第9話 九日目「勇者の初仕事は川止めだった」
勇者は川を見た瞬間、反対方向へ走り出した。
「ミロ!」
「高い場所を見てきます!」
逃げてはいなかった。
たぶん。
九日目の夜明け前。
俺たちがフィーネ川沿いの村へ着いたとき、道はすでに足首まで水につかっていた。
雨は一晩中降り続いている。
川沿いの堤から、茶色い水が薄くあふれ、家と家の間へ流れ込んでいた。村人は荷物を抱えて東へ逃げようとしているが、そちらの橋は中央が沈み始めている。
警鐘だけが、雨より必死に鳴っていた。
「勇者様が来たぞ!」
誰かが叫んだ。
直後に、当の勇者は坂の上へ消えた。
村人の期待も一緒に消えかけた。
「退路の確認です!」
俺は叫んだ。
ミロがそう言っていたから、嘘ではない。
ただし、本人が戻る保証までは含まれていなかった。
水が膝へ上がる。
俺は腰の白墨を諦め、赤い布を家の戸へ結んだ。
「歩けない者がいる家は赤。子どもは鐘楼へ。荷車は坂へ向けろ。橋へは行くな!」
声を張った途端、近くの家の扉が開いた。
老人を背負った女が出てくる。
その後ろから二人。
俺は人を運ぶ役、道を空ける役、戸を叩く役へ分けた。
動き始めれば、恐怖は仕事になる。
問題は、水のほうが俺の段取りを待たないことだった。
「堤の上流が詰まった!」
鐘楼から男が叫ぶ。
「流木が水門へ引っかかってる。放水路が開かない!」
川を止めることはできない。
逃がす場所を作るしかない。
だが村の西にある古い放水路は、十年前に水車小屋が廃業してから使われていない。入口の水門が開かなければ、次の増水で堤が割れる。
俺は道具袋の紐を握った。
長さが足りない。
滑車も、固定できる梁もない。
舞台なら幕を下ろせば場面を終えられる。川には幕がない。
「レオルさん!」
坂からミロが戻ってきた。
一人ではない。
両腕に子どもを一人ずつ抱え、背中へ老婆を負っている。さらに後ろから、山羊を引いた少年と、濡れた犬までついてきた。
「高台に五軒あります。全員、鐘楼へ移せます。でも東の橋は使えません」
「知っています」
「西の水車道が空いています」
ミロは息を切らしながら、配達鞄から濡れた地図を出した。
「去年、冬の薬を届けました。水車小屋の裏から丘へ抜ける道です」
「放水路の中では?」
「道は一段高いです。ただ、途中が切れています」
「切れている道を、空いているとは言いません」
「配達では、二歩なら飛べます」
「老人と山羊は?」
ミロは黙った。
勇者一人なら逃げられる。
村人を連れれば、道が足りない。
いつもの問題だった。
「舞台板はどこです」
俺が聞くと、村長らしい男が目を瞬いた。
「こんな時に芝居をする気か」
「祭りで使う板です。長い物を全部」
男が鐘楼の倉庫を指した。
中には雨除けをかぶせた板が二十枚、脚台が八つ、太鼓が一つあった。
太鼓以外は使える。
いや、太鼓も使える。
「ミロ。高台まで走って、戸を叩く。戻りながら、西へ進む家へこの赤布を渡してください」
「川から離れる方向ですね」
「全員を連れて戻れる道だけ選ぶ」
「分かりました」
ミロは走った。
今度は誰も、勇者が逃げたとは言わなかった。
俺は村人と祭りの板を運ぶ。
放水路へ着くと、ミロの言ったとおり、石積みの道が途中で二歩分ほど崩れていた。下では濁流が渦を巻いている。
脚台を横へ倒し、板を二枚重ね、舞台幕の綱で両岸へ固定する。
祭りなら役者が一人渡れば済む。
今日は老人、子ども、山羊、荷物が渡る。
板がしなるたび、俺の寿命も同じだけ縮んだ。
「一人ずつ! 荷物は先に綱へ結べ。板の上で止まるな!」
ミロが先頭と最後尾を往復する。
怖くなるたび安全な岸まで走り、誰かが残っているたび戻る。
往復の数だけ、避難者が増えた。
最後の家族を渡したところで、上流から角笛が二度鳴った。
ガドの合図だ。
森側へ回った部隊が、流木を外す位置へ着いた。
姿は見えない。
人間の村人が見れば混乱する。彼らは川の反対側から、流れを塞ぐ枝だけを引く。
だが流木を外せば、水量は一度増える。
その前に水門を開けなければ、堤がもたない。
「水門の巻き上げ綱が腐ってる!」
村長が叫んだ。
古い木の門は半分まで泥へ埋まり、太い綱は毛羽立っている。引けば切れる。
聖剣でも切れない。
切る必要もない。
ミロが水門の横へしゃがみ、泥を手で掘った。
「ここに車輪の跡があります」
「水車小屋ですからね」
「違います。荷車を横づけした跡です。昔は、車軸で門を引いていたんです」
石の溝が、道から水門の柱まで続いている。
配達人は道を見る。
俺は上を見る。
柱の上には、錆びた鉄輪が二つ残っていた。
「荷車を二台。車輪を石で止める。綱は舞台板の下から外せ!」
村人が走る。
俺は太い幕綱を鉄輪へ通し、左右の荷車へ結んだ。
ミロが結び目を引き、首を振る。
「この向きだと荷が滑ります。輪を一つ戻してください」
言われたとおり直す。
荷物を壊さず運ぶ結び方だった。
角笛が、もう一度鳴った。
時間がない。
「引け!」
二頭の馬が前へ出る。
綱が張る。
水門は動かない。
柱が悲鳴を上げた。
ミロが一歩退いた。
さらに二歩。
逃げる。
水門ではなく、馬の前へ回った。
「まっすぐじゃない! 左の車が先です!」
片方の荷車の車輪が泥へ沈んでいる。
ミロは手綱を取り、馬を半歩だけ斜めへ進ませた。張っていた二本の綱が同時に揃う。
門が、指一本ぶん浮いた。
泥水が隙間へ吸い込まれる。
「もう一度!」
村人が車輪を押す。
俺も綱を引いた。
水門が上がる。
川が吠えた。
茶色い水が放水路へ流れ込み、さっきまで人が渡っていた板橋を一息でさらった。
全員、向こう岸にいる。
遅ければ、橋ごと消えていた。
上流から大きな音がした。
流木が外れた。
増えた水は開いた放水路へ曲がり、廃水車の谷へ落ちていく。堤からあふれていた流れが、少しずつ低くなった。
誰も川へ勝ってはいない。
ただ、川の行き先を一つ増やした。
それで村は残った。
雨が弱くなったのは、昼を過ぎてからだった。
鐘楼の下には、避難した村人が集まっている。
疲れ切ったミロが石段へ座ると、村長が濡れた帽子を脱いだ。
「勇者様。川まで止めるとは思わなかった」
「止めてません。逃がしただけです」
「わしらも一緒に逃がした」
「それは、そうです」
ミロは反論を諦めた。
村人たちが笑う。
昨日までなら、逃げたと言われるたび肩を縮めていた。
今日は濡れた顔のまま、少しだけ笑い返した。
「逃げる道を作るのも、勇者の仕事かもしれません」
誰に言うでもなく、ミロがつぶやいた。
右手の包帯が、薄く光った。
雨雲の切れ目から、夕日が差す。
西の丘に、巨大な石門が見えた。
黒曜城へ続く最初の関門だ。
門の前で、石像がこちらを向いた。
昨日まで眠っていたはずの目が、赤く光っている。
川は止めなくても通してくれた。
門番は、そうはいかないらしい。




