第23話 二十三日目「聖剣が案内役の服に反応した」
朝、街道宿の前で荷馬へ鞄を結んでいた。
背後で金属が鳴り、振り返るとミロが鞘ごと聖剣を両腕に抱え、俺と反対の道へ全力で走っていた。
聖剣だけがこちらを向き、紐でつながれた魚のように勇者を地面に引きずっている。
「レオルさん、逃げて!」
「剣を持っている本人が言わないでください!」
「止めてください!」
「止まってくれません!」
「あなたが止まるんです!」
ミロは踵で土を掘り、街道標へ片腕を回した。柄は俺の胸を指したまま震えている。
昨日まで反応したことはない。変わったのは一つだけだ。黒曜城でアルマが直した外套の襟。
「外套を脱ぎます!」
「急いでください!」
「引っ張らないで!」
留め具が喉へ食い込む。片手で外し、外套を道端へ投げた。
聖剣の向きが変わる。ミロごと外套へ向かって転んだ。剣先は鞘の中なのに、鞘ごと黒い布へ突き立とうとする。ミロは両腕で柄を押さえ込んだ。
「やめてください! 服です!」
聖剣は聞かない。スライムにも枝にも通らないくせに、俺の防寒具へだけ働く気がある。
「外套を着たまま、逃げなくてよかったですね」
ユラが宿の入口から出てきた。
「診察するなら助けてください」
「怪我人はまだいません」
「予定に入る前に!」
ユラは薬箱を地面へ置き、外套へ近づいた。
「触らないで」
俺とミロが同時に言う。
「意見が合いましたね」
ユラはしゃがまず、目だけで布を追った。襟から黒い粒が一つ浮いている。煙でも埃でもない。アルマの魔力だ。
「その外套は、どこで手に入れました」
ミロが聞いた。街道標へ抱きついたまま、声だけは静かだった。
四日目、魔族の子どもが俺を名前で呼んだ。八日目、ガドと古くから知るように話した。十五日目、アナは黒い道を使い、俺へ命令した。昨夜、俺は魔族側の連絡路へ一人で入った。
あのときから、ミロは一度も問いを捨てていなかった。ただ順番を待っていただけだ。保留してきた少年が、いま順に荷ほどきを始めている。
「魔王軍から盗みました」
「いつ」
「二年前」
「どこで」
「三本杉より北です」
ユラが無言で記録帳を開いた。ペン先が紙に触れる音だけが聞こえる。
「そこまで言うんですか」
「昨日の道を見られています。旅芝居の小道具では足りない」
「なぜ魔王軍の物を持っているんです」
ミロの視線は外れない。
「月灯り座で、魔族の家族へ芝居を見せたことがあります。その帰り、襲われた補給隊の荷から拾った」
「答えになっていません」
その指摘は正しい。俺は少し間を置いた。聖剣の柄を睨み、次の言葉を選ぶ。
「レオルさんは、魔族の味方なんですか」
「人間の敵か、という意味なら違います」
「同じ質問ではありません」
今のミロは逃げない。逃げ道を確保したうえで、俺の答えを待っている。その成長を喜ぶ場面ではなかった。
「魔族にも、知っている者がいます。守りたい者も」
「魔王軍にも?」
答えれば計画の中心へ届く。嘘をつけばこれまでのすべてが崩れる。
俺は息を吸い、吐き、最も狭い真実を選んだ。
「そういう相手もいます」
ミロは納得しなかった。納得しないまま、次を聞かなかった。
「まず、剣を止めます」
ユラが言う。記録帳を閉じず、手元だけ動かして薬箱を少しずらした。
「外套を遠ざけて反応距離を測ります。危険なら中止。切れるかどうかは試しません」
「なぜです」
「外套の中に人がいた場合と、条件が変わるからです」
俺は長い荷紐の先へ外套を結んだ。ミロは聖剣を鞘ごと抱えたまま、街道標から離れる。
「十歩から」
外套を引く。十歩では柄がわずかに鳴る。七歩で鞘が布へ向く。五歩でミロの腕ごと引かれる。
「止めます」
ユラが即座に言った。俺は外套を土の上へ戻す。
「ほかの魔族の布はありますか」
「撤退合図用の端切れなら」
鞄から黒い布を出した。ガドの部隊で使うものだ。聖剣は動かない。同じ色でも、ただの魔族の品には反応しない。
「魔王軍から盗んだ布、という説明だけでは足りません」
ユラが記録する。ペン先が一度止まり、現象だけを書いた。推測は書き込まない手元だった。
「その外套には、別の魔力が残っています」
「誰のですか」
ミロが聞く。
「答えられません」
ユラは俺を見た。
「診察ではないので、守秘にもできません」
「報告しますか」
「現象は。推測は書きません」
事実だけが、また俺の秘密へ近づく。
俺は外套を裏返し、襟を水で洗った。黒い粒が一つ、二つ流れる。干してから再び近づけると、聖剣は七歩でわずかに鳴るだけになった。まだ残っている。消えたわけではない。
「まだ残っています」
「今日は着ないでください」
「冬です」
「昨夜も同じことを言いました?」
ユラの観察が、余計なところまで届いた。
ミロが自分の予備外套を差し出す。
「これを」
「あなたが寒くなります」
「走れば温まります」
「逃げる予定で防寒を決めないでください」
三人目の治療対象になる発想だった。結局、宿の毛布を一枚買い、肩へ巻いた。英雄祭の町へ向かう道で、子どもに二度笑われた。舞台衣装としても弱い。
夕方、ミロが歩きながら聞いた。
「魔王は、どんな人ですか」
今度は味方か敵かではない。個人を尋ねる質問だった。
「負けるのが下手です」
「強いから?」
「性格です」
「怖いですか」
「怖いですよ」
失うのが、とまでは言わなかった。ミロはしばらく黙った。風が街道を渡り、聖剣の紐が軽く揺れたあと、短く結び直した。
「次に剣が引っ張ったら、先に僕が逃げます」
「俺を置いて?」
「外套を持って、一緒に」
逃げ方だけは、こちらの望む方向へ育っている。疑念は消えていない。それでも、一緒に逃げる選択を残した。
ユラの記録帳には、その日の最後に一行が増えた。
《聖剣は人間の案内役でなく、外套に残る正体不明の魔力へ反応》
人ではなく、まとったものへ。勇者の剣が追っているのは、アルマという女ではなく、《魔王》の役なのかもしれない。
まだ仮説だった。だが、言葉の穴に初めて、指を掛けられる縁ができた。
百日目まで、残り七十七日。




