幕間2 二年前「四年間消えた王に、ただいまは通じない」
「お帰りなさいませ」と言った者は、評議会に一人もいなかった。
代わりに摂政ゼルドは、四年間を机へ積んだ。
未決裁の巻物。
補修を先送りした城壁図。
境界から届いた陳情。
魔王不在のまま出された軍の命令書。
どれも人の腕ほど厚く、玉座の前で低い壁になっていた。
ゼルドは一番上の巻物を開き、指で端を押さえた。
白髪を後ろへ束ね、黒い官服の襟を一分の乱れもなく留めている。疲れている者ほど服装を崩すと思っていたが、この男は逆らしい。
「陛下が国を発たれた翌月、最初の反乱が起きました。その翌年、境界の砦が二つ落ちました。三年目には、陛下はすでに死んだという流言が広がった」
アルマは玉座の前へ立ったまま、巻物を見下ろした。
「すべて報告は受けていた」
「ならば、なぜ帰還されなかった」
広間の空気が止まる。
俺は壁際に立たされ、両側を槍兵に挟まれていた。ガドは俺の監督役として半歩前にいる。
逃げ道は後ろの扉だけ。
俺の問題ではない質問なのに、アルマより先に床の継ぎ目を数えている自分が嫌になる。
「私には、探すものがあった」
「国より先に?」
「国を救うために必要なものだ」
「では、その必要なものをお示しください」
評議員の視線が俺へ集まった。
困る。
俺は魔法も剣も使えない。四年間で身につけたのは、吊り物が落ちる前の音を聞き分けることと、アナのパンを焦げる一歩手前で窯から出すことくらいだ。
「レオルは関係ない」
アルマが言う。
「陛下がお連れになった唯一の人間です」
「私が選んだ。責任は私にある」
「その責任を、四年間どなたが代わりに負ったと?」
ゼルドの声は上がらなかった。
怒鳴らない怒りは、逃げる方向が見えにくい。
アルマの金色の目が細くなる。
指先が、机の縁を一度だけ叩いた。
「摂政としての働きへ感謝する」
「感謝を求めてはおりません」
「では、何を求める」
「説明と、再発しない仕組みを」
ゼルドは俺の前へ一枚の紙を置いた。
城外退去の命令書だった。
「人間レオルは、本日中に国境まで護送します」
「認めない」
「陛下」
「私の客人だ」
「それが理由です」
紙の端が、アルマの指先で黒く焦げた。
ガドが一歩出る。
「陛下。ここで燃やせば、摂政殿は同じ文面を十枚作ります」
「二十枚だ」
ゼルドが訂正した。
敵同士でも、事務能力への評価は一致している。
俺は退去命令を拾った。
紙の端がまだ熱い。
「国境までの護送には、どれくらい掛かりますか」
「三日」
「その間の食事は」
「支給する」
「待遇は悪くない」
「レオル」
アルマが低く呼ぶ。
これは、パンを勝手に配ったときより二段ほど怒っている声だ。
「追放されるつもりはありません」
俺は紙を机へ戻した。
「ですが、魔王様の客人という理由だけで残るつもりもない」
「何を言っている」
「俺を守るたび、あなたがこの四年間の責任から逃げたように見える」
言ってから、槍兵の握りが固くなった。
魔王へ向ける言葉としては、首が一本では足りない。
アルマは怒鳴らなかった。
そのほうが怖い。
「続けろ」
「ここに残る理由を、俺自身の仕事で作ります」
ゼルドが初めて俺を正面から見た。
「人間に、魔王城で何ができる」
「何が壊れていますか」
「質問へ答えろ」
「壊れているものが分からなければ、答えられません」
ゼルドの背後にある窓は、右上の留め金だけ新しい。評議員の椅子は三脚が同じ布で補修され、左奥の扉は閉じるたび床を擦る。
城は大きい。
大きい建物ほど、誰かが毎日、小さく直している。
「営繕兵は足りない」
ガドが言った。
「昨年から長雨だ。回廊の天井も、兵舎の窓も後回しになっている」
「なら、そこから」
「陛下の連れを、兵舎へ入れろと?」
「客人ではなく働き手なら、監督できます」
ガドは腕を組む。
「逃げたら俺の責任か」
「俺が城内で迷った場合も」
「すでに面倒だな」
「同意します」
ゼルドはしばらく黙り、退去命令を裏返した。
指先で紙を押さえ、短く書き込む。
「三日だ」
「短くありませんか」
「一日で十分だと思っている」
「では、残り二日は説得に使います」
紙の裏へ、期限付きの作業許可が書かれる。
範囲は兵舎と回廊。夜間移動禁止。ガドの監督下。問題を起こせば即時退去。
魔王の隣に立つ許可は、どこにもなかった。
それでよかった。
許可されていないなら、自分で届く仕事を作ればいい。
評議会のあと、ガドは俺を兵舎へ連れていった。
廊下へ出ると、待っていた兵士たちが左右へ分かれた。
道を空けたのではない。
人間へ背中を見せない位置を取っただけだ。
一人の若い兵が、俺の工具鞄へ唾を吐いた。
ガドは叱らなかった。
俺も拭かなかった。
魔王が消えた四年間に、彼の誰かが死んだのかもしれない。俺が知らない怒りへ、先に礼儀だけを求めるつもりはない。
ただし、工具は錆びる。
兵舎の水場へ着いてから布で拭いた。
「腹は立たないのか」
ガドが聞く。
「立ちます」
「見えんな」
「見せると、相手が謝るか、もう一度やるか、どちらかの役になります。今日はどちらも増やしたくない」
「人を役へ入れるのが癖か」
「仕事です」
「城では嫌われるぞ」
「劇団でも好評ではありませんでした」
ガドは笑わず、俺の手から汚れた布を取った。
井戸水で洗い、絞って返す。
「俺は陛下の不在を許していない」
「はい」
「お前が関係ないとも思っていない」
「はい」
「だが、工具へ唾を吐けば、直る扉が一枚減る」
若い兵へ聞かせる声だった。
遠くで靴音が止まり、すぐ離れる。
「監督役は大変ですね」
「すでに後悔している」
それでも、ガドは布を返した。
指先で、まだ湿った端を一度押さえる。
「三日で、何から直す」
「扉です」
「城壁ではなく?」
「毎日擦る音を聞かされると、働く者から先に壊れます」
ガドは扉を一度開けた。
床へ、重い音が引きずられる。
「それから」
「雨漏り。窓。天井」
「三日で?」
「三日で、全部は直りません」
俺は工具鞄を開いた。
中の道具を一度数え、蓋を戻す。
「だから、直す順番を決めます」
王が戻っても、国は一日で元へ戻らない。
人間一人が残る理由も、一日では作れない。
まずは、毎日鳴る扉からだった。




