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【AI小説】雪山の幻影|2026  作者: 茉莉花イツカ


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第五話 境界の崩壊

 マンションの重い扉を押し開けると、エントランスの隅にある小さな明かり取りの窓から、橙色に沈みゆく夕日の残光が漏れ差していた。エレベーターの鏡に映る自分の顔は、日に日に削げ落ち、今や生気を完全に奪われた灰白色の能面のようだった。


 部屋に戻り、厚手の毛布を幾重にも引きずりながらソファに身体を埋める。冷えきった缶ビールをあけたが、手のひらの熱が急速に奪われていくだけだった。テレビをつけると、無機質なアナウンサーの声が東京の平年並みの気温を告げている。


 健太は混乱した眼差しで窓外を仰いだ。ガラスの表面には、微細な氷の結晶が、まるでガラスの表面に鋭く刻まれた不吉なひび割れのように網の目を広げていく。その結晶の向こう、見慣れたはずのビルの群青が、一瞬、猛吹雪に身をよじる巨大な山肌の輪郭となって網膜を射抜いた。


 まばたきをすると、景色は冷淡な都会の夜景へと戻る。


 ポケットから取り出した古いカメラは、何度電源ボタンを押しても虚無的な黒い画面のまま、沈黙を保っていた。諦めて卓上に置いたとき、スマートフォンが鋭く振動した。美咲からだった。


「健太? 大丈夫? 声が変よ」


「ああ、少し調子が悪くて、早く帰ってきたんだ」


「そう……。今日ね、会社で何かあったって聞いたわ。あなたが廊下で何かを見たって。それに、あのカメラのことも……」


 健太の背筋を、強烈な悪寒が這い上がった。社内の誰かが見た廊下の姿が噂になるのは、まだわかる。だが、カメラは違う。あれは誰にも話していない。


 ──いや、待て。佐藤が見ていたのかもしれない。あるいは、あの場に居合わせた誰かが。そう思おうとする自分と、それを鵜呑みにできない自分がせめぎ合った。この世界の異常が、佐藤だけでなく、唯一縋れる美咲の領域にまで侵食し始めているのだとしたら。


「誰から聞いたんだ」


 溢れ出そうとする焦燥と、世界への言い知れぬ怒りを辛うじて押し殺し、健太は声を絞り出した。


「病院に来た人からよ。写真撮影の件があったって……」


 写真撮影の件。健太の思考が、縋るようにその言葉へ飛びついた。そうだ、社内で何か別の撮影行事でもあって、それが噂として病院関係者の耳にまで伝わっただけかもしれない。だとすれば、辻褄は合う。彼女は何も知らない。ただの偶然だ。


 だが、その希望は長くは続かなかった。廊下の影も、拾ったカメラも、佐藤にすら明かしていない。もし本当にただの噂なら、なぜ「カメラ」という一点までもが、彼女の言葉の中に紛れ込んでくるのか。信じたい気持ちが、疑いの重みに軋みながら沈んでいく。


 彼女の声はいつも通り過不足なく穏やかだったが、その滑らかさが、かえって入念に調律された機械のビープ音のように不自然に響いた。斉藤の名を執拗に拒絶したときの、あの見えない壁が受話器の向こう側にそびえ立っている。ここで追及しすぎては逃げられる。健太は「金曜日の対峙」へ向けて、溢れ出そうとする怒りを辛うじて押し殺した。


 通話を切った部屋は、さらに深い零度の深淵へと沈み込んでいた。壁の温度計は動いているのに、インジケーターは冷徹に氷点下を示している。キッチンへ逃げ込み、蛇口の水を沸かそうとしたが、冷蔵庫を開けた健太の目は、その奥に鎮座する見覚えのない赤いプラスチック容器に釘付けになった。


 自ら購入した記憶はどこにもない。半透明の壁越しに透けるのは、赤黒い、肉の塊のような何か。直感が、それを暴くことを激しく拒絶していた。


 それは、単なる悪質な悪戯などではなかった。あの日、電車内で見た、あの白い雪原を汚していた赤茶色の染み、そして自分が握っていたナイフ。そのおぞましい殺意の断片が、この容器のなかに潜む肉塊と、不吉な整合性を持って結びつこうとしていた。


 まさか、自分が山で斉藤さんを切り刻み、その肉の破片を自らここへ持ち帰ったというのか。それとも、すべてを察知している美咲が、自分を完全に発狂させて自滅へと追い込むために、この部屋の鍵を開けて仕込んだ決定的な罠なのか。


 開ければすべてが終わる。自分が犯したかもしれない大罪の証拠か、あるいは美咲の狂気の証明と直面することになる。その恐怖と、しかし真実を暴かねば自分の主導権を取り戻せないという執念が胸中で激しく衝突し、健太の精神を狂おしく引き裂き続けた。


 同時に、脳の深淵を激しい痛みが直撃し、視界の端でリビングの卓上にあるカメラの液晶が、突如として青白い光を放って起動した。画面には、あの雪原の赤い染みと、四つん這いの影が鮮明に浮かび上がっている。


 寝室へ逃れ、ベッドに飛び込んで目を閉じた。全身を苛んでいた恐怖の残響が、次第に重い疲労へと変わっていく。抗おうとしても瞼は勝手に落ち、意識はまどろみの底へと引きずり込まれていった。


 次に瞼を開けたとき、枕元の時計は午前零時を指していた。眠っていた自覚はほとんどない。ただ、押し入るような静寂の中、部屋の隅──天井と壁の継ぎ目のあたりに、いつの間にか小さな黒い染みのようなものが浮かんでいることに気づいた。


 最初はただの影の濃淡にしか見えなかった。だが見つめているうちに、その染みはじわりと輪郭を持ち始めた。滲むように広がり、収縮し、また広がる。まるで濃い墨を垂らした水面が、ゆっくりと像を結んでいくように。


 やがてそれは、床に伏した何かの形へと変わっていった。細く歪な四肢。関節の位置が、あるべき場所からわずかにずれている。健太は声を出すこともできず、ただそれが完成していく過程を見つめ続けるしかなかった。


 完全に像を結んだそれは、ゆっくりと頭を持ち上げた。顔のあるべき場所は、光を吸い込む暗黒の空白のままだった。


『お前は知っている。テントの中で何が起きたか。生き延びるための選択を……』


 斉藤の極度に掠れた声が、脳の細胞一つ一つから染み出してくる。健太は絶叫をあげようとしたが、肺の空気が完全に凍りつき、声にならなかった。

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