第21話 二十一日目「魔王様が好きな味を忘れた」
蜂蜜の味を説明しろと言われて、勇者は敗北した。
「甘いです」
「その甘いが分からない相手へ説明してください」
「とても甘いです」
「増やしても届きません」
二十一日目の朝。
三本杉街道の宿場で、ミロは蜂蜜を塗ったパンを前に考え込んでいた。
アルマが昨夜、蜂蜜の甘さを思い出せないと言った。味だけではない。甘いとはどんな味だった、と聞いた。黒冠の侵食が舌を鈍らせたなら治療の手掛かりがあるかもしれない。記憶そのものを削っているなら、話は違う。違ってほしいので、俺は朝から勇者を味覚辞典にしていた。紙を膝に置き、筆を握ったまま、ミロの口の動きを追う。
「口の中が、少し明るくなる感じです」
ミロが二口目を食べる。俺は紙の端を指で押さえ、すぐ次を促した。
「場所で説明しないでください。逃げ方で」
「でも、塩は狭くなる感じで、酸っぱいものは端へ逃げたくなる感じがします。苦いのは後ろへ下がって、隠れたくなる味です」
逃げ足を基準に味を分類する人間は初めて見た。俺は紙の「温度」欄に線を引きながら、アルマの昨夜の声を測るように聞いた。
「蜂蜜は?」
「蜂蜜は逃げなくていい味です」
その一言だけ、書き留める。筆が少し止まった。逃げなくていい、とアルマも言えるのか。言えないなら、どこまで削られたのか。紙の角を折って、次の欄へ移る。
向かいに座るユラが、俺の紙をのぞいた。視線だけを落とし、声は低くした。
「誰の診察ですか」
「言葉の整理です」
「朝食の途中で、味、温度、記憶の三欄を作る案内役は珍しいですね」
紙には、蜂蜜、干し果実、焦げたパン、薄い蕪スープと書いてある。アルマが人間界で好んだものだ。俺は紙を少し傾けて、三欄の区切りを見せたまま答えた。
「珍しいだけです」
「では、患者の名は聞きません」
ユラは追及せず、自分のカップへ湯を足した。湯気が二人の間を横切る。彼女は湯気の向こうで、紙の欄をもう一度だけ見た。
「ただし、味を失ったなら、匂い、舌触り、温度、いつからかを分けてください。記憶を失ったなら、誰に教えられた知識かも。監察の記録とは別に置きます」
診察を頼んでいないのに、診察の形だけが置かれる。ありがたい。それを言えば患者名まで渡しそうなので、俺は黙って書き足した。ユラの指がカップの縁を一度だけ撫でて、離れた。警戒は残っている。それでも枠だけを渡す、その距離が今は必要なものだった。
「レオルさん」
ミロが三口目を飲み込む。パンくずが指に残るのを、彼は気にせず拭った。
「その人は、蜂蜜が好きだったんですか」
「好きでした」
「今も?」
答えが止まった。好きだった味を忘れたとき、好きだった事実は残るのか。アルマは蜂蜜壺を机へ置いていた。嫌いになったとは言わなかった。ただ、味がないと答えた。俺は筆を置き、紙の「記憶」欄を指で押さえたまま言った。
「確かめます」
「届けるものがあるなら、運びます」
ミロは真剣だった。蜂蜜を魔王城へ届けさせるわけにはいかない。
「今はパンを運んでください。自分の口へ」
「もう四枚目です」
「十分です」
勇者の仕事は、朝食で打ち切った。
昼、ユラは昨夜の針羽虫の毒と餌札を寺院向けの報告へ分けた。虫が北へ飛んだ事実。第七記録班の名。勇者印を狙うよう餌付けされた可能性。摂政本人の命令とは断定できないこと。俺は報告を読ませてもらった。
「消してほしい箇所は」
「ありません」
「意外です」
「俺が持つ物証より、人間側の記録へ残したほうが消しにくい」
「では、案内役が魔族の監察制度に詳しい理由も書きますか」
「そこは意外なままにしてください」
ユラは余白へ短い線を一本引いた。嘘を見つけた線ではない。回答を保留された線だった。俺は彼女の筆の角度を見て、監視と守秘が同じ紙の上で並んでいることを確認した。
夕方、宿場の物置を借りた。扉へ鍵を掛け、窓を布で塞ぎ、通信鏡を机へ立てる。鏡面を指で二度鳴らした。黒い波が広がる。
「遅い」
アルマが映った。
「こちらにも日程があります」
「私より優先するものがあるのか」
「あなたを殺せる勇者です」
言葉にすると、毎回ひどい。アルマは命令書の束を脇へ押した。右角のひびは二本。昨夜と同じ長さに見える。見えるだけだ。俺は蜂蜜菓子を鏡の前へ置いた。同じものを、ガドに頼んで黒曜城側へ用意してある。アルマが銀紙を開く。指先が紙の端を一度だけ滑らせた。
「月灯り座の菓子に似せたのか」
「食べてください」
「命令するな」
「お願いしています」
アルマは一瞬だけ黙り、菓子をかじった。銀紙が机の上で小さく広がる。俺は紙を握ったまま、彼女の顎の動きだけを見た。
「温度は」
「冷たい」
「舌触り」
「外は硬い。中は粘る」
「匂い」
「花と、少し煙」
味以外は分かる。俺は次を急がず、銀紙の端を指で押さえた。
「何を食べています」
「蜂蜜を固めた菓子だ」
「なぜ分かる」
「お前が置いた。銀紙にも書いてある」
「昔、どこで食べました」
アルマの目が、菓子から外れた。視線が机の奥へ落ちる。
「月灯り座だ」
「誰と」
「お前と」
「どんな味でした」
沈黙が長くなる。鏡の向こうで、彼女の影だけが一拍遅れて顔を上げた。アルマ本人は動いていない。見間違いかもしれない。そう判断したかった。
「記憶には、菓子を食べた場面がある」
アルマが言う。声は平らだった。
「お前が半分を床へ落とした」
「床板が外れたんです」
「拾って食べようとしたので止めた」
「五秒以内でした」
「汚い」
会話は覚えている。俺の失敗まで正確だ。銀紙の折り目が、彼女の指の下で一度だけ鳴った。
「だが、味だけがない」
アルマは残りの菓子を机へ置いた。銀紙を戻す手が一拍遅れた。
「甘いという言葉を知っている。蜂蜜が甘いことも知っている。好きだったことも」
「だった?」
「今は、好きかどうかを舌で決められない」
右手が菓子から離れる。俺は紙の「記憶」へ丸をつけた。指に力が入り、紙が破れた。
「明日の配置を話す」
アルマが命令書を戻す。視線はもう菓子にない。
「北の監察路はガドが調べる。お前は勇者を次の町へ」
「逃げないでください」
「任務の話だ」
「味の話からです」
「確認は終わった」
「終わっていません」
声が大きくなった。物置の外で、誰かの足音が止まる。俺は息を落とした。破れた紙の端を、親指で押さえる。
「ほかに忘れたものは」
「ない」
「本当に?」
「命令だ。明日は街道を進め」
この女は、答えられないことを全部命令へ変える。六年間、知っている。その癖まで忘れられたら、俺はどう確認すればいい。銀紙が机の上で、小さく広がったまま残っている。
「毎晩、同じ時刻に鏡を開きます」
「不要だ」
「俺の仕事です」
「敗北係の仕事ではない」
「黒曜城の裏方として、壊れた場所を記録します」
アルマの指が、菓子の銀紙を一度だけ折った。
「好きにしろ」
許可ではない。拒みきれなかった声だった。
通信鏡が暗くなる。俺は破れた紙を伸ばした。蜂蜜の味。月灯り座の菓子。床へ落としたこと。俺と食べたこと。残っているものと、消えたものを分ける。物の修理なら、欠けた部品を探せる。記憶には、落ちた音がない。銀紙の折り目だけが、机の上に残っていた。
二十一日目にして、初めて百日後ではなく、明日のアルマが怖かった。
百日目まで、残り七十九日。




