第15話 十五日目「旅人アナは魔王様に似ていない」
魔王様が人間の食堂で、銅貨一枚のスープに金貨を出した。
「お釣りは不要だ」
「必要です」
俺は店主の手へ渡る直前で金貨を取り上げた。
十五日目の昼。
橋の救助で潰れた麦を補うため、俺たちは三本杉街道の小さな食堂へ寄った。
先に奥の席へ座っていたのが、旅人姿のアルマだった。
人間の姿では角が消え、黒に近い紫の髪も肩まで短く見える。金色の目は茶色へ変わり、黒曜城の王服ではなく、灰色の外套と革靴を身につけていた。
六年前、月灯り座へ来たときの「アナ」だ。
ただし、人間の金銭感覚だけは六年前から進歩していない。
「銅貨を持っているでしょう」
「小さい硬貨は、どれも同じに見える」
「色が違います」
「暗い店だ」
「昼です」
店主は金貨と俺たちを交互に見ている。
「旅芝居の元同僚です」
先に説明した。
「舞台では王族の役を?」
ミロが聞く。
「王を演じたことはある」
「似合いそうです」
「でも、七日目に見た魔王とは似ていません。あの人は、座っているだけで息が止まりそうでした」
「そうか」
アルマは少しだけ機嫌をよくした。
「本人役でしたからね」
「レオルさん?」
「悪役が本人に似ていたという意味です」
昼食一回で正体を隠すだけなのに、開始一分で台詞が足りない。
ユラは名乗りもせず、アナの呼吸と手元を見ていた。
「寺院治癒師のユラです。こちらは勇者様の案内役で間違いありませんか」
「案内役?」
アルマが俺を見る。
彼女の知る俺の役職は、敗北係と城の裏方だ。
「今はそう名乗っています」
「似合わないな」
「あなたにだけは言われたくありません」
店主が薄いスープを四皿運んできた。
具は蕪が二切れ。玉葱が一欠片。鍋底に塩が沈み、上のほうはほとんど湯である。
アルマは一口飲んだ。
蜂蜜の味を失った十秒が、頭をよぎる。
「味は」
「薄い」
即答だった。
「蕪を煮すぎている。玉葱は鍋へ入れる前に焦がした。塩は混ぜ方が足りない」
「店主に聞こえます」
「だが、懐かしい」
アルマは、もう一口飲んだ。
月灯り座で給金が遅れた冬、四日続けて同じスープを食べた。五日目にアルマが厨房へ立ち、鍋をかき混ぜた拍子に柄杓を曲げた。
座長は弁償を求めた。
アルマは柄杓一本へ金貨を出した。
人間社会へ来て、最初に覚えた値段交渉だった。
「おいしいんですか」
ミロが自分の皿を見た。
「おいしくはない」
「懐かしい味だそうです」
「失礼な思い出ですね」
「失礼なのは今の店です」
店主がこちらを見た。
「声を落としてください」
俺が言うと、アルマは素直に匙を置いた。
その匙の柄が、少し曲がっていた。
六年たっても、力加減は覚えていない。
俺は彼女の手から匙を取り、指で戻そうとした。
アルマが俺の皿を自分の前へ引く。
底から混ぜ、塩の濃い部分を半分移した。
「おまえは濃いほうがよい」
「知っています」
会話が終わる。
ミロが匙を持ったまま俺たちを見ていた。
「本当に、元同僚ですか」
「六年ほどです」
「一緒に暮らしていただけだ」
アルマが補足した。
「補足しないでください」
「事実だ」
ユラが診療記録の余白へ線を引く。
「今のは何の疑問ですか」
「疑問ではありません。観察事実です」
恋愛の含みには鈍いはずだが、手順の一致は見逃さないらしい。
アルマはミロへ向き直った。
「勇者」
王の声が一瞬だけ戻る。
近くの客が匙を止めた。
「勇者様は、昨日の橋で全員を救ったんです」
俺が話をつなぐ。
「全員ではありません。麦袋を十二個落としました」
ミロが訂正する。
「人命を聞いている」
「人は全員です。蜂も」
「なぜ戻った」
「ネジさんたちが残っていたので」
「前日に、おまえを殺そうとした者だ」
ミロの匙が止まった。
「アナさん、見ていたんですか」
「レオルから聞いた」
「いつ?」
「昨夜です」
俺の通信鏡を知っている言い方だった。
「昔から、遠くにいても連絡が速い人で」
「遠く?」
「近くです」
「どちらですか」
「距離の話はやめましょう」
ユラの余白に、もう一本増えた。
アルマはミロだけを見ていた。
「殺されかけても救うのか」
「怖かったです」
ミロは答えた。
「助けたかったというより、落ちるのを見たら逃げられなくなりました。格好よくはありません」
「そうか」
アルマの声から、王の硬さが少し抜けた。
「では、魔王の前でも戻るか」
「一度は逃げます」
「一度」
「誰かが残っていたら、戻ります」
アルマは俺を見た。
やめてほしい。
その視線では、誰が残るつもりなのか分かってしまう。
「弱いな」
「はい」
「気に入った」
アルマが言う。
ミロは褒められたのか分からず、薄いスープを飲んだ。
夕方、食堂の裏で俺はアルマを問い詰めた。
「城を空けてよい状態ではありません」
「一刻だけだ。影道も最短しか使っていない」
「力を使えば、侵食が進む」
「勇者を自分の目で見たかった」
「俺の報告を信じていない?」
「信じている」
アルマは即答した。
「だから、報告に書かなかったものを見に来た」
何を、と聞く前に、彼女は食堂の窓へ目を向けた。
ミロが曲がった匙を店主へ謝り、代わりに薪を運んでいる。
「あの者は、私を殺せる」
アルマの指先が、俺の外套の袖へ触れた。
「だが、死なせるためだけに育てるには惜しい」
影が足元へ集まる。
黒い輪が開きかけ、その縁だけが細かく震えた。
アルマの身体が傾く。
俺は腕をつかみ、影の外へ引いた。
「中止です」
「一刻しか使っていない」
「帰りの分まで足りるとは言っていません」
次の村外れに、人目のない古い祠がある。そこなら城側から影道を開かせられる。
「明日、歩いてそこまで行きます」
「今夜は」
「銅貨で部屋を取ります」
「命令か」
「生活指導です」
アルマは反論せず、欠けたカップを一つ見つめた。
割れ目へ銀の留め具を打ち、店主が使い続けている。
「あれは、よいな」
人間社会を好きになった理由を、彼女は説明しなかった。
欠けても捨てず、明日の客へまた出す。
その程度の暮らしを見たくて、魔王は城を抜け出した。




