幕間3 二年前「凱旋式の天井が落ちた」
魔王の凱旋式は、天井のほうから参加してきた。
「上!」
俺が叫んだ直後、大回廊の飾り石が落ちた。
黒曜石の獣頭が、アルマのために敷かれた赤い絨毯を砕く。
参列者が悲鳴を上げた。
楽隊は演奏を止めた。
太鼓だけが一度、遅れて鳴った。
事故の開始としては、合図がよすぎる。
「全員、壁から離れて!」
黒曜城へ来て三日目。
俺の作業許可が切れる日の朝だった。
四年ぶりの王を迎えるため、兵士と家族、城の働き手が大回廊を埋めている。長雨で天井裏が傷んでいると聞き、式を中止するよう頼んだが、ゼルドは補強済みだと答えた。
補強した梁の隣が、先に腐っていた。
天井の奥で、木が裂ける音がした。
連続して三回。
「ガド、中央の列を下げてください!」
「どこへだ!」
出口は南北に二つ。
北は玉座側。南は城門側。
全員が近い南へ走れば、狭い扉で詰まる。北へ行かせすぎれば、落下範囲の下を通る。
舞台火災の訓練なら、役者と客を別の袖へ流す。
ここには袖がない。
作ればいい。
式典台の脇に、献上品を飾る布が三色あった。
白、黄、赤。
俺は留め紐を小刀で切った。
白布を楽隊の槍へ結び、南へ倒す。
黄布を長椅子へ張る。
赤布を床に広げる。
「白は、歩ける者。南の扉へ」
俺は短く言っただけだ。
ガドがすぐに声を張り上げた。
「白は出る! 自分で布を見て、南へ!」
歩ける者が自分で白布を掴み、南へ流れ始める。
「黄色は負傷者と子ども。北の柱沿い!」
「黄は守る! 北の柱を伝って!」
黄布の側へ、子どもと足の不自由な者が自分から寄っていく。
「赤は、運ぶ者。ここへ戻ってください」
「なぜ戻す!」
ガドが怒鳴る。
「動けない人が残っています!」
飾り石の下に、楽隊の少年が挟まれている。足は見える。動いている。
俺は月灯り座の合図板を二度鳴らした。
幕を変える音。
意味を知る者はいない。それでも全員が俺を見る。
「白は出る。黄は守る。赤だけ戻る」
同じ言葉を短く繰り返す。
ガドが赤布を自分の腕へ巻いた。
「俺は赤だ。運ぶ者は、俺の後ろへ来い!」
兵士が五人、自分で赤布を拾い、向きを変える。
命令の届く速さが違う。
俺が色を置き、ガドが人を動かす。
少年の上の石へ手を掛けたところで、天井がもう一度鳴った。
「来るぞ!」
太い梁が落ちる。
ガドが両腕で受けた。
床へ膝が沈む。
石が割れ、額の欠けた角から血が流れた。
「早く出せ!」
俺は少年の足元へ潜り、石と床の隙間へ式典用の槍を差し込んだ。
「三つで上げる。一、二」
「三!」
ガドの部下が槍へ体重を掛ける。
石が浮く。
少年を黄布の側へ引きずった。
そのとき、回廊の西から青い火が上がった。
落ちた魔力灯が壁を転がり、開いていた物資庫へ入っている。
乾いた梱包材が燃えた。
「火だ!」
避難の出口が、煙の入口になる。
アルマが右手を上げた。
黒い炎が腕を包む。
「私が消す」
「待ってください!」
「レオル、離れろ」
月灯り座のパン窯を持ち上げたときと同じ顔だ。
ただし、今回は力加減を間違えると、窯ではなく城の一角が消える。
「物資庫の奥は?」
ガドへ聞く。
「油と干し草。その向こうは兵舎だ」
「壁ごと吹き飛ばせば、兵舎へ火が回ります。城が残らなくなります」
アルマの手が、わずかに止まった。
「では、どうする」
「煙を上へ逃がす。火は中で分ける」
俺は赤布をもう一本裂いた。
戻ってきた兵へ、水桶ではなく長柄の鉤を渡す。
「燃えていない箱を外へ。火の道を切ります。水は魔力灯へ直接掛けない。砂を!」
「砂場は中庭だ!」
「白の列が出たあとです。空いた荷車を戻して!」
避難と消火を同じ道へ流せば衝突する。
白の布が南へ消えたのを見てから、合図板を二度鳴らす。
今度は赤の荷車が入る。
黄色の列で、幼い魔族が泣いていた。
母親は足を挫き、片腕で子を抱えている。もう片方の手で、負傷した老兵の帯をつかんでいた。
三人では、北の扉を抜ける速度が違いすぎる。
「子どもを先に」
赤布の兵が手を伸ばす。
母親は首を振った。
「離しません」
「全員運びます」
「信用できない」
魔王が四年消えた城では、救助の手まで疑われる。
時間がない。
俺は長椅子の背を外し、黄布を四隅へ結んだ。
「三人とも、ここへ」
「何をする」
「椅子を荷台にします。離れずに運べる」
母親が子を抱いたまま座り、老兵も反対側へ身体を預ける。
赤布の兵二人が持ち上げた。
傾く。
俺が後ろへ入り、低い側を肩で支えた。
「人間が触るな」
老兵が言う。
「では、落ちないでください」
「無茶を言う」
「今日、何度も聞きました」
北の扉まで運ぶ。
母親は礼を言わない。
子どもだけが、俺の腕の赤布を見て覚えたように頷いた。
礼より先に、次の避難で使える反応だった。
俺は赤布を外さず、物資庫へ戻った。
アルマは黒い炎を握ったまま、動かなかった。
自分なら一息で壊せるのに、人間一人の指示を待っている。
「陛下!」
「梁だけ支えてください。燃やさずに。城と、向こうの兵舎を残すために」
「注文が多い」
「舞台裏ですので」
黒い影が天井へ伸び、次に落ちる梁を止めた。
ガドの肩から重さが抜ける。
俺たちは少年と負傷者を運び、燃えていない箱を外へ出した。魔力灯の青い火へ砂を掛ける。干し草の山を崩し、燃える区画だけを石壁の内側へ残す。
煙が薄くなった頃、最後の梁が落ちた。
人のいない赤い絨毯へ。
式典は始まる前に終わった。
死者はいなかった。
負傷者は十人を越えた。
軽い者は白布の側で自分より重い者を支え、動けない者は黄布の長椅子へ集めた。赤布を巻いた兵は、消火が終わるまで一度も武器を持たなかった。
事故が人を善良にしたわけではない。
色が、次に何をすればよいか迷う時間を短くしただけだ。
舞台裏の仕事は、その「だけ」を積み上げる。
ガドは額の血を拭い、俺の合図板を見た。
しばらく、壊れた回廊の音だけが残る。
「二度鳴らすのは、どういう意味だ」
「場面を変えます」
「城が落ちていても?」
「だから変えるんです」
ガドは合図板を受け取り、自分でも二度鳴らした。
乾いた音が、壊れた回廊へ広がる。
「覚えた」
その日から、俺はガドの部下ではなくなった。
まだ友人でもない。
ただ、梁の下で互いの合図を待てる相手になった。




