プロローグ 好きな男に殺されたい魔王
「好きな男に殺されたいと思って、人間界へ行った」
そのとき俺は、偽物の処刑台の下で、緩んだ蝶番を締めていた。
黒曜城の小劇場。終演から半刻。舞台には俺たち二人しかいない。
「大事な告白をする役は、相手が床下にいるときを避けてください」
「出てこい」
魔王アルマが処刑台を指先で叩いた。
「私の隣へ座れ。命令だ」
頼みたいことほど命令にする。
六年たっても、そこは直らない。
俺は蝶番を確かめて這い出した。今夜、反逆者役が死んだ板は、明日には祝宴の卓になる。
舞台の死は後片付けができる。
本物もそうなら、仕事は楽だった。
「最初から聞き直しても?」
「許す」
「今日のパンを焦がした件ではなく?」
「あれは焦げていない。保存性を高めた」
アルマは焦げた木札を膝へ置いていた。月灯り座の古い入場札を、王冠より丁寧に持ち歩く。
「二年前、あなたが魔王だと明かしたときにも、その話は出ませんでした」
「言わなかったからな」
「知っています。聞こえなかった理由ではなく、隠した理由を聞いています」
役を渡せば、相手は動く。火事なら、水を運ぶ者、客を逃がす者、幕を落とす者を決める。慰めるのは、全員が外へ出てからだ。
だがアルマの話には、まだ俺の役がなかった。
「黒い太陽がいつ昇るかは、予言者にも分からなかった。私たちが生きている間には来ない可能性もあった」
「期限のない死を待たせるより、残り百日になってから知らせる方が親切だと?」
「そう判断した」
判断を間違えた、とは言わない。
俺を守るためなら、俺の選択を勝手に片づける。アナと名乗っていたころから、この女は肝心なところだけ王だった。
アルマが右手を上げた。
右角の根元に、今朝まではなかった黒いひびが走っている。頭上には輪郭のない冠が影だけを落としていた。
「六年前、顔を白布で隠した者が、玉座の前へ現れた」
声が低くなる。
「次に黒い太陽が昇った日から百日後の日没、私は《黒冠》に呑まれる。人間も魔族も区別せず焼く災厄になる、と告げられた」
今朝の空を思い出した。
真昼に開いた黒い穴が、城と町を同じように見下ろしていた。
今日は数えない。明日の朝が一日目。
百日目の日没で、アルマはいなくなる。
「止める方法は」
「選ばれた勇者の手で、《魔王》が死ぬこと」
「あなたが自分を殺した場合は?」
「黒冠は残る。私の身体か、次の器を使って暴れる」
「勇者以外が殺した場合」
「同じだ」
「逃げた場合」
「百日目に私が追う側になる」
逃げ道を三本尋ね、三本とも塞がれた。
俺の指が、処刑台の端へ触れる。右へわずかに傾いていた。脚の下へ薄い木片を差し込むと、揺れが止まる。
直せるものから直す。
直せないものを見なくて済むからだ。
「それで、好きな男を探しに人間界へ?」
「勇者が現れるまで待つつもりだった。選ばれた男を見つけ、その男を好きになればよいと考えた」
「恋心を稽古予定へ入れたんですか」
「当時は、できると思った」
世界最強の魔王にも、できないことはある。
負ける演技と、恋愛の進行管理だ。
「計画は、いつまで続いたんです」
「劇場町リュネへ着いて、しばらく」
「しばらく」
アルマは答えず、俺の手を見た。
親指と中指を二度鳴らす。幕を下ろす合図だ。考え込むと勝手に出る癖を、彼女は月灯り座で覚えた。黒曜城へ来てからは、兵を避難させる合図にもなった。
六年前、アナは衣装泥棒の腕をねじ上げていた。俺は一座の寝床と仕事を渡した。翌朝にはパンへ金貨を出し、昼には屋根を半分持ち上げた。
一か月だけ、と本人は言っていた。
その一か月が四十八回続いた。
四年後、正体を明かしたアナを追って黒曜城へ来た。槍を向けられ、人質と呼ばれ、帰還式では天井と火が落ちた。それから二年、城の扉と兵士の癖まで覚えた。
アルマの隣にいる生活だけは、場所を変えて続いた。
「勇者が決まる前に、別の男を好きになった」
俺が言うと、アルマの指が木札の焦げ跡をなぞった。
「その男は?」
「質問を却下する」
「王命ですか」
「そうだ」
嘘をつくと、声が処刑命令になる。
これだけ近くで聞けば、処刑される側にも分かる。
「なら、好きな男に殺される計画は、とっくに失敗していたのでは?」
「そうだ」
短い返事だった。
好きな相手ではない勇者に殺される。それはもう、望んだ死に方ですらない。ただ世界を焼かないため、自分を処分する手順だ。
怒るべきだった。
六年分の嘘へ。二年前、正体を明かしたあとも一人で期限を抱えたことへ。
だが先に、右角のひびが目へ入る。
怒りはいつでも、心配に順番を抜かれる。
「今日、勇者が選ばれた」
アルマが告げた。
俺は処刑台から手を離した。
「名はミロ。十八歳。山間の村々を回る配達人だ」
「戦歴は」
「ない」
「剣は」
「今日、寺院から渡された」
「馬には」
「酔うらしい」
世界の命運を載せる荷車としては、車輪が足りない。
「俺ではないんですね」
「違う」
胸の奥が、一度だけ軽くなった。
その安堵を自覚した途端、胃へ鉛が落ちた。好きな女を殺さずに済むと喜んだのではない。別の誰かへ任せられると、ほんの一瞬、ほっとした。
最低だった。
「安心しましたか」
聞くと、アルマの声が一段低くなった。
「王は、選定に私情を挟まない」
彼女も安心したのだ。
安心して、それを恥じている。たぶん俺と同じ顔をしていた。
客席後方の扉が開いた。
古参兵ガドが、角を扉枠へぶつけて入ってくる。二年前なら俺を人質と呼んだ男だ。いまは俺が直した蝶番へ油を差しに来る。
「陛下。指定された兵を街道へ動かした」
ガドは俺へ王印付きの巻物を投げた。
開く。リュネから黒曜城までの街道、村、砦、百日分の進行予定。別紙には、俺が指示できる範囲が並んでいた。
模擬戦。撤退。物資の配置。
軍令、人事、処罰は不可。ガドが保証人となる。
「俺に全軍を渡す紙ではないんですね」
「おまえに全軍を渡すほど、我らは絶望していない」
ガドが言った。
妥当だった。
「勇者へ向かう魔物たちに、順に敗北してもらう」
アルマが告げる。
「本気に見せ、死者を出さず、ミロを人間と魔族の双方が認める勇者にする。百日目までに」
「わざと負けると?」
ガドの牙が鳴った。
「戦士へ自然に倒れろと言えば、立派に倒れようとするでしょう。床が割れます」
「戦士の最期は立派であるべきだ」
「死なせない話をしています」
最初の問題が、もう見えた。
アルマは負け方を知らない。ガドは立派に負けすぎる。勇者は戦歴なし。
そして俺は、人へ役を渡せば守れると思っている。
要するに、敗北係だ。
正式な官職名にされたら、その日のうちに辞表を書く。
「兵に屈辱を飲ませるのはおまえだ、レオル」
ガドが言った。
王印は道を開くだけだ。
歩く相手の誇りまでは命令できない。
「俺に、あなたを殺す勇者を育てろと」
アルマの金色の目が、わずかに伏せられた。
「命令だ」
好きだとは言わなかった。
死にたくないとも言わなかった。
「毎夜、黒曜城へ報告に戻れ」
「それも任務ですか」
「命令だ。二度聞くな」
この女は、言えない願いを全部命令形にする。
俺は巻物を閉じた。
白い予言者が告げたのは、《魔王》が死ぬことだ。アルマという女が死ぬことではない。
だから助かる、とは言えない。
言葉の穴だけで六年前の呪いが外れるなら、《黒冠》はとっくにただの帽子だ。《魔王》とアルマを分ける方法も、勇者の一撃を冠だけへ届かせる方法も、何一つ見えていない。
まだ、仮説ですらなかった。
それでも、台本の最後を決めるには早い。
「承知しました、魔王様」
俺は一礼した。
まずアルマへ標的役を、ミロへ勇者役を、魔物たちへ負け役を渡す。俺だけが舞台裏で全部を知り、予定から外れた者を戻せばいい。
明日から百日で、俺は好きな女を別の男に殺させる。
そういう台本を、まずは全員へ信じさせることにした。




