第1話 一日目「負け役が勇者を倒した」
勇者は、スライムを見た瞬間に逃げた。
「勝てません。逃げます!」
判断が速い。
速すぎて、聖剣を抜いてすらいない。
一日目の朝。リュネ北西の街道で、俺は旅人のふりをして靴紐を結んでいた。右手は草へ隠した白煙用の紐。左足の下には、敗北役のスライムを森へ逃がす跳ね板の端がある。
青いスライムは道の中央へ出て、教えたとおり一度だけ震えた。
勇者が剣を抜く。
スライムが軽く触れる。
派手に転がって逃げる。
役は三つ。立ち位置も決めた。朝日が刃へ当たる角度まで合わせた。
その舞台を、ミロは迷いなく逆走していく。
「そこの旅人さんも走ってください!」
俺へまで指示を出し、七歩で街道の曲がり角へ届いた。
速い。
配達人だったという記録は読んだが、逃げ足まで最優秀とは聞いていない。
俺が動かないでいると、ミロが角の手前で振り返った。
俺を見る。
スライムを見る。
安全な曲がり角を見る。
そして、戻ってきた。
「何をしているんです」
「あなたを置いていけません!」
「初対面です」
「初対面なら置いていっていいんですか!」
もっともだが、こちらには敗北の段取りがある。
ミロは俺の腕をつかみ、来た道へ引こうとした。スライムは困っていた。勇者が予定位置から消え、代わりに敗北係が連れ去られそうになっている。
役を渡せば、人は動く。
逃げる役だけ、台本に書き忘れた。
青い身体が跳ねる。
ミロは俺を背へ押し、ようやく聖剣を抜いた。刃先が鞘に引っかかり、二歩よろめく。それでも逃げず、剣を両手で構えた。
「殺す必要はないですよね」
「いま確認しますか」
「剣の腹で追い払います!」
銀色の刃を寝かせ、振り下ろす。
聖剣はスライムへ触れる直前、急にやる気をなくしたように横へ滑った。
青い身体が、その隙を逃さない。
額へ一発。
ミロは仰向けに倒れた。
勇者は、逃走を中断してから三秒でスライムに負けた。
「どうしてだ」
俺は白煙用の紐を握ったまま呟いた。
昨夜は眠っていない。
黒曜城の小劇場を出たあと、影道でリュネ郊外へ抜けた。最初の戦場を選び、負け役へ手順を渡し、朝日が昇る前に仕掛けを組んだ。
簡単だと思った。
簡単な仕事ほど、現場では死ぬ。
スライムが倒れたミロの胸へ乗った。黒い二点を、聖剣と少年の顔へ交互に向ける。
剣が効かない。
だから目の前の少年が、本当に勇者なのか分からないのだ。
もう一度跳ねようと、丸い身体が縮む。
「二発目はやめろ」
紐を引く。
頭上の砂袋が落ち、伏せていた板の端を踏んだ。反対側が跳ね、白い粉が街道へ噴き出す。
驚いたスライムが飛び退く。
着地点に合わせ、もう一本を引く。草に隠した布が口を閉じ、青い身体を傷つけない強さで包んだ。そのまま茂みへ転がしてやる。
同時に、ミロが落とした聖剣を蹴った。
剣先が白煙の中で跳ね上がる。
離れて見れば、勇者の一撃でスライムが吹き飛んだように見えなくもない。
観客はいない。
まず俺を納得させるところから始めたい。
「ご無事ですか、勇者様」
偶然通りかかった旅人の顔で駆け寄り、頬を軽く叩く。
「聞こえますか」
「……旅人さん」
「はい」
「逃げられました?」
自分が倒れたあとまで、俺の避難を心配していた。
「おかげさまで」
「青い、小さいほうは」
「敵です」
「怪我は」
「あなたが心配する順番ではありません」
ミロは身を起こし、額を押さえた。明るい茶髪は左右で長さが違う。背負い鞄は使い込まれているのに、今朝渡されたばかりらしい聖剣だけは持ち主より立派だった。
茂みが鳴る。
青いスライムが、布を頭へ載せたまま顔を出した。
ミロは剣ではなく、先に両手を上げた。
「よかった。生きてる」
「いま喜ぶところではありません」
「すみません。でも、殺せとは言われていなくて」
勇者が敵の生存を喜ぶなど、寺院の英雄譚にはない。だが百日後に必要なのは、アルマへ剣を届かせる人間だ。目の前の小さな魔物へ追い打ちをかける者より、こちらのほうがいい。
たぶん。
問題は、こちらのほうが圧倒的に弱いことだった。
スライムへ目で合図する。茂みの奥からガドの大きな拳が上がった。負傷なしの合図だ。その手には、なぜかスライムへ掛ける黒い弔い布まで握られている。
生還する役へ葬儀を足すな。
ミロは気づかず、聖剣の刃を確かめていた。
「当たる前に、剣が逃げた気がします」
「持ち主に似たのでしょう」
「僕は戻りました」
反論が早い。
「寺院では、勇者が持てば岩も断つと言われました」
「寺院の方は、この剣で岩を切りましたか」
「見ていません」
「では、岩側の証言も聞いてから考えましょう」
ミロは真面目にうなずいた。冗談を、確認が必要な情報として受け取っている。
扱いが難しい。
「あなたは?」
「レオル。旅芝居の裏方をしていました。今は黒曜城方面へ向かう旅人です」
半分は本当だ。
街道図を開く。表には黒曜城までの道、裏には魔王軍の配置。見られれば、案内役どころか俺のほうが処刑台へ案内される。
「よければ次の村までご一緒します。俺は道を知っています」
「助かります。実は僕、この道を進む予定がなかったので」
「勇者なのに?」
「昨日まで、東の村へ薬を届ける予定でした」
ミロは鞄を開いた。包帯、水筒、小刀、封をされた手紙。それから、届け先ごとに紐の色を変えた小包が三つ。
「置いてくる時間がなくて。魔王城へ向かう途中で届けられないでしょうか」
百日で勇者を育てる。
魔王軍を百回近く負けさせる。
その合間に配達もする。
「道順を確認します」
断るより先に、俺は地図を広げていた。
ミロが隣へしゃがみ、川沿いの近道、崩れやすい斜面、荷車の通れない石段を指していく。剣の腕以外は、使えるかもしれない。
木の上から黒い紙片が落ちた。
魔族側の連絡だ。靴先で踏み、荷紐を結ぶふりで拾う。
『二日後の弓兵隊、配置完了。本気に見える攻撃を行う』
本気に見える。
昨夜、アルマが使った言葉そのままだ。
嫌な予感しかしない。
「レオルさん。スライムは、どれもあれくらい強いんでしょうか」
「安心してください」
明日は戦闘を避け、聖剣の状態を確かめる。
弓兵隊の指示も、俺が直接直せばいい。
「今日の個体は、かなり弱いほうです」
ミロは逃げ道を確かめた。
今度は、俺の分まで。




