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【AI小説】雪山の幻影|2026  作者: 茉莉花イツカ


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第四話 凍てつく部屋

 曇天の会議室、窓外の鉛色の空からは光が完全に奪われていた。健太は卓上の資料に視線を落とさざるを得ず、山下の声を鼓膜の表面で受け流していた。新しいプレゼンの枠組み、ターゲット層の分析──響いてくる単語は理解できても、それらが意味の体系を結ぶ前に、意識の表面を滑り落ちてしていく。


 自分の指先がキーボードを叩いてこれらを作り上げたという事実さえ、他人が書いた無味乾燥な記号の羅列を眺めているかのように、現実的な手応えを一切結ばなかった。


 席に戻ると、デスクの真ん中に置かれた茶封筒が視界に飛び込んできた。差出人は空白。封を裂き、中から引き出したのは、谷川岳の一ノ倉沢を写した一枚の写真だった。


 険悪な雪壁の奥に、半分雪に埋もれたテントが見える。裏面には、乾いた黒インクで『覚えているか』とだけ書き殴られていた。


 心臓が喉元までせり上がるほど激しく脈打ち、胸の奥へ冷徹な悪寒が満ちていく。恐怖と同時に、健太の胸を突いたのは、逃れようのない「既視感」だった。


 このアングル、この切り取られた絶極の光景を、自分はかつて確実に生々しい五感と共に知っていた。これは誰からの脅迫だ? 美咲か? それとも、あのホームにいた斉藤さんなのか。


 失われた三週間の闇から、何かが自分を引きずり出そうと牙を剥いている。しかし、健太は今度は目を背けなかった。指の震えを必死に抑えながら写真を凝視し、雪壁の角度や、半分埋まったテントの形を記憶の断層と照らし合わせる。


「誰がこれを置いた? 何のために俺を揺さぶる?」


 恐怖を、客観的な疑念という名の武器に変換し、健太は誰にも見られないよう写真を『記憶再生のための日記』の間にそっと挟み込んだ。これは怯えて隠したのではない。反撃のための、最初の手がかりとして鹵獲ろかくしたのだ。


    ◇◇◇


 資料をコピーするために席を立ち、廊下の突き当たりに向かったとき、その角に直立する人影を見つけた。僅かに猫背気味の、見紛うはずのない斉藤の背丈だった。


「斉藤さん?」


 声は届かない。次の瞬間、その影の膝が不自然な角度で折れ曲がった。まるで骨組みを失った操り人形のように、まず両膝が床につき、次いで両手が前方の床へとしなだれる。


 立っていたはずの人間が、一瞬にして四つん這いの姿勢へと崩壊していく。


 健太の身体は恐怖で地面に縫い付けられた。その存在は、人間離れした関節の駆動で、床を引きずるようにこちらへ這い進んでくる。顔のあるべき場所は暗澹たる闇に沈み、爪が床を引っかくカリカリという湿った音が廊下に異常な鮮明さで反響した。


 これは俺の脳が作り出した幻覚か? いや、あの床を引っかく音は確かに俺の鼓膜を物理的に揺らした。斉藤さんはあの日、あの山で、本当にあのように四つん這いになって……。


 そこまで思考が至ったとき、胸を刺したのは、自らの正気を疑う恐怖と、隠された過去への強烈な嫌悪だった。


「高橋さん?」


 背後からの佐藤の声に跳ね上がった。視界の明滅が収まったとき、廊下の先には誰もいなかった。振り返ると、佐藤が怪訝そうにこちらを見つめていた。


    ◇◇◇


 その日の昼休み、食堂で受け取ったばかりの味噌汁は、一口すすると氷のように冷めきっていた。同僚の女性から「廊下で拾った」と渡された小さな封筒には、あの写真の裏と同じ筆致で『屋上』とだけ書かれていた。


 コートも羽織らずに屋上へ出ると、ビルを揺らす狂風がスーツの隙間から入り込んだ。誰もいない空間の隅、室外機の影に、古いデジタルカメラが遺棄されるように置かれていた。電源を入れると、液晶画面に一枚の写真が映し出された。


 別の角度から捉えられた、あの吹雪のテント。画像を拡大すると、薄暗いテントの奥に、床に伏した四つん這いのシルエットが、息を潜めて静止しているのが見えた。


「高橋さん」


 またしても背後に佐藤が立っていた。


「山下部長が探していますよ」


 健太は内心の戦慄を完璧に押し殺し、努めて自然な動作でデジタルカメラをポケットの奥へと滑り込ませた。この会社、あるいは自分の周囲すべてに、怪異の協力者か、自分を監視している人間がいる。佐藤の無感情な瞳を見つめながら、健太はそれを確信した。


 ここで取り乱しては相手の思う壺だ。


「ああ、すぐ行く。ありがとう」


 敵に手の内を明かさぬよう毅然と答え、健太は左足の強烈な痛みを顔に出すことなく、ゆっくりとオフィスへと歩き出した。


    ◇◇◇


 帰りの電車の中、健太はポケットからカメラを取り出し、画像をさらにスクロールした。そこには、先ほどは気づかなかったもう一枚の写真が存在していた。白い雪原の中に広がる、不自然な赤茶色の染み。


 その中心に座り込む人物の手には、長細いナイフの冷たい光沢が握られていた。撮影のブレと角度のせいで顔は判別できないが、その輪郭は、見たくないはずの自らの身体感覚と、酷く正確に重なり合っているように思えた。


 まさか、俺が──俺があの真っ白な地獄の中で、斉藤さんをこのナイフで切り裂いたのか? 脳内に閃いた最悪の推測が、健太の精神を激しく震わせた。全身の血が逆流するような恐怖と、自己への猛烈な拒絶が濁流となって押し寄せる。


「違う、俺はそんなことはしていない、生き延びるために必死だっただけだ」と心の中で狂ったように叫び、目の前の画像を消し去ろうとする。しかし、ナイフを握るその不自然な前傾姿勢、その手の角度は、紛れもなく健太自身の肉体が記憶している「何か」と、おぞましいまでの整合性を持って融和していた。


 パニックと混沌の中、彼は自分の両手を凝視し、その感覚の正体から逃れるようにカメラを強く握りしめた。

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