第19話 十九日目「弱い刺客ほど勇者に効く」
勇者は昨日、十二頭の魔狼へ勝った。
今日は、虫一匹に負けた。
「動けません」
地面へ仰向けになったミロの胸へ、ユラが手を当てる。
十九日目の夜。
三本杉街道の野営地で、夕食の鍋を火へ掛けた直後だった。
手のひらほどの黒い虫が飛んできた。
薄い羽が四枚。腹の先に、爪楊枝ほどの針。攻撃力ならゴブリンの槍にも、魔狼の牙にも遠く及ばない。
その針が、ミロの首を刺した。
刺された瞬間、ミロは走った。
判断としては、いつもの彼だった。
野営地を一周した。
二周。
後ろから針羽虫が追ってきたので、さらに速度を上げた。
三周目で左腕がしびれ、張った天幕へ頭から突っ込んだ。
俺とユラが引きずり出したときには、すでに脚まで力が抜けていた。
「毒を受けた直後に全力で走らない!」
「逃げれば、毒も置いていけるかと」
「血の流れに乗って追ってきます」
逃げ道を選ぶ速さは正しい。毒が、その道を血管にしただけだ。
今日の敵は、逃げ足より内側にいた。
ユラが傷の上下を指で押す。ミロは唇だけを動かした。
「息はできますか」
「はい。左腕だけ、しびれて」
「喋らない。毒が回ります」
「返事を」
「今は喋る!」
どちらなのか迷ったミロが、口だけ半分開けて止まる。
「その顔は返事に数えません」
ユラは患者の意思まで診断に含めるらしい。
針を抜き、薬箱から緑色の小瓶を出す。半分を傷へ、半分を口へ入れる。
「苦い」
「味が分かる。舌の麻痺なし」
文句まで診断に使っている。
虫がもう一匹、焚き火の上を横切った。
聖剣が地面で光る。
ミロは抜こうとしたが、右手が剣の柄を滑った。
「やめてください。元気なときでも切れません」
「そうでした」
毒がなくても同じだった。
羽音が増える。
一匹。
三匹。
七匹。
野営地の周囲から、黒い針羽虫が集まってきた。
すべてミロへ向く。
「なぜ僕だけ」
「勇者印です」
包帯の下から、右手が淡く光っている。
昨日、魔狼と旅人から認められて強くなった光が、今夜は標的になった。
成長が早速、敵へ届いている。
「火を消しますか」
ユラが聞く。
「逆です。灯りを増やす」
針羽虫は勇者印だけを追っているわけではない。
最初の一匹は鍋の湯気へ寄り、そのあとミロへ向きを変えた。二匹目も、焚き火の上を一度回っている。
光と甘い匂いで、目標を教え込まれている。
「ミロ、右手を外套で包む」
「動けません」
「俺がやります」
外套を巻く。
光が隠れる。
針羽虫は一度ばらけ、焚き火の周囲を回った。
効く。
一匹が俺へ向きを変える。
担当外である。
「レオルさん、右!」
ユラが薬箱を振った。
虫が避ける。
俺は鍋の蓋を盾にした。
針が金属へ当たり、甲高い音がする。
強くはない。
速く、小さく、毒がある。
ミロへ最も相性が悪い。
「ユラ、俺が灯りを置く。数を落とさないでください」
「患者一、毒虫七。あなたが刺されたら患者二です」
「増員は避けます。鍋を三つ使います」
「夕食は」
ミロが地面から聞く。
「毒より先に諦めてください」
小鍋を二つ、荷物から出す。
それぞれへ火のついた小灯りを入れ、底へ干し果物を一つずつ置く。
大鍋には、夕食用の果実煮を残した。
「蓋を斜めに。入口を指二本ぶん開ける」
俺とユラが鍋を三方へ置く。
ミロの右手を包んだまま、焚き火を土で小さくする。
野営地で明るいのは、鍋の中だけになった。
甘い湯気が上がる。
針羽虫が一匹、向きを変えた。
小鍋の隙間へ入る。
次が続く。
「まだ閉めないで」
ユラが数える。
「三、五、六。左に一匹」
「見えません」
「羽音で」
地面のミロが、視線だけを左の低木へ向けた。
「……そこ。隙間が狭い」
俺が鍋の位置を半歩ずらす。
最後の一匹が大鍋へ入った。
「今!」
三つの蓋を閉じる。
内側から、小さな音が続いた。
針は蓋を抜けない。
野営地が静かになる。
「勝ちましたか」
ミロが聞く。
「あなたは最初の一匹に負けました」
「一行としては」
「鍋が勝ちました」
勇者の順位がまた下がった。
それでも、毒で動かない身体のまま全体の勝敗を聞くあたり、逃げたあとに戻る癖だけは麻痺していない。
ユラはミロの瞳と舌を確認した。
左腕へ触れ、指を一本ずつ動かさせる。
「毒は広がっていません。二刻で立てます」
「明日には走れますか」
「走らなければ、もっと早く治ります」
「逃げる予定が」
「予定へ治療を合わせないでください」
俺は鍋へ布を巻き、虫が酸欠にならないよう蓋の隙間を針一本ぶん開けた。
「殺さないんですか」
ユラが聞く。
「明日の朝、森の反対側へ放します。訓練されているなら、放った場所へ戻るかもしれない」
戻り先が分かれば、刺客を送った相手へ近づける。
野営地の外を探す。
低木の陰に、小さな木箱があった。
蓋は開いている。中には甘い樹蜜を固めた餌と、黒い布が一枚。
布の中央だけ、勇者印と同じ形に白く塗られていた。
針羽虫へ、光る印を襲うよう覚えさせた餌場だ。
箱の取っ手へ、銅の札が結ばれている。
《摂政府監察付・第七記録班 飼養餌》
十三日目、ゴブリンへの補給を止めた票と同じ班名だった。
ユラが札へ手を伸ばす。
俺が先に取り、指で文面をなぞった。
「この札だけでは、誰が箱を置いたか分かりません」
摂政本人の命令とも限らない。
八日目の監察兵、十三日目の補給停止、今夜の毒虫。
同じ班名が三度、俺たちの進路へ出た。偽命令二通には、その班の道具と同じ松脂が使われている。
偶然で片づけるには、回数が多い。
ユラは札を受け取らず、記録帳の端を開いたまま待つ。
「明日、寺院へ報告します。ミロさんを狙った毒と、札の文面をそのまま」
「止めません」
隠せば早い。
だが、人間側の記録へ物証を残せる者はユラだけだ。
俺は札を彼女へ渡した。
「ただし、虫は俺が追います」
「一人で?」
「勇者は二刻、動けません」
「案内役は毒への耐性がありません」
「では」
鍋が、内側から一度鳴った。
ミロが動かない右手を少し上げる。
「全員で、鍋を届けましょう」
刺客を捕まえたら、配達物になった。
弱い敵ほど厄介である。
だが配達物になれば、ミロのほうが強い。
百日目まで、残り八十一日。




