第20話 二十日目「勇者は砦を落とさず、人を帰した」
林砦前で、ネジが地面から叫んだ。
「まだ死んでない!」
向かいの人間兵も額を押さえて応じた。
「俺もだ!」
その後ろでは、人間の討伐隊二十人とクルムたちゴブリン五人が、槍と剣を構えたまま次の一撃を待っていた。
二十日目の朝。
夜明けに放した針羽虫七匹は、そろって森の北へ飛んだ。餌札と勇者印を描いた箱だけは、ユラの薬箱に残してある。
追うはずだった。
だが今、先に動線を塞いでいるのは負傷した二人だった。
ネジの左腿には浅い剣傷。人間兵の額には、投げ石が当たった腫れ。
次は浅く済まない。
ミロが両軍の間へ走る。
「全員、武器を下げてください!」
「勇者様、下がれ!」
羽根印の兵長が叫ぶ。昨日、魔狼へ弓を向けた男だ。
「砦の魔物を討つ。勇者の道を開くためだ!」
「僕の道なら、もう開いています!」
兵長の眉が動いた。
言い合っている間に、ネジが立とうとして脚が崩れる。人間兵も頭を押さえ、膝をついた。
ユラが二人を見比べる。
「ゴブリンが先です」
「なぜ敵からだ!」
「出血しています。そちらは腫れだけです」
「俺だって痛い!」
ユラは人間兵の顎を上げ、左右の瞳を見た。
「名前は」
「ダン」
「吐き気、目眩、今朝の記憶」
「どれもない。朝飯は固いパンだ」
「意識は明瞭。待てます。変化があれば先に言って」
診断に種族は含まれなかった。
ユラがネジへ近づくと、ゴブリン側の槍が上がる。人間側も前へ出た。
治療を始めるだけで、再び衝突が始まりそうだった。
「荷車を借ります!」
ミロが砦脇へ走り、昨日まで食料を運んでいた小さな荷車を引いて戻ってきた。
「ネジさんを右。兵士さんを左」
「敵と同じ荷台へ乗れと?」
人間兵が抗議する。
「嫌なら歩けますか」
「無理だ」
「では乗ってください」
「俺は歩ける!」
ネジが言う。
「歩けていません」
ミロとユラが同時に答えた。
二人を荷台へ載せる。間へ麦袋を一つ置いた。
「なぜ麦を」
「殴り合わないように」
「これで殴れるぞ」
ネジが袋を持ち上げかける。
「患者は寝る!」
ユラの一声で戻した。
ミロが荷車を引き、両軍の間を進む。
「どこへ運ぶ」
クルムが聞く。
「怪我人はユラさんの所。麦は炭焼き場。人間兵の方は治ったら隊へ戻します」
「届け先が三つあるぞ」
「道は一つです」
街道脇の広い場所へ止める。両軍から見える位置だ。
俺は白い布を二本の木へ張った。
「この内側は治療場所です。武器を持って入らない。敵味方にかかわらず、ユラの指示へ従う」
「誰の命令だ」
兵長が言う。
「患者の命令です」
ユラが答えた。
「今から二人とも、私の患者です」
兵長は反論しかけた。額を押さえたダンが、「お願いします」と先に言った。
人間側の槍が少し下がる。クルムも部下へ顎を引いた。
治療が始まる。
戦闘は止まった。止まっただけで、終わってはいない。
「砦は明け渡す約束です」
俺は兵長へ林砦の鍵を見せた。
「ただし、住民と残りの食料を炭焼き場へ移すまで追撃しない。谷の橋は落ちています。尾根道へ兵を入れれば、また戦いになる」
「魔物との約束を、人間軍が守る理由は」
「道が欲しいからです」
俺は砦を指した。
「今日戦えば、門と倉は燃える。勝っても空き地しか残りません。待てば、砦、井戸、街道がそのまま手に入る」
「人間へ砦を売るのか」
ネジが白布の内側から叫ぶ。
「寝ていてください!」
「聞こえたから!」
クルムが胸当ての木札を鳴らした。
「砦は要らない。家族と食料を運べ。代わりに、炭焼き場へ兵を入れるな」
「いつまでだ」
兵長が聞く。
「冬が終わるまで」
「長い」
「家族は長く生きる」
交渉が止まる。
人間隊にも、この砦で死にたい者はいない。
兵長の視線が、白布の内側へ動いた。ユラがネジの傷を縫い、ダンの額を冷やしている。同じ荷台で、二人とも文句を言っている。
「三十日」
兵長が言った。
「その間に上へ確認する」
「冬の終わりまでと書け」
クルムは譲らない。
「確認が取れるまでは三十日。その後、拒否されたら勇者へ先に知らせる」
ミロが間へ入る。
「僕が、両方へ届けます」
兵長とクルムが、同時にミロを見た。
世界を救う力ではない。返事を二か所へ運ぶだけだ。
今はそれで、二十人と五人の武器が下がる。
「勇者の名で保証するのか」
兵長が聞く。
「配達人の名で、届かなかったとは言わせません」
ミロは答えた。
兵長が短い停戦文を書く。クルムは文字を読んだあと、砦の鍵をその上へ置いた。
「戦略的移転だ」
「敗走ではないんですね」
「重要だ」
ミロが頷く。
「林砦は、ゴブリンの皆さんが家族を守るため明け渡しました。人間隊は三十日、炭焼き場へ入りません」
両側へ聞こえる声で宣言する。
「だから、今日は誰も倒しません。これで僕たちの勝ちにします」
また、倒さない勝利だった。
人間兵の何人かが拍手する。ゴブリン側では、ネジが不満そうに拳を上げた。
「勇者。最期の言葉を聞きたくなったら来い!」
「十九行でしたよね」
「覚えていたか!」
クルムが、初めて笑った。
夕方までに、残った麦と寝具を尾根道へ運んだ。
ミロは炭焼き場と砦を何度も往復する。
最後の荷は、砦の門札だった。
《林砦》の文字を外し、クルムへ渡す。
「新しい場所へ掛けてください」
「砦はもうない」
「名前は運べます」
クルムは門札を受け取った。
魔族の側から、誰かが小さく言った。
「勇者が、砦を帰してくれた」
ミロの右手が光る。
称賛より先に、クルムは門札の裏を確かめた。二本の釘穴まで残っている。新しい場所でも同じ高さへ掛けるつもりらしい。
人間の拍手だけで明るくなった昨日とは、色が少し違って見えた。
夜。
俺は通信鏡を開いた。
アルマの机には、同じ蜂蜜壺がある。
「今日は、どうです」
アルマは匙を口へ入れた。
十秒。
二十秒。
もう一口。
「温かい」
「味は」
「分からない」
「甘いはずです」
「甘いとは、どんな味だった」
言葉を失った。
アルマは蜂蜜が甘いと知っている。俺が昨日まで何度も言ったからだ。
だが、舌にも記憶にも、その味がない。
二十日かけて、勇者は敵から名前をもらった。
同じ二十日で、アルマから好きだった味が一つ消えた。
百日目まで、残り八十日。




