第22話 二十二日目「城へ戻るのは一晩だけ」
好きな女へ会いに帰る理由が、古文書の確認だった。
俺たちらしいと思う。
もう少し何かあるだろうとも思う。
二十二日目の夕方。
街道宿の裏にある空の薪小屋で、黒い影が壁へ縦に開いていた。
城側から固定した影道だ。十五日目、アルマが自力で開いて帰れなくなった道とは違う。黒曜城の術者が出口を支えるため、通る者の消耗は少ない。
少ないだけで、ないわけではない。
「一往復だけだ」
影の向こうからガドが言う。
「日付が変わる前に閉じる。遅れたら歩いて戻れ」
「黒曜城からですか」
「裏方なら道を作れるだろう」
「大陸規模の大道具は担当外です」
背後で床板が鳴った。
ミロが薪小屋の入口から顔を出す。
「やっぱり、そこにいたんですね」
黒い道を見られた。十五日目より説明が難しい。
「知り合いの連絡路です」
「普通の知り合いは、壁を夜にしません」
成長している。追及の仕方が。
「北へ飛んだ虫の件で、魔族側の記録を確かめます。朝には戻る」
「一人で?」
「あなたが来れば、勇者が魔族の連絡路へ入ったことになる」
ミロは影道と俺を見比べ、入口の柱に手を置いたまま動かない。
「レオルさんならいいんですか」
「よくありません。だから秘密です」
「……それでも、戻らなかったら追いかけます」
「どこへ」
「道は覚えました。入口が閉じても、開く人を探します」
約束した相手を、入口に置いていけない声だった。疑いは残したまま、待つ側に立つことを選んでいる。
ユラも入口まで来た。
「右手を」
「出発前に診察ですか」
「黒い道を通った人は、指先が冷えるのでしょう」
アナの症状を覚えている。俺の指へ触れ、体温と爪の色を見る。
「帰ったら、もう一度。戻らなければ、患者が逃げたと記録します」
「患者ではありません」
「今からです」
同行者が二人とも、戻る前提で話を終えた。
俺は影へ入った。
冷たい水を一息でくぐる感覚があり、次の瞬間には黒曜城の小劇場へ立っていた。
偽処刑台。黒布の幕。壁の工具棚。
二十日ぶんしか離れていないのに、二年前へ戻ったように見えた。
「遅い」
アルマが舞台の中央にいる。
「昨日も聞きました」
「今日は直接だ」
「声の圧が増えていますね」
「会えば黙ると思った」
「逆でした」
互いに三歩で届く距離まで近づいた。
止まる。
抱き締めれば、冷えが分かる。抱き締めなければ、仕事の顔でいられる。
俺は視線を工具棚へ落とし、鞄を置いた。アルマは机へ神託の写しを置き、紙の端を指で揃える。
仕事が勝った。
「原本は」
「記録庫から出せない。写字官二人に別々に写させた」
「文面は一致?」
「句読点まで」
有能な王の仕事だった。
紙には古い言葉で、黒い太陽が昇った百日後、勇者の手によって《魔王》が死ぬとある。何度読んでも、アルマの名はない。
「歴代の記録に、魔王と個人を分けた例は」
「ない」
「黒冠を外した例」
「ない」
「勇者が斬り損ねた例は」
「国が二つ消えた」
選択肢が急に減った。
俺は写しを灯りへ透かした。余白に後世の注釈はない。削った跡もない。
「役だけを殺す、という考えは言葉の穴にすぎない」
アルマが言う。
「穴なら、広げます」
「世界の法則は舞台板ではない」
「舞台板も、客席から見えないだけで法則があります。支えを外せば落ちる」
「外す支えが分からない」
「だから調べています」
アルマの影が、彼女より半歩遅れて右へ動いた。昨日、鏡の中で見たのと同じだ。
「今のは」
「見るな」
「無理です」
影が床から伸び、アルマの外套へ重なる。何もない場所から、擦れた声がした。
人間を捨てろ。
音というより、言葉の形が頭の内側へ落ちた。
アルマの指が机をつかむ。
「いつから聞こえています」
「今、初めてだ」
「嘘ですね」
「命令だ。聞くな」
「答えになっていません」
黒い影がもう一度揺れる。焦げたパン。壊れたカップ。人間の名。捨てろ。
アルマは目を閉じた。
「三日前からだ」
蜂蜜の味を完全に失う前から。
「なぜ言わなかった」
「命令に影響はない」
「あなたにはある」
「私は魔王だ」
「それ以外を捨てろと言われているのでしょう」
アルマが目を開く。金色のままだ。
机の縁を強く握ったまま、誰に命じるでもなく、自分へ言い切った。
「捨てない」
短い言葉だった。命令ではなく、本人の選択だった。
俺は彼女の右手首へ触れた。十五日目より冷たい。
アルマは振り払わず、俺の袖をつまんだ。
一呼吸。
二呼吸。
三つ目の前に、影が俺の指へ伸びる。同時に手を離した。
「次の敗北について話す」
アルマが言う。逃げるためではない。今夜できる仕事を続けるためだ。
北の監察路はガドが調べる。二十四日目には人間の町で英雄祭が開かれ、勇者の評判を利用できる。二十五日目の近道には古い魔族集落がある。
俺は配置図へ書き込む。アルマは命令を出す。いつもの二人へ戻る。
影だけが、ときどき一拍遅れる。
深夜、ガドが小劇場の扉を開けた。
「道を閉じる」
「もう少し」
「一晩だけの約束だ」
アルマも同じ言葉を返す。
「帰れ、レオル」
俺は写しの文面を記憶し、立ち上がった。抱き締めなかった。別れの言葉も言わなかった。
また今夜、通信鏡を開く予定がある。予定は、別れを言わずに済ませるためにも使えるらしい。
影道を抜ける直前、アルマが俺の外套の襟を直した。指先が布に触れたまま、ほんの一瞬だけ留まる。
「魔力が残ります」
「知っている」
「勇者の前へ戻るんですよ」
「では、脱いで帰れ」
「冬です」
アルマは手を離した。ほんの一瞬、口元が笑った。その表情だけは、まだ忘れていなかった。
二十二日目の終わり。
薪小屋へ戻ると、ミロが扉の前で座っていた。
「おかえりなさい」
「寝ていなかったんですか」
「途中で逃げようかと思いました」
「なぜ残った」
「レオルさんが向こうに残っていたので」
逃げたあとに戻る勇者は、逃げる前から待つことも覚え始めていた。
百日目まで、残り七十八日。




