第六話 消えない映像
あれから一睡もできぬまま、夜が明けた。朝の光が容赦なく室内に差し込んでいるというのに、健太は昨夜の衣服を纏ったまま、ソファの上で石のように固まっていた。セーターの袖を引き絞り、自らの身体を抱え込むように丸めている。
喉は乾ききり、全身の筋肉は恐怖の残響で硬直したままだ。部屋を支配する寒冷はさらにその密度を増し、呼吸のたびに吐き出す息が、明確な白い霧となって空間に澱のように漂う。そのとき、枕元のスマートフォンが微かに振動した。画面に浮かび上がったのは、美咲からのメッセージだった。
『おはよう。今日は午後から会えるね。体調はどう?』
その一言を目にした瞬間、健太の強張っていた肩の力がふっと抜けた。得体の知れない怪異の記憶に締め付けられていた胸の奥に、束の間の安堵が広がる。やはり彼女だけが、この狂いそうな日常を現実へと繋ぎ止めてくれる唯一の救いだった。
「大丈夫。少し寝不足」
短くそう返信し、ベッドから立ち上がろうとした瞬間、左足にナイフで刺されたような激痛が走り抜けた。健太は顔をしかめ、靴下を脱いで自らの左足首を確認した。くるぶしの辺りの赤い線が、昨日よりも明らかに鮮明に、皮膚の底から浮き上がるように濃くなっていた。視覚的に、確実に悪化している。
嫌な汗を拭いながらリビングへ移動し、前日の物的証拠を確認しようとした。しかし、健太は愕然とする。昨日、確かに冷蔵庫の奥に鎮座していた、あの直感が拒絶したはずの「赤いプラスチック容器」が、跡形もなく消え去っていた。
慌ててテーブルの上を見るが、佐藤に隠して持ち帰ったはずの「古いデジタルカメラ」もない。机の引き出しを開け、日記のページを狂ったようにめくったが、挟み込んだはずの一ノ倉沢の「雪山の写真」すら、どこにも見当たらなかった。前話で確かに存在した物的証拠が、朝になると跡形もなく消えている。
「そもそも、本当にあったのか……?」
自分の正気そのものが最初から壊れているのではないかという、底なしの不安が健太の精神を激しく揺さぶった。
そのとき、卓上のリモコンに触れてもいないテレビの画面が、突如として不気味な自発性をもって明滅を始めた。砂嵐のようなノイズの底から、徐々に一本の白い通路が浮かび上がる。それは、見紛うはずのない病院の廊下だった。
見たくないという本能的な拒絶のままにリモコンのボタンを乱暴に叩くが、画面は冷淡な光を放ち続ける。チャンネルを切り替えようとしても、表示される数字の虚しさとは裏腹に、映し出される白い空間は微動だにしない。
コンセントのコードを壁から力任せに引き抜いても、液晶は狂ったように発光を続け、カメラの視線は病室の奥へと侵入していく。ベッドに横たわる、汗と憔悴に塗れた己の横顔。スピーカーから漏れる医師の、乾いた宣告が鼓膜を打った。
「高橋健太さんはまだ昏睡状態です。一週間経過しましたが、意識の回復の兆候はありません……」
画面の隅に表示された日付は、一年前の遭難当時のものだった。
「いやだ、消えろ!」
錯乱のなかで手にした山岳部の集合写真のフォトフレームを、発光する画面へと投げつける。ガラスが粉々に砕け散る鋭利な音が響いた。それだけでなく、テレビの液晶画面にも激しいひび割れが走り、黒い液が滲み出していた。
直後に鳴り響いたインターホンの音に弾かれるように玄関へ向かい、受け取った荷物の差出人──『斉藤剛』の名を見た瞬間、血の気が完全に引いた。箱を開ければ、そこには一本の登山用ナイフ。ブレードの鈍い光沢を汚すように、赤茶色の生々しい染みがこびりついている。
床に落とした拍子にそれが血溜まりのように広がり、健太は絶叫しかけたが、まばたきをすれば、床は何事もなかったかのように元のフローリングに戻っていた。あまりの恐怖と、自らの実存が足元から崩壊していくような感覚に圧倒され、健太は部屋から逃げ出すことすらできなかった。もし一歩でも外に出れば、そのまま世界の虚無に呑み込まれてしまうのではないか──そんな本能的な怯えに支配され、彼はただソファの隅に深く身を沈め、ガチガチと震える身体を抱え込んだまま、午後を、美咲の到来を待つしかなかった。
◇◇◇
午後、美咲が部屋を訪れたとき、健太は冷徹な静寂のなかに座り込んでいた。彼女は室内の異常な氷点下の空気に身を晒しながらも、平然と白いダウンコートを脱ぎ、その下の青いワンピースを揺らしている。二月の寒風を思えばあまりにも薄着であるはずなのに、彼女の肌には鳥肌一つ立っていない。髪型も、唇の紅も、いつ会っても絵画のように整いすぎているその外見に、健太は底知れぬ空恐ろしさを覚えた。
片付けようとしてふと視線を落とした健太は、その場で息を呑んだ。先ほど自分が激昂してテレビに投げつけ、粉々に割れたはずの写真立てが、元の棚に無傷で戻っていたのだ。それだけではない。液晶が激しく破壊されたはずのテレビ画面にも、一本の傷さえ残っていない。「壊れたはずのもの」が二つ、何事もなかったかのように並んで元通りになっている。
その強烈な物理的矛盾の強度に、世界全体のルールが破綻しているという確信が健太の背筋を伝った。
「健太、本当に顔色が悪いわ。どうしたの?」
美咲が心配そうに歩み寄ってくる。そのとき、白い壁紙の一部が、わずかに薄く透けるように変質し、そこへ不気味な生き物の触手のような模様がじわじわと浮かび上がった。健太が息を詰めてそれを見つめると、美咲の視線も確かにその変質した壁へと向けられた。
彼女には確実に見えているはずだった。しかし、美咲はわずかに眉をひそめただけで、すぐに普段通りの穏やかな表情に戻り、何事もなかったかのように健太を見つめた。その異変を完全に「気づかないふり」で押し通す仕草に、健太はぞっとするような戦慄を覚えた。
現実が壊れているのか、それとも自分の正気が壊れているのか。健太は自らの主導権を確かめるべく、静かに、しかし決然と問いを投げかけた。
「美咲、俺たちはどこで出会ったんだっけ」
「また忘れちゃったの? 大学のサークルよ。私が写真部で、あなたが山岳部」
前回のカフェでの言葉が、脳裏で鋭く衝突する。あのとき彼女は、救急救命センターのベッドの傍らにいた看護師だと言わなかったか。
「おかしいな。前のカフェでは、救急センターの看護師として出会ったと言わなかったか?」
矛盾を突きつけられた瞬間、美咲の顔の表面が一瞬、薄い仮面が内側からひび割れるように硬直し、すぐに歪んだ微笑みへと戻った。
──やはり、この世界の『美咲』は、綻びを始めている。
そのとき、窓の外から世界を叩き割るような風の絶叫が響き渡った。振り返れば、そこにあるはずの東京の景色は掻き消え、視界を遮るほどの猛吹雪が吹き荒れる雪山の斜面がむき出しになっていた。
あまりの轟音と光景の激変に健太は身を震わせるが、美咲はその恐るべき光景に決して窓を振り返ろうとはせず、ただ健太をじっと見つめ続けている。
「美咲……窓の外を見ろ。あれは東京じゃない、雪山だ……!」
健太は声を絞り出したが、美咲は微動だにせず、気づかないふりをしたまま穏やかに微笑んだ。
「大丈夫よ、ただの雪よ。あなた、本当に疲れているのね」
その言葉の圧倒的な空虚さに、健太の背筋を冷たい悪寒が駆け抜ける。
立ち上がろうとした健太の左足が、突如として質量を失った。靴下の生地を通して、フローリングの木目が完全に透けて見えている。足が、消えていく。その事実を視覚と触覚が完全に認識した瞬間、健太の肉体を、生物としての根源的な絶望と恐怖が貫いた。助けを求めるように美咲を仰ぎ見た。
「足が……消えていくんだ、美咲!」
しかし彼女は、消えゆく足へ一瞬視線を落としただけで、やはり眉一つ動かさずに、平然と言い放った。
「私には、ちゃんとある足にしか見えないけど」
その声には労わりも動揺もなく、ただ現実を拒絶し、歪んだ幻想を維持しようとする観察者の響きだけがあった。
その恐怖を嘲笑うように、壁の隙間から、あの四つん這いの長い影が床へと這い降り、関節を軋ませながら距離を詰めてくる。壁紙が溶けるように歪み、天井が軋みながら低く迫ってくる。フローリングの感触が完全に失われ、足裏に伝わるのは硬く冷えきった岩盤の感触だった。
見慣れたリビングの壁が、ナイロン生地の薄い天幕へと急速に作り替えられていく。世界全体の骨組みが激しく揺らぎ、完全に崩壊した空間の中で、健太の意識は底のない暗黒へと叩き落とされた。




