとして──。
もしかして、俺が睡眠薬を飲ませることを予測していたのか?
今すぐにでも復讐してやりたい。
あの女は何が不満だったんだ?
俺は他の女と同じように愛してやったし、散々金を使ってやった。
まあ、そのお金の出どころは、父親が仕事で得た、惨めな政治家からの賄賂だが。
何にせよ、俺は悪事を働かずして得た金だ。俺自身が罪を問われることはないはず。
……いや、俺は恋春に薬を飲ませようとした。
しかも、バレないようにコーヒーに混ぜて。
やらかした。
恋春が眠った後に、俺がした証拠を全て揉み消そうと思っていたが、全てが台無しだ。
「っ……ぅ……」
情けない声が口から漏れた。
俺がどれだけの間記憶を失っていたかわからない。
体を動かそうとすると、地獄のような吐き気が込み上げてくる。
駄目だ、動かない。
俺はもう二度と家に帰れないのではないか。
そんな不安で、今にも押しつぶされそうだ。
霞む視界の中、天井を眺めていると、病室の扉が開く音が聞こえた。
「龍生くん! 龍生くん……ッ!」
冬美だった。
今はコイツの顔も見たくない。
声を出そうとしても出ず、冬美を拒絶することすらできない。
コイツはイラついている時に相手にするのは苦痛でしかなかった。
重い女で、かまってちゃんだ。行動の一つ一つが鬱陶しい。
どうして俺がこんな目に……
父親の権力でどうにかなると思っていたが、恋春は想像以上に頭のいい女だった。
彼女のせいで、俺は学校の人気者から嫌われ者に成り下がるのを、この時の俺は知る由もなかった。




