第24話 二十四日目「英雄祭は本人抜きで始まる」
勇者が逃げたので、英雄祭は予定どおり始まった。
「主役がいません!」
「代役を立てました!」
町の広場で、ミロの二倍は肩幅のある男が聖剣の模造品を掲げた。声は澄んでいて、客の顔を一つひとつ拾うように響く。
「我こそは、魔狼百頭を一太刀で退けし勇者ミロ!」
本人は今、裏門から逃げている。
二十四日目の朝。
三本杉街道北の町へ入ると、門から広場まで勇者の顔が並んでいた。
似顔絵のはずだった。
どれも顎が広く、腕が太く、胸板は鎧を押し返している。
「僕ではないです」
ミロが一枚ずつ確認する。
「名前は合っています」
「顔が全部、違います」
「絵師が勇者らしさを足したのでしょう」
「僕らしさが残っていません」
言い返せなかった。
広場の垂れ幕には、《最強勇者ミロ凱旋祭》と書かれている。
最弱から最強まで、噂は二十三日で到着したらしい。
町長と祭り役が走ってきた。
「勇者様! お待ちしておりました!」
「僕は最強では」
「ご謙遜を! 弓兵三十人を一睨みで倒し、洪水を剣で割り、魔狼百頭の牙を抜いたとか!」
「全部違います」
「では、三十人より多かった?」
「少ない方向です」
訂正の入口から間違っている。
祭り役が分厚い台本を俺へ渡した。両手で丁寧に持っている。
「月灯り座の方と聞きました。英雄劇の監修を! 町の子どもたちが夜まで待てると言ってくれたので」
開く。
第一場、勇者ミロがスライムの軍勢を一撃で消す。
第二場、矢をすべて歯で止める。
第三場、橋を持ち上げてゴブリンを渡す。
第四場、魔王の幻影へ「震えて待て」と言い放つ。
事実が一つもない。
第四場だけ、今後の寿命へ関わるほど危険である。
「上演を止めます」
「もう客が集まっています。待たせると申し訳なくて」
「台本を直します」
「幕が上がります。役者も、今日のために声を整えてきました」
太鼓が鳴った。
仕事が速い。
悪い方向へ。
舞台へ、肩幅の広い勇者役が出た。
本物のミロは客席の端に立っている。
役者が偽聖剣を振る。布で作ったスライムが五体、いっせいに破裂した。中から金色の紙片が飛ぶ。子どもたちが歓声を上げた。役者は紙片の一つを拾い、子どもへ手渡してから次の台詞を続ける。
「僕は、最初の一匹に負けました」
ミロが小さく言う。
「今は勝てます」
「倒さずなら」
「それは台本より立派です」
「でも、誰も見たいものではないんですよね」
舞台では勇者役が矢を歯で受け止めている。仕掛け糸が丸見えだ。観客は笑っている。笑いは役者の動きに合わせて自然に続く。
次の場面で、勇者役が「逃げる者こそ卑怯者!」と叫んだ。
ミロの肩が、一度だけ動いた。
視線が舞台の役者へ向く。次に、笑っている客席へ。そして自分の足元へ落ちた。
口がわずかに開いて、閉じる。
「違う」
俺が舞台袖へ向かう前に、ミロが後ろへ下がった。
一歩。
二歩。
足が止まったまま、肩だけが小さく震えた。
そして走った。
客席の外へ消える。
「追います」
ユラが言う。
「俺が」
「あなたは台本を止めてください。逃げた人を、同じ台本を書いた人が追うと話が長くなります」
治癒師の判断は、傷がなくても痛い。
ユラがミロを追う。
俺は舞台袖へ入った。
「第三場を飛ばしてください」
「見せ場です! 橋を持ち上げるところ、子どもが楽しみにしています」
「橋を持ち上げたのは嘘です。落ちた橋から人を一人ずつ運んだ」
「地味では?」
「人が落ちています」
「祭りですので、死者は出ません。客を悲しませたくなくて」
「現実の話です!」
祭り役は困った顔をした。台本を胸に抱える手が、少し強くなる。
「ですが、客は強い勇者を見に来ています。町の噂をそのまま舞台にしたいだけで」
俺も、同じことをしてきた。
弱いミロを強く見せるため、スライムを吊り、矢を鏡でそらし、魔王の幻影まで使った。
違いは精度だけだ。
嘘の扱いが上手いから、俺だけは正しいとは言えない。
「強く見せる場面は減らさなくていい」
俺は台本を受け取った。
「ただし、本人がしていないことを本人の勇気にしないでください」
「では、何を」
広場の後ろで、荷車の音がした。
九日目、洪水の村から避難した家族が町へ来ている。
濡れた家財を運んだときと同じ、小さな荷車だ。
母親が、舞台の途中で手を挙げた。声は震えていない。
「勇者様は、川を斬っていません」
客席が静かになる。
祭り役の顔が青くなった。役者は偽聖剣を下ろしたまま、動かない。
「うちの子を背負って、坂を三往復しました」
隣の老人も立つ。
「水門まで走って戻った。自分は泳げないと言いながらな」
「流木を動かしたのは、魔族の大きな兵士だった」
「勇者様は、逃げ道を全部の家へ届けた」
俺の台本ではない声が、客席から増える。
肩幅の広い男が、舞台の端まで歩いてくる。
「その話を、演じても?」
「ミロ本人へ聞いてください」
本人はいない。
英雄祭は、ようやく主役が必要になった。
俺たちは町を探した。
ミロが逃げるなら、出口は三つ。
人混みを避ける東門。
荷車が通る南路地。
水場のある北の共同井戸。
自分だけなら東門へ行く。
誰かを置いてきたと思えば、戻る道を選ぶ。
広場の裏手で、ミロは止まっていた。
ユラと一緒に、祭りの飾りを運んできた子どもへ水を渡している。
「見つけました」
俺が言うと、ミロは逃げる方向へ半歩向いた。手はまだ水桶の縁に残っている。
「戻れとは言いません」
「祭りを止めましたか」
「本物の話へ変わり始めました」
「僕がいなくても?」
「あなたがいた場所を、助けられた人が覚えています」
ミロは水桶の縁をつかんだまま、指の腹で木目をなぞった。
「僕は、あんな勇者じゃないです」
「知っています」
「笑われるのは、平気です。でも、逃げなかったことにされるのは嫌です」
そこだった。
弱さを消されると、戻った選択まで消える。
「台本を直します」
「また、レオルさんが?」
「今回は、あなたが決めてください」
俺は祭り役の台本を差し出した。
ミロは受け取らない。視線だけが紙の上を滑る。
「書けません」
「では、話してください。俺が書く」
「逃げたところから?」
「そこを抜いたら、偽物です」
ミロは長く息を吐いた。肩の力が、少しだけ落ちる。
「スライムから逃げました」
「はい」
「弓からも、魔狼からも」
「知っています」
「毎回言わなくても」
「台本に必要です」
夕方、英雄劇は一場だけ上演し直された。
肩幅の広い勇者役が、洪水を見て逃げる。
舞台の端まで走り、子どもの泣き声を聞いて戻る。
川を斬らない。
荷車を引き、水門まで何度も往復する。
派手な爆発はない。
最後に、助かった家族が本物の荷車を舞台へ押した。
観客は笑わなかった。
拍手した。
本物のミロは、客席のいちばん後ろにいた。
舞台へ上がらない。
それでも逃げなかった。
終演後、子どもがミロへ木の小さな札を渡した。
《にげみちをとどけたゆうしゃ》
文字は曲がっている。
ミロは何度も読み、配達鞄のいちばん内側へしまった。
「今度は、本人に似ていますか」
俺が聞く。
「少しだけ」
「肩幅は足りませんが」
「あれは多すぎます」
祭り役は訂正した台本を次の町へ送った。
翌日には、勇者が洪水から千人を背負って逃げた話へ変わるだろう。
観客の信頼は、俺の手だけでは止められない。
だからこそ、誰が最初の本当を語るかが大切だった。
百日目まで、残り七十六日。




