幕間1 二年前「魔王様が人間を連れて帰った」
魔王の帰還を、門兵たちは泣いて喜んだ。
その隣にいた俺へは、十二本の槍を向けた。
「お帰りなさいませ、アルマ様!」
「人間を捕らえろ!」
歓迎と逮捕が同時に進むと、どちらへ頭を下げるべきか迷う。
二年前。
月灯り座の小さな楽屋で、アナが本物の角を見せた翌朝だった。
俺たちは影の道を抜け、黒い石壁の城門前へ立った。
四年間行方をくらませていた魔王は、旅衣装の上に黒い外套を羽織っただけ。荷物は焦げたパンの包みと、俺の工具鞄が一つずつ。
国へ帰る王の荷としては軽い。
その分、門の向こうから走ってくる者たちの感情が重かった。
門兵の一人は膝をつき、涙を拭う暇もなく角笛を吹き鳴らした。別の一人は声を上げて泣きながら、それでも槍を俺の胸へ向けたまま動かない。三人目は喉元へ槍先を止めて、肩を細かく震わせている。
四年分の傷が、歓喜の裏でまだ閉じきっていないのが、槍の震え方に出ていた。
「その男から離れてください、陛下」
「必要ない」
「人質ですか」
「違う」
「では、脅迫者」
「違う」
「魅了を?」
アルマが答える前に、俺は槍の向こうで手を上げた。
「四年間、同じ劇団で働いていました。魅了されていたなら、もっと楽な仕事を選ばせてもらえたはずです」
雨漏りの修理、壊れた舞台、夜逃げした役者の代役探し。
魅了にしては福利厚生が弱い。
「口を閉じろ、人間」
門兵の声が震えていた。
怒りだけではない。四年ぶんの安堵が、行き場を失って俺へ向いている。
アルマが一歩出る。
槍がいっせいに下がった。
「レオルは私の客人だ。武器を向けるな」
「その命令を、今すぐ受けるわけにはまいりません」
低い声が城門の奥から響いた。
古い軍服を着た大男が歩いてくる。
額の角は片方が欠け、肩幅は門扉の蝶番ほどある。あとでガドと名乗る男は、まず門兵たちの涙の残る顔を一瞥してから、アルマへ深く頭を下げた。
「ご帰還を、心よりお待ちしておりました」
「ならば道を空けろ」
「陛下には」
ガドは頭を上げた。
「そちらの人間には、拘束室をご用意します」
「ガド」
「四年前なら、俺も陛下の一声で門を開けました」
大男は俺を見た。目は敵意ではなく、確認の色だった。
「今は、喜んでいる者ほど判断を誤ります。俺も含めてです」
槍の数より、その言葉のほうが信用できた。
「俺を人質にしますか」
「客人なら、城を見てから帰せる。脅迫者なら、口を割らせる。魅了者なら、術を解く」
「同僚だった場合は」
「いちばん困る」
初対面で意見が合った。
アルマは俺の前へ立つ。声に、統治者の圧が先に乗った。
「レオルを閉じ込めるなら、私も入る」
「陛下には玉座へお戻りいただきます」
「断る」
「国も四年間、陛下に断られております」
門前の歓声が止まった。
ガドは王を責める声を出さなかった。ただ、事実だけを城壁へ置く。
アルマの指がわずかに動いた。
黒い炎が出る前の癖だと、その頃の俺は知らない。知っていたのは、アナが舞台で怒鳴る直前、左の踵へ重心を移すことだけだった。
俺は外套の裾を引いた。
「一人で入ります」
「命令していない」
「ここで城門を壊したら、帰宅初日の修繕費が増えます」
アルマは門を見上げた。
石に爪跡がある。継ぎ目には新しい補強。王の不在中にも、誰かが直し続けた跡だ。
彼女の足が止まった。
「三刻だ」
ガドへ言う。
「三刻で出せ」
「調べが済めば」
「二刻だ」
「交渉で時間を減らさないでください」
俺が止めると、門兵の何人かが妙な顔をした。
魔王へ小言を言う人間を、どの罪名へ入れるか決めかねているらしい。
拘束室は、想像より清潔だった。
石の椅子。鉄の扉。窓は高い。床の隅だけ、雨水が細く落ちている。
俺は工具鞄を膝へ置いた。
「開けろとは言わないんですね」
扉の外で、ガドが聞いた。
「外から鍵が三つ。蝶番は廊下側。窓は肩が通らない。壊すなら床ですが、下の部屋へ迷惑が掛かる」
「調べたのか」
「暇なので」
「人間は皆、閉じ込められると建物の弱点を数えるのか」
「舞台裏の者だけです。壊れたとき、誰が直すと思います」
雨水が椅子の脚へ届く。
俺は鞄から短い木片と布を出し、落ちる位置へ差し込んだ。水が壁沿いへ流れる。床に広がる前に止めた。
「囚人が牢を修理するな」
「客人か脅迫者か、まだ決まっていないのでしょう。中間の仕事です」
扉の向こうで、ガドが低く笑った。
初めて聞く笑いだった。すぐに消えたが、敵視だけではない音が残った。
しばらくして、覗き窓から食事の盆が入った。
黒パン、薄い豆の煮込み、水。
黒パンの端だけ、見覚えのある焦げ方をしている。
「陛下が台所へ入った」
ガドが言った。
「止めなかったんですか」
「帰還した王へ、最初の命令を出せると思うか」
「火を弱めろ、と言えばよかった」
「それで聞く方なら、四年も消えん」
もっともだった。
パンを割ると、中に蜂蜜が塗ってある。
アナは不安になると、食事の量で黙らせようとする。月灯り座で俺が高熱を出した夜には、三人分の粥を作った。
魔王になっても、方法は変わらないらしい。
「毒見は」
「陛下が先に半分食べた」
「では、焦げた理由も本人ですね」
「そこまで分かるのか」
「四年、同じ窯を見ています」
ガドは返事をしなかった。
鉄の扉を一枚挟んだ沈黙が、いつもより長かった。向こうで、俺の答えを測っている。敵意だけでは測れない何かが、その沈黙の中に混じっている気がした。
「陛下は、人間界で何をしていた」
「舞台では悪役。朝はパン係。雨の日は屋根を持ち上げる係」
「王が?」
「本人は一か月だけのつもりでした」
「四十八回延長したのか」
月灯り座の者と同じ計算へ届いた。
「国のことを忘れていたわけではありません」
「なら、なぜ戻らなかった」
答えを知らなかった。
アナは人間界が好きになったとは言った。俺を好きだとは言わなかった。国を離れた本当の理由は、この時点では聞いていない。
「本人へ聞いてください」
「聞けるなら、拘束室に人間を入れていない」
ガドの声から、笑いが消えた。
喜んで迎えた者にも、四年間は戻らない。
俺は焦げたパンを飲み込んだ。
蜂蜜だけが、妙に甘かった。
すぐに足音が増える。
廊下の先から、別の声がした。
「摂政ゼルド様が、評議会へ陛下と人間を呼べと」
鍵が一つ外れる。
ガドは扉を開けず、俺へ言った。
「先に聞く。お前は、陛下を連れ去ったのか」
「逆です」
「では、連れ戻した?」
「それも違います。俺が連れてこられました」
「なぜだ」
正直に答えると、余計に怪しくなる質問だった。
「本人が、帰ると言わなかったからです」
扉の向こうが静かになる。
やがて、二つ目の鍵が外れた。
「同僚というのは、本当に困るな」
ガドはそう言って、最後の鍵だけを残した。




