第8話 八日目「古参兵はわざと倒れると地面を割る」
ガドが自然に倒れると、地面に人ひとり分の穴が開いた。
土煙の向こうで、角の生えた巨体が仰向けになっている。
「どうだ」
「自然が敗北しました」
八日目の朝。
ミロを街道の休憩所へ残し、俺は北の林に隠された魔族の臨時詰所へ来ていた。
次の模擬戦へ向けた配置確認である。
昨日、アルマの幻影を前にしたミロは四秒立った。今日はガドの部隊を前に、せめて十秒は倒れずにいてもらう。そのあと全員が怪我なく退き、勇者が街道を進む。
文章にすれば三行だった。
現場へ持ってくると、最初の一行で地形が変わった。
「自然に倒れろとは言いました」
俺は穴の縁から下をのぞいた。
「自然を破壊する勢いで倒れろとは言っていません」
「加減した」
「どのあたりを?」
「城門なら半分は埋まっていた」
比較対象が悪い。
ガドは穴から起き上がり、軍服についた土を払った。四十を越えた古参兵で、肩幅は俺の二人分ある。顔の傷は増えていないが、敗北役を命じられてから眉間の溝だけが深くなった。
周囲では十二人の兵が、見ていないふりをしていた。
全員、出陣前の靴紐までガドに確認された者たちだ。
だから誰も笑わない。
「隊長が倒れる必要はありません」
俺は地図を広げた。
「街道の曲がり角で三人が姿を見せる。勇者が剣を抜いたら、残りが音と煙を出す。前列は二歩下がり、合図で森へ退く。追撃させる必要もない」
「部下へ、勇者を見ただけで逃げろと命じるのか」
「命じるのは俺です」
「ならば俺が立つ」
「あなたが立つと、勇者が逃げます」
「追えばよい」
「さらに速く逃げます」
「追い詰めれば」
「置いてきた俺を助けに戻ってきます。そこであなたに殴られます」
七日かけて学んだ、かなり正確な予測だった。
ガドの鼻から長い息が出た。
「弱いのか、強いのか、どちらだ」
「戦いから逃げる点では一流です。人を置いて逃げる点では、才能がありません」
「面倒な勇者だな」
「同感です」
兵の一人が、ほんの少し口元を緩めた。
ガドは笑わなかった。
「レオル。おまえは、我らを何だと思っている」
声が変わった。
大きくはない。二年前、崩れた城で梁を支えていたときと同じ、力を使う前の声だった。
「アルマを救うための協力者です」
「地図の上ではな」
ガドは俺の白墨を取り、街道へ置いた十二個の印を太い指でこすった。
「こいつには娘がいる。こいつは兄を人間兵に殺された。こちらは昨日、初めての子が生まれた。それでも陛下のためなら退くと言った」
白い印が、土の上で形を失った。
「だが、おまえの紙には前列、煙役、負傷役としかない」
反論はできた。
名前まで書けば命令書を奪われたとき危険だ。役を短くしたほうが現場で迷わない。全員の事情を聞いていたら百日では足りない。
どれも事実だった。
それでも、さっきまで俺は十二人の顔を見ず、白墨だけを動かしていた。
「負け方が悪ければ、死者が出ます」
俺は白墨を拾った。
「だから役が要る」
「役を決めるなとは言っていない」
ガドは穴を見た。
「倒れる者へ、なぜ倒れろと言うのか話せ」
「全員、期限は知っています」
「期限と命令は聞いた。おまえの口から、頼みは聞いていない」
頼む。
その一語だけが、命令書のどこにもなかった。
俺が口を開く前に、林の外で馬具が鳴った。
兵たちの手が一斉に剣へ伸びる。
「剣を抜くな」
ガドの声で、十二の手が止まった。
黒い外套の男が一人、木々の間から現れた。
胸元には摂政府の銀札。腰には剣でなく、黒い革表紙の記録帳を下げている。
「演習監察だ」
男は銀札を見せた。
「敗北命令が魔王軍の戦力を不当に損なっていないか、摂政閣下の許可により記録する」
許可。
直命とは言わなかった。
三日目と五日目の偽命令は、どちらも運び手が「摂政の直命」と名乗った。だが紙も王印も偽物だった。目の前の男が本物の監察兵でも、二通の作成者だとは限らない。
ただ、記録帳を開いた瞬間、松脂の匂いがした。
同じ封蝋だ。
「監察なら、事前に連絡を」
「連絡した演習だけ見ても意味がない」
正論だった。
男は穴と、土に残る十二の印を順に記した。
「勇者との交戦を想定していたな」
「部隊の転倒訓練です」
「転倒でこの穴を?」
男がガドを見る。
「勇者の気迫だ」
ガドは真顔で答えた。
かばうなら、もう少し信じられる嘘を選んでほしい。
監察兵の筆が止まった。
「勇者はここにいない」
「遠くから感じた」
「街道の休憩所から半里ある」
「強い気迫だ」
勇者本人が聞けば、逃げる距離が半里延びる。
監察兵は表情を変えず、記録帳を閉じた。
「模擬戦の実施時刻と配置を提出しろ」
「配置は変更します」
俺は地図から街道の印を消した。
「この部隊は勇者と交戦させない」
ガドがこちらを見る。
監察兵の目だけが細くなった。
「王命への不服従か」
「俺の限定命令書には、指定街道の配置変更が認められています」
「理由は」
林の上で、低い雷が鳴った。
朝から西にたまっていた雲が、山の稜線を越えている。街道の先には川沿いの村がある。昨夜、休憩所の主人が、古い水門の軋みを話していた。
雨の匂いが濃い。
「川筋の避難補助へ回します」
「魔王軍が人間の村を救うと記録しろと?」
「記録しなくて結構です」
俺はガドを見た。
「戦う役ではありません。水門が壊れたとき、森側から流木を外す。住民には姿を見せない」
また役を渡している。
だが今度は、白墨の印へではない。
「頼めますか」
ガドはすぐに答えなかった。
十二人を見て、一人ずつ顔を確かめる。
「戦わずに守る仕事か」
「そうです」
「敗北ではないな」
「川に勝つ必要もありません。全員戻れば十分です」
ガドは穴の中の大石を片手で持ち上げた。
「ならば、引き受ける」
兵たちが動き出す。縄、斧、雨具。俺の指示を待たず、必要な物を互いに渡していく。
監察兵はその様子まで記録し、馬へ戻った。
「摂政閣下へ報告する」
「一つ確認を」
男が振り返る。
「その記録帳の紙は、どこの物です」
「報告に必要な質問か」
「いいえ。俺に必要な質問です」
答えはなかった。
馬の音が林の外へ消える。
松脂の匂いだけが残った。
ガドが大石を地面へ置く。
今度は穴が増えなかった。
「レオル」
「はい」
「次に俺を倒れさせるときは、先に頼め」
「その前に、倒れ方を小さくしてください」
「善処する」
アルマと同じ返事だった。
不安しかない。
林を出ると、最初の雨粒が地図へ落ちた。
街道の先で、警鐘が鳴り始めていた。
勇者との戦闘は中止した。
代わりに、川が村へ攻めてきた。




