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【AI小説】雪山の幻影|2026  作者: 茉莉花イツカ


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第三話 這う影

 同僚たちの弾けるような笑い声と、ジョッキの衝突する無機質な音が居酒屋の空間を満たしていたが、健太はその喧騒の底で冷たい生ビールをただ見つめていた。黄金色の液体の表面で、白い泡がゆっくりと、しかし確実に死滅していく。周囲の会話はまるで厚い水層を通したように遠く、彼の意識は未だに昨日のカフェで美咲が見せた、あの凍りついたような表情に囚われたままだった。


「高橋くん、元気ないね」


 隣に座る女性社員が、アルコールの匂いをまとわせて声をかけてきた。


「ああ、少し疲れているだけだよ」


 生返事を返しながら、健太は胸の内で冷や汗をかいた。彼女の顔は確かに見えているのに、どうしても名前という記号が脳の表面に浮かんでこない。最近、身近な人間の輪郭や名前が、古いモノクロ写真のインクが湿気で滲んでいくように、記憶の境界線ごと不鮮明になることが増えていた。


 世界がその実体を失いかけている。その事実が、健太の心をじわじわと削り取っていく。


「斉藤さんのこと、聞いた?」


 彼女は声をさらに潜め、悪戯っぽく微笑んだ。


「山下さんが言ってたよ。山で見かけた人がいるらしくて、生きてるんじゃないかって」


 健太の指先が、ジョッキの取っ手を強く握りしめた。斉藤──その名前が鼓膜を叩くたび、胸の深淵を冷たい楔で突かれるような鋭い痛みが走る。


「そんなはずはない」


 低く、固い拒絶の響きが健太の口から漏れた。


「あの状況で、生き延びられるわけがない」


「でも、遺体は見つからなかったんでしょう?」


「雪山だ。遺体が見つからないことなど珍しくもない。春になれば、雪解けと共に……」


 健太は自らの言葉を途中で噛み切った。雪解けの季節はとうに過ぎ、夏も秋も通り過ぎて、世界はまた冬を迎えている。それなのに、なぜ斉藤はまだ見つからないのか。執拗に視線を注いでくる彼女の目を逃れるように、健太は席を立った。


    ◇◇◇


 男性用トイレの洗面台で、蛇口を全開にする。溢れ出る冷水で何度も顔を洗うが、肌に触れる水の冷たさが、なぜか室内の空気よりも生温かく感じられた。鏡の中の自分は、生気を根こそぎ剥ぎ取られた蝋人形のように生白く、目の下には皮膚を抉り取って煤を塗り付けたような、どす黒い漆黒の溝が刻まれている。


「斉藤さんは死んだ。生きているはずがない」


 吐き出した呟きが、明確な白い息となって鏡のガラスを曇らせた。東京の、しかも暖房の効いた店内の室温で、息が白くなるはずがない。慄然として身を翻したとき、背後の個室のドアが、音もなくゆっくりと開いていることに気づいた。


 中には誰もいない。ただ無機質な空間があるだけだ。しかし、呼吸を整えてもう一度鏡に向き直った瞬間、そのドアは最初から固く閉ざされていたかのように、完全に閉まっていた。


 健太の脳裏を強烈な混沌が支配した。自分の脳が見せた一瞬の幻覚なのか、それとも、この現実の空間そのものが、自分の精神の崩壊に呼応して歪み始めているのか。音もなく開閉するその不気味な挙動は、まるで目に見えない何者かが個室の奥に潜み、こちらの正気と言い知れぬ罪悪感を値踏みしているかのようだった。


 背筋に容赦なく氷を押し当てられたような悪寒が走り、彼は自らの狂気を必死に否定するように激しく首を振った。めまいに襲われながら、崩れそうになる足取りで席に戻り、山下に短く挨拶を済ませて店を出た。


    ◇◇◇


 夜の駅のホームには、凍てつく風が吹き抜けていた。最終電車を待つ間、スマートフォンを握りしめたが、美咲に電話をかけることは躊躇われた。そのとき、目の前の雑踏を横切る一つの後ろ姿に、健太の全神経が硬直した。


 黒いコートに包まれた、極度に痩せ細った背中。僅かに猫背気味の、引きずるような不規則な歩調──それは間違いなく、斉藤のものだった。


「斉藤さん」


 絞り出した声に、男の動きがぴたりと止まった。ゆっくりと振り返るその頭部。だが、ホームの不完全な照明の死角に入り、顔のあるべき場所は漆黒の空白となって何も見えない。


『健太、お前……』


 風が擦れるような、極度に掠れた声が鼓膜の奥へ滑り込んできた。次の瞬間、最終電車が地響きと共にホームへ滑り込み、眩い光と轟音が世界を席巻した。健太が一瞬だけ視線を逸らし、再び目を向けたときには、その通路のどこにも男の姿はなかった。


「待て……っ!」


 健太は反射的に叫び、迫る電車の風圧を無視して、雑踏の中へと飛び込んだ。痛む左足を強引に引きずり、乗客たちの肩を激しく押し分けながら、影が消えた通路の奥へと自ら走る。


 恐怖よりも、「あいつを捕まえて、この世界のバグを吐き出させてやる」という怒りにも似た執念が勝っていた。


 改札を飛び出し、夜の街へと繋がる出口まで狂ったように追ったが、そこには無機質な静寂が広がっているだけだった。膝をつき、激しく息を切らしながら、健太は暗闇を睨みつけた。


「気のせいなんかじゃない。あいつは確実にそこにいた。……何が起きているにせよ、俺の手で絶対に突き止めてやる」


 逃げるのではなく、自らの足で真実を追う覚悟を胸に刻み、健太は次の電車に乗り込んだ。


    ◇◇◇


 一人暮らしの部屋に戻ると、静けさが恐ろしく、テレビの音量を異様なほど大きくしてリビングのソファに深く沈み込んだ。そのとき、手元でスマートフォンが微かに震えた。美咲からのメッセージだった。


『飲み会どうだった? 体調は大丈夫?』


 画面に浮かんだ文字を見つめる健太の目に、かつての盲目的な依存の色はなかった。部屋を包む凍てつく冷気の中、ノートに刻んだ誓いが脳裏を過る。


 ──来た。嘘を暴く、絶好のチャンスが。


『大丈夫だよ。金曜日、楽しみに待ってる』


 メッセージを送信した途端、一気に限界が訪れた。美咲への拭いきれない疑念と、それでも縋りたいと願う自分への苦い自己嫌悪、そして偽りの日常を自らの手で解体せんとする極限の精神的消耗、一歩ごとに左足が刻み続けていたリアルな激痛──それらが濁流となって肉体を蝕んでいく。


 返信を終えたスマートフォンを床に落とすように手放し、健太は恐怖への降伏ではない、偽りの日常を解体するための静かな決戦前夜の闘志を胸に抱いたまま、泥のような眠りへと意識を沈めていった。

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