第17話 十七日目「魔狼は人間を許さない」
魔狼は丁寧に頭を下げてから、俺たちを食べると言った。
「遠路ご苦労さまでした。どうぞ、そのままお帰りください」
「帰らない場合は」
「手足から順にいただきます」
言葉遣いだけなら、今日までで最も礼儀正しい敵だった。
十七日目の朝。
三本杉街道の北にある森で、俺たちは十二頭の魔狼と向かい合っていた。
群れの長はラウラ。
銀灰色の大きな雌で、左目に古い傷がある。首には、歯を抜いた鉄の罠をいくつもつないで下げていた。
人間の狩人から奪ったものだ。
森へ入る者へ、先に返すために持ち歩いているらしい。
「昨日の伝令では、道を空けると」
「昨日までは、その予定でございました」
ラウラの尾が一度、地面を打つ。
木の根元へ、折れた矢が並んでいた。
人間軍の羽根印がある。
「その丁寧な言葉は、どこで覚えたんです」
「先月、巣へ火を放った隊長が、《失礼する》と申しましたので」
ラウラは牙を見せた。
「人間の礼儀は、便利でございます。殺す前に一言で済みます」
「夜明け前に、人間の斥候が入りました。罠を四つ。矢を七本。子を一頭、傷つけております」
「命令した部隊を調べます」
「調べ終わるまで、私どもは人間へ腹を見せて倒れていろと?」
「そうは言っていません」
「台本には、《勇者の威光に屈し伏せる》と」
俺の言葉だった。
ゴブリンへ謝った四日前の俺なら、ラウラにも同じ頼み方をした。
書き直す前の台本が、先に届いている。
「撤回します」
「遅うございます」
森の奥で、低い唸り声が増えた。
ミロとユラは俺の後ろにいる。
魔狼の牙は、聖剣では止められない。
俺の布と煙も、鼻の利く相手には効きにくい。
「今日は戦わず、退きます」
「それは何より」
ラウラが牙を見せた。
「私どもが追わないとは、申し上げておりません」
尾が、二度目に地面を打つ。
左右の茂みから魔狼が飛び出した。
「逃げます!」
ミロが最初に走る。
俺も走った。
ユラはすでに走っていた。
十五歩先で、ミロが右へ曲がる。
「そちらは街道ではありません!」
「街道に罠があります!」
走りながら指を差す。
落ち葉の下から、鉄の歯が半分だけ見えていた。
人間の斥候が置いた罠だ。
俺たちが来た道にも、いつの間にか増えている。
ミロは森へ入ったときから見つけていたらしい。
「右は荷車の古道です。罠を置くなら車輪跡の外。真ん中を走って!」
配達人は、逃げる前から逃げ道を見ていた。
古道へ入る。
枝が顔へ当たる。
魔狼は速い。
ミロはもっと速い。
ただし、俺たちを置いていかなければならない。
「レオルさん、左!」
言われるまま跳ぶ。
足元の縄を越えた。
直後、後ろの魔狼が縄を踏む。
枝へ吊られた丸太が横から振られた。
「伏せて!」
ユラの声で全員が地面へ落ちる。
丸太が頭上を通った。
魔狼も身を低くして避ける。
罠だけが、敵味方を平等に殺そうとしていた。
「この道を置いた人間へ、お礼を申し上げたいものです!」
ラウラが後ろから叫ぶ。
「食べる順番を譲ります!」
「謹んで辞退いたします!」
礼儀正しい会話をしながら追われると、余計に怖い。
古道の先に、小さな沢が見えた。
渡れば匂いが散る。
「沢まで!」
ミロが俺とユラを先へ通す。
自分は最後に残った。
「先に行ってください!」
「あなたも来る!」
ユラが命令する。
圧力下では敬語が落ちる。
ミロが沢へ足を掛けた。
そこで、右の茂みから高い鳴き声がした。
魔狼の子が一頭、倒れている。
後ろ脚へ太い縄が食い込み、木の根へ引かれていた。
夜明け前に傷ついた子だ。
逃げるなら、見なければよかった。
ミロは見た。
沢へ下ろしかけた足を戻す。
「勇者様!」
「先に逃げてください!」
子のそばへ膝をつく。
配達用の小刀を抜き、縄だけを切る。
聖剣よりよく切れた。
子が暴れ、ミロの左腕へ噛みついた。
「痛い!」
「動かさない!」
ユラが戻っている。
「噛まれたまま手を引くと裂けます。反対の手で首を支えて」
ミロは逃げなかった。
涙目で子の首を抱える。
ユラが縄を外し、脚へ布を巻いた。
ラウラたちが追いついた。
牙が並ぶ。
俺は煙筒へ手を伸ばした。
使えば鼻を刺激し、傷ついた子まで苦しむ。
役に立つ道具がない。
ラウラはミロの腕へ噛みつく子を見た。
「離しなさい、ルゥ」
子が牙を緩める。
ミロの袖に、赤い点が二つ残った。
ユラがすぐに押さえる。
「浅い。出血も少ない。座って」
「逃げなくていいんですか」
「今は座る!」
ミロは従った。
ラウラが傷ついた子の匂いを嗅ぐ。
人間の縄は切れている。
脚には、人間の治癒師が巻いた布。
「なぜ助けました」
「残っていたので」
「私どもは、あなたを食べようとしました」
「はい。まだ怖いです」
ミロの脚は座ったまま、沢の方向を向いている。
いつでも逃げるつもりだ。
「でも、この子は僕を食べる前に罠へ掛かっていました」
ラウラは長く黙った。
やがて尾を一度、ゆっくり地面へ置く。
群れの唸りが止まった。
「本日は、お帰りください」
「追いませんか」
「明日の朝まででしたら」
期限つきの休戦だった。
夕方、森を出たところでユラがミロの腕を洗った。
「今回の傷は、牙の位置と説明が一致します」
「よかったです」
「よくありません」
十日目と同じ診断だった。
違うのは、余白へ線を引かなかったことだ。
森の奥から、短い遠吠えが届いた。
明日の朝までに戻らなければ、また敵になる。
今度は、負け方ではなく、許さなくてよい勝ち方を考える必要があった。




