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【AI小説】雪山の幻影|2026  作者: 茉莉花イツカ


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第八話 包帯の下

 全身の骨組みが直に擦れ合うような激痛と共に、健太は意識の底から引き揚げられた。視界は極めて狭い。顔面までもが厚い布地で覆われ、わずかな隙間から無機質な天井が覗くのみだった。


 身体を起こそうと試みた瞬間、健太を襲ったのは、底知れぬ恐怖と絶望だった。手足はまるで鉛の鋳物に作り変えられたかのように微動だにせず、意思とは無関係にベッドへ強固に固定されている。


 全身を隙間なく締め付ける重い包帯の感触が、皮膚を呼吸ごと圧迫する冷酷な檻となっていた。指先一つ、眉一つ動かすことができない。


 まるで生きたまま棺桶に押し込められ、セメントで固められたかのような圧倒的な閉塞感が、健太の精神を狂おしいパニックへと突き動かした。叫ぼうとしても、胸が圧迫されて浅い呼吸を繰り返すことしかできず、縛られた肉体の内側で、自身の血液が恐怖で沸騰していくような、形容しがたい狂気が暴れ回っていた。


 喉の奥から弱々しい喘鳴が漏れる。


「あ、意識が戻りましたね」


 視界の端に滑り込んできたのは、冷徹な白い制服を纏った看護師の姿だった。


「ここは……」


「集中治療室です。状態が急変したため、緊急の処置を行いました」


 彼女の声は不自然なほど専門的で、一切の感情を排していた。混乱する記憶の断層の中で、あの非常階段を真っ逆さまに転落していった衝撃が過る。


 だが、あれは無機質なビルの階段だったか、それとも吹雪に狂う雪山の斜面だったか。二つの光景が網膜の裏で重なり合い、激しく明滅する。


「なぜ……動けないんですか」


「怪我の悪化を防ぐためです。しばらくは安静にしていただく必要があります」


 淡々と言い置く彼女の瞳は、まるで実験動物のバイタルを観察するように、健太の顔を執拗に凝視していた。


「美咲は……? 彼女に連絡を……」


 掠れた声で懇願した瞬間、看護師の顔から表情が綺麗に削ぎ落とされた。その瞳の奥に宿ったのは、深い困惑と、死者を悼むかのような濃密な哀憐だった。


「美咲さん……ですか? わかりました。確認してみます」


 その言葉と表情の決定的な乖離を目にした健太の胸に、冷たい氷の楔が突き刺さった。なぜ、そんな目で俺を見る。その憐れみの色は、ただの入院患者に向けるそれではない。


 まるで、この世に存在しない亡霊の名前を口にされたかのような、あるいは決定的に致命的な何かを隠蔽しようとしているかのような、ぞっとするほど不穏な光を孕んでいた。美咲という存在そのものが、本当にこの世界のどこにもいないのではないか。


 あるいは、自分が信じてきた彼女との絆のすべてが、自分を現世に繋ぎ止めるための哀れな嘘だったのではないか。底なしの不信感と孤独が、健太の内心を激しく侵食していった。


 看護師が去り、一人取り残された静寂の中で天井を仰ぐと、白い壁紙の表面に微細なひび割れが無数に広がり始めていた。それは経年劣化の溝ではなく、人間の爪が狂ったように引っかき回した跡のようだった。


 部屋の四隅の暗がりから、黒い靄のような闇の粒子が湧き出し、徐々に形を成していく。それは人とも動物ともつかない、異様に長い四肢を持つ不気味な人型だった。


 胸の肉壁を内側から狂ったように打ち鳴らす鼓動が速くなり、瞳孔が恐怖で完全に開く。叫ぼうとしても、喉の奥が引き攣れて音の出し方を失い、掠れた悲鳴すら出せない。


 その影は、関節をピクリと不規則に痙攣させながら、床を引きずるような湿った音を立ててベッドへと近づいてくる。一歩迫るごとに、室内の温度はさらに急激に降下し、霜の花が架台に咲き乱れた。


 逃げられない。


 全身の毛穴から冷たい汗が噴き出す。影は器用にシーツを伝ってベッドを登り、ついに健太の胸の上へと這い上がってきた。顔のあるべき場所は光を吸い込む暗黒の空白のままだ。その細い腕が伸び、健太の首を容赦なく締め付けた。


 氷のような冷たさと確かな質量が喉元を圧迫し、視界が白く点滅し始める。同時に、左足の切断部位から、ナイフで骨を直に砕かれるような猛烈な激痛が走り抜けた。熱く、そして凄ましき冷たい地獄の感覚。


 窒息の絶望のなかで意識が途切れかけたその瞬間、健太の脳裏を、これまでの闘いの記憶が激しく駆け巡った。『世界を疑え』とノートに刻み付けた、自らの血の滲むような筆圧。美咲が露呈させた出会いの場所の決定的な矛盾。


 読もうとするたびに記号へと崩壊していったPCの文字列。そしてテレビ画面が放った、一年前の昏睡という冷酷な日付。これらすべてのバグは何のために存在していたのか。


 世界が自分を騙しているのではない。もしこの世界全体が、自分の正気を失わせるための精巧な嘘なのだとしたら、いま自分の首を絞めているこの四つん這いの怪異もまた、外側からやってきた化け物などではないはずだ。


 これは、あの雪山で斉藤さんに対して自分が犯したかもしれない、あるいは見捨ててきたかもしれないという、底なしの罪悪感と恐怖が具現化した、俺自身の精神の生み出した防衛反応、すなわち幻影だ。狂っているのは世界ではない、俺の脳だ。


 ならば、ここは俺の領域であり、俺の頭の中だ。自分自身が作り出した生贄の檻のなかで、いつまで被害者のように怯え、流され続けるというのか。主導権を、自らの存在を、この怪異に明け渡してなるものか。


 逡巡は、コンマ数秒の間に圧倒的な怒りへと昇華され、健太の精神を完全に覚醒させた。


「お前は、俺の中にしかいない!」


 その確信の言葉が魂を貫いた刹那、動くはずのない腕が猛然と駆動した。全身を縛り付けていた包帯の鎖を、内なる意志の爆発によって力任せに引きちぎり、全力で首を絞める影の腕を掴み取る。


「出ていけ!」


 健太は直感のままに、自らの右手を影の胸の黒い空白へと力任せに突き刺した。内部へ滑り込む強烈な凍結の感覚。手を貫かれた影は、世界の亀裂のような悲鳴の残響を残し、一瞬だけ見覚えのある男の凄惨な輪郭を結んだ後、霧のように完全に四散した。


 深く息を吐き出し、ベッドに身体を沈める。左足の激痛は不思議なほどに鋭さを失い、愛おしいほどの鈍い脈動へと変わっていた。


 胸を圧迫していた恐怖は去り、代わりに穏やかで濃密な疲労感が押し寄せてくる。気づけば、異常な冷気も、引きずるような変な這う音も、すべてが嘘のように消え去っていた。


 病室はただの静謐な空間へと戻り、機械の規則的なビープ音だけが鼓膜を優しく打っている。見上げる天井には、もう引っかき傷も氷の結晶も見えない。ただの、ありふれた白い天井だった。


「美咲……」


 小さく呟いた健太は、悪夢の終わりを確信し、深い安堵のなかで静かに瞼を閉じた。この安らぎの向こう側に、どのような真実が待っていようとも、もうすべてに向き合う準備はできていた。

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