第7話 七日目「魔王様の負け台詞が怖すぎる」
魔王の仕事は、勇者へ負けることだ。
少なくとも、今日の予定ではそうなっていた。
「台詞は覚えましたか」
俺は黒い通信鏡へ向かって尋ねた。
鏡の中で、アルマが玉座へ座っている。
背後には黒い柱。
左右に家臣はいない。
これから村の広場へ幻影を出し、勇者を名指しで挑発するため、人払いをさせていた。
「覚えた。『勇者ミロよ。私は黒曜城で待つ。力をつけ、いずれ私を倒してみせよ』」
「そのまま言ってください」
「分かっている」
「付け足さない」
「分かっている」
「殺気を出さない」
「それは難しい」
そこを分かってほしかった。
七日目の朝。
寺院の祝福式へ行けなかった代わりに、俺は村人たちの前で小さな芝居を打つことにした。
魔王本人が勇者を名指しし、黒曜城で待っている。
そう見えれば、ミロは一匹も倒していなくても、魔王から名を覚えられた勇者になる。
昨日助けた六人も証人だ。
花を受け取るより、よほど強い噂になる。
もちろん、アルマと話を合わせた芝居だと知られれば、昨日までの評判まで作り物だと疑われる。
分かっている。
それでも、黒冠は正直な評判が育つまで待ってくれない。
問題は、演者だった。
アルマは嘘が下手だ。
六年前、月灯り座で初めて悪役を任されたとき、「この毒を飲め」と言う場面で、本当に毒が入っているような声を出した。
相手役が台本を忘れて逃げた。
客は喜んだが、芝居は終わった。
黒曜城の小劇場を作ってからも二年間、改善はしていない。
兵士への慰問劇で降伏を勧めたところ、最前列の全員が本当に武器を置いた。
今日は、逃げる相手が世界で唯一の勇者である。
できれば終わらせないでほしい。
「レオルさん」
広場の向こうから、ミロが来た。
肩の傷には新しい包帯。
五日目に宝箱から得た外套を羽織り、聖剣は背中へ負っている。
剣を抜かないほうが活躍することへ、本人も気づき始めたらしい。
「村の皆さんが、出発前に見送りをしたいそうです」
「ちょうどいい。勇者様には、ここへ立ってもらいます」
俺は広場の中央へ白墨で印をつけた。
「何をするんです?」
「少し、勇者らしく見える仕事を」
「梁を動かすより難しいですか」
「動かないでいるだけです」
「簡単ですね」
その言葉を禁止するのを忘れていた。
村人が集まる。
赤い屋根の家族。
水車小屋で怪我をした男。
荷車を出した若者。
宝箱は村へ残り、井戸の横で薬箱として働いている。蓋の銅飾りだけが、朝日に光っていた。
俺は広場の石台へ、黒曜城から送られた薄い石を置いた。
通信鏡をその前へ立て、光を合わせる。
アルマの影が、地面へ細く伸びた。
「何が始まるんです?」
ミロが小声で聞く。
「驚いても、倒れないでください」
「どういう仕事ですか、それ」
答える前に、昼の光が消えた。
広場の中央へ、黒い炎が一本立つ。
炎は人の輪郭を取り、長い髪、二本の角、金色の目を形作った。
実物より少し大きい。
俺は等身大と頼んだはずだが、魔王側の等身には威厳が含まれるらしい。
村人が息を呑む。
ミロの右手が光った。
包帯の下で勇者印が、初めてはっきり反応している。
幻影のアルマが目を開けた。
「勇者ミロよ」
広場の窓が全部鳴った。
鶏が五羽、同時に伏せた。
村人は十二人が膝をつき、三人が井戸の陰へ隠れた。
赤い屋根の子どもだけが逃げ遅れ、ミロの外套をつかむ。
ミロは井戸の陰へ一歩下がった。
逃げる判断だけなら、村で最も速かった。
だが外套を握る小さな手に気づき、子どもを自分の背へ回す。そこで足を止めた。
逃げ道は見つけた。
使えなくなっただけだ。
顔は完全に青い。
「わ、私です」
配達の受取確認みたいに返事をした。
アルマの幻影が、ほんの少し目を細めた。
台本にない反応である。
「その矮小な身で、我が前へ至れると思うか」
付け足した。
「魔王様」
俺は石台の横で、小声を出した。
幻影は止まらない。
「おまえの剣は血を知らず、腕は細く、足元には敗北の臭いが染みついている」
事実を並べるな。
ミロの膝が震える。
子どもが外套を握ったまま、見上げていた。
逃げれば、その子を魔王の前へ残す形になる。
ミロは一歩だけ前へ出た。
「まだ、スライムにも勝てません」
村人がざわめいた。
そこは公表しなくていい。
「でも、ここから逃げたら、魔王城へ荷物を届けられないので」
「荷物?」
アルマが素で聞き返した。
「僕が行きます。百日以内に」
ミロの声は震えていた。
それでも、最後まで言った。
右手の光が一度強くなる。
アルマの黒い炎が、その光へ反応して広がった。
広場の石がひび割れる。
台本は、もう十分だ。
俺は石台へ布をかぶせた。
幻影の上半身が消える。
だが、アルマの声だけが残った。
「よい。ならば来い。地を這い、絶望を飲み、すべてを失って我が足元へ――」
石を横倒しにする。
声が途切れた。
広場へ昼の光が戻る。
誰もすぐには動かなかった。
ミロも立ったままだった。
正確には、立った姿勢で固まっている。
「勇者様」
肩へ触れる。
そのまま後ろへ倒れた。
今度は四秒もった。
成長している。
村人たちが我に返り、ミロへ駆け寄る。
怪我はない。
ただ気を失っただけだ。
昨日助けた男たちが肩と足を持ち、赤い屋根の家へ運んでいく。
「魔王へ言い返したぞ」
「あんなのを前に、逃げなかった」
「スライムには負けるらしい」
最後の情報だけ、広まる速度が速い。
それでも村人の目は、昨日までと違っていた。
剣の強さではない。
怖いのに一歩出た姿を見た。
予定していた負け台詞は失敗した。
勇者の評判は、少しだけ前へ進んだ。
夕方。
ミロが目を覚まし、村を出る準備を始めたあと、俺は一人で広場へ戻った。
倒した石を起こし、通信鏡を合わせる。
アルマがすぐに映った。
「なぜ途中で切った」
「村を滅ぼす予定はありませんでした」
「幻影だ。滅びはしない」
「石畳が割れました。鶏が五羽倒れました。勇者も倒れました」
「最後は立っていた」
「固まっていただけです」
アルマは不満そうに口を閉じた。
「演技としては、どうだった」
聞き方だけが、月灯り座のアナへ戻っている。
俺は答える前に、彼女の右手を見た。
玉座の肘掛けへ置いた指先が、小さく震えている。
本人は左手で押さえたが、止まらない。
「手、震えていますよ」
「少し、力の調整を誤っただけだ」
「ひびも伸びています」
「見えているなら聞くな」
アルマは右角を髪で隠した。
「百日目まで、もたせる」
「今夜は眠れ、レオル」
「自分の症状を隠しておいて、俺には休めと?」
「命令だ」
心配するときほど、王の声になる。
もたせるではない。
生きると言え。
喉まで出た言葉を、俺は飲み込んだ。
代わりに、鏡の角度を直す。
「次から台本どおりに」
「善処する」
王が使う善処ほど、信用できない言葉はない。
通信が閉じた。
百日は予言の期限であって、症状が百日間おとなしく待つという保証ではない。
今夜から、角のひびの長さと、指が震えた時刻を記録する。
勇者を前へ進めるだけでは足りない。
黒冠そのものも調べる。
街道口では、ミロが村人へ何度も頭を下げている。
子どもから干した果物を受け取り、配達鞄の空いた場所へ丁寧にしまった。
百日目、あの少年は幻影ではないアルマの前へ立つ。
百秒という数字に、神託上の意味はない。
玉座の間へ入り、名乗り、剣を抜き、アルマまで届く。
せめて、それくらいは倒れずにいてほしい。
俺が勝手に決めた仮目標だ。
今日は四秒だった。
残り九十三日で、あと九十六秒。
先は長い。
期限は短い。




