第七話 白い迷宮
濃密な消毒液の臭気が鼻腔を厳格に支配し、肌を刺す無機質な冷気と共に、健太の意識を昏い底から引き揚げた。見上げる視界に広がっていたのは、高すぎ、そして白すぎる天井だった。
自宅のリビングで倒れた自分は、そのまま病院へ搬送されたのだろうか。
身体を苛んでいたあの凄まじい激痛は、奇妙なほどに凪いでいる。あの恐ろしい自宅の崩壊や、消えかけていた左足の恐怖は、すべて体調を崩した自分が見た一時の悪夢で、この静かな病室こそが本当の現実なのかもしれない。健太は心から安堵し、状況を確かめようと身を起こした。
しかし、ベッドの上で周囲を見回したとき、最初の違和感が這い上がってきた。
あまりにも部屋が静かすぎる。救急搬送されたはずなのに、医師も看護師も近くにおらず、人の気配がまったくしない。そればかりか、ベッドの脇に並ぶ複雑な医療機器は、液晶がどれも真っ暗で、電源すら入っていなかった。
自分自身の身体にも、バイタルを測るためのコードや処置の器具など、何ひとつ取り付けられていない。ただ、真っ白なシーツの上に寝かされているだけだった。
戸惑いながらも、ベッドから冷たい床へと素足を引きずり下ろした瞬間、膝から下に質量のない、切り離された虚無の冷たさが神経を伝って這い上がってきた。一歩を踏み出すたびに、己の肉体ではない何か異物を動かしているような、不気味な乖離感が足元から伝ってくる。
◇◇◇
「誰か……いないのか」
放った掠れた声は、静まり返った空間に虚しく吸い込まれていく。一歩を踏み出すたびに、己の肉体ではない何か異物を動かしているような、不気味な乖離感が足元から伝わってきた。病室の外へと繋がる廊下は異様に引き伸ばされ、その両端は深い闇の境界線へと溶け込んでいる。
無人のナースステーションで、唯一稼働しているパソコンの青白いモニターだけが、冷徹な死の光を放って明滅していた。その液晶画面に並ぶ無機質な文字列を目にした瞬間、健太の呼吸がぴたりと止まった。
『高橋健太 - 重度凍傷 - 左足切断』
その文字列が網膜に焼き付いた刹那、健太の精神は狂気的な拒絶のなかに叩き落とされた。
──嘘だ。そんなはずはない。
頭の中で、理性が金切り声をあげてその現実を否定した。俺の足はある。現に今、この冷たい床を両足で踏みしめて立っているじゃないか。肉の感触も、動かそうとする意志も、確かにここに繋がっている。
これは何かの間違いだ、同姓同名の他人のカルテか、あるいは自分を狂わせようとする世界が悪意を持って仕組んだ、最低の幻覚に過ぎない。
しかし、その激しい否認の裏側で、これまでずっと無視し続けてきた「質量のない違和感」や「脈打つ激痛」、そして第6話で目の当たりにした「足の透ける恐怖」が、おぞましい整合性を持って脳内で結合していく。本当に、俺の足はもうないのか? 切り落とされ、どこかのゴミ箱にでも捨てられたというのか?
絶対的な事実として突きつけられた身体の欠損への恐怖が、津波となって押し寄せ、健太の心臓を狂ったように締め付けた。呼吸の仕方を忘れたかのように胸が激しく上下し、冷や汗が全身から噴き出す。
四肢の先から血の気が引き、世界が急速に遠ざかっていくような、未だかつてない烈しいパニックが彼の五感を支配した。日常だけでなく、自らの肉体の存在理由さえも奪い去られた絶望のなかで、健太はただモニターを睨みつけることしかできなかった。
その文字が網膜に焼き付いた刹那、廊下の奥深く、光の届かない暗闇の底から、床を引っかくカリカリという乾いた爪音が響いた。次いで、四肢で床を引きずるズルズルという湿った物音が、凍てついた空気の流れを伴ってこちらへ近づいてくる。
闇の中から現れたのは、登山用のハードシェルジャケットを纏い、不自然に変形した四肢で地を這う、極限まで痩せ細った人影だった。顔のあるべき場所は深く窪んだ暗黒に沈み、そこには生者の特徴など何一つ残されていない。
本能的な恐怖のままに、健太は白い迷宮のような廊下を疾走し始めた。背後から迫る、人間離れした関節の駆動音が鼓膜を容赦なく打ちつける。突き当たりに見えた非常口の重い鉄扉を押し開け、冷気が渦巻く非常階段の空間へと身体を飛び込ませた。
◇◇◇
見上げれば霧のような白が視界を遮り、見下ろせば底知れぬ闇の深淵が口を開けている。
追ってくる影は、重力や物理法則を嘲笑うかのようなぎこちない速さで、壁や手すりを伝いながら距離を縮めてきた。その不気味な輪郭が間近に迫ったとき、冷気の塊と化した指先が、健太の左足首を確実に捉えた。
触れられた瞬間、神経の奥底を直接切り裂くような、凍結する激痛が走った。健太は悲鳴を上げようとしたが、手すりを掴んでいた指の力が抜け、身体のバランスが完全に崩壊した。
宙を舞い、永遠に続く落下の衝撃が始まった。階段の斜面を転がり落ち、壁や床に激突するたびに、踊り場の風景が狂ったように明滅する。
無機質な病院の床、都会の剥き出しのコンクリート、切り立った崖の岩棚、あるいは──視界の端をかすめる、死の白に染まった雪山の幻影。
上から見下ろす影の、言葉にならない哀切の眼差しを網膜の底に焼き付けながら、健太は風の絶叫が遠のくのを聞いた。剥ぎ取られていく意識の向こう側、世界全体が反転し、彼は抗う術のない、さらなる底なしの暗黒へと幽閉されていった。




