第二話 記憶の齟齬
翌日、カフェの重い扉を押し開けると、珈琲の芳醇な苦味を孕んだ熱気が、凍てついた肌をなぞるように迎えた。窓際の席には、すでに美咲が座っている。光沢を湛えた黒髪が、青いワンピースの肩に滑らかな曲線を描いて流れ、その佇まいは完璧に整えられたグラビアの一頁のように、周囲の空気から浮き立って見えた。
しかし、伏せられた彼女の横顔には、窓外の冬空を映したような、微かな陰影が差し込んでいる。
「待った?」
健太が席へ身を滑らせると、彼女は端正な微笑みを向けた。
彼女はコーヒーカップを持ち上げる時、いつも小指だけが少し浮く。健太がそれを指摘すると、彼女は「もう、昔からの癖なんだから見ないで」と、少し恥ずかしそうに頬を染めて笑った。完璧に見える彼女の、そんな些細な人間味に、健太の心はひどく安らいだ。
だが、その笑みは唇の形を正確になぞるだけで、瞳の奥の光彩までは動かしていない。卓上のスマートフォンを弄ぶ指先が、無意識に不規則なリズムを刻んでいる。
注文を済ませ、健太は喉の奥に澱のように溜まっていた問いを口にした。
「……あのさ、斉藤さんのことだけど」
「その話はやめましょう」
遮る美咲の声は静かだったが、そこには一切の議論を拒む、硬質な断絶があった。
「無理に思い出さないほうが、あなたのためよ」
その響きは恋人の情愛というよりは、深く傷ついた患者をこれ以上刺激すまいとする医療従事者の、痛々しいほどの慎重さに近かった。
健太は言葉を失い、喉の奥が引き攣るような圧迫感を覚えた。昨日、屋上での電話で見せたあの冷淡な断定が、再び目の前で再現されている。彼女は、自分が斉藤の名前を口にするたびに狂っていくのを見て、必死に記憶の決壊を食い止めようとしてくれているのだろうか。
その拒絶の切実さに胸を締め付けられながらも、健太は脳内でせめぎ合う矛盾を確かめるように、震える声で話題を切り替えた。
「……なあ、俺たちはどこで出会ったんだっけ」
唐突な問いに、美咲がカップを運ぶ手をぴたりと止める。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「記憶が、時々ごちゃごちゃになるんだ。思い出そうとしても、霧がかかったみたいで」
「病院よ」
彼女は淀みなく答えた。
「あなたが担ぎ込まれた救急救命センター。私が担当の看護師だったの」
健太は、自分の脳裏に浮かぶ別の光景──大学の桜並木の下、青いスカーフを揺らして笑う彼女の残像を必死に抑え込んだ。
「そうか……でも、大学時代から知っていたような気もして」
「違うわ」
否定の声は鋭く、健太の疑念を刺し貫いた。
「それは、きっと記憶が混濁しているのよ。焦らなくていいから」
窓の外を見れば、予報に反して灰色の空から白い粒が落ち始めていた。街を白く塗り潰していく雪を見つめていると、不意に言葉が漏れた。
「……もう一度、雪山に登れるだろうか」
美咲の瞳が、恐怖に射抜かれたように大きく見開かれる。
「何を言ってるの? あなたは二度と山に行けないでしょう」
「医学的には問題ないって、先生も……」
「問題あるわよ」
彼女は言い捨てた。
「左足の──」
そこで不自然に言葉を断ち切り、彼女は強引に話題を逸らした。
その瞬間、健太の背筋に針で刺されたような鋭い悪寒が走った。美咲の視線が、自分の足元を値踏みするかのように一瞬だけ彷徨ったのを、彼は見逃さなかった。心臓の鼓動がにわかに速くなり、胃の奥がせり上がるような強烈な困惑が押し寄せる。
彼女の視線には、自分がまだ気づいていない「左足の異常」を深く憂うような、暗い光が宿っていた。医学的には問題ないはずの足に、一体どんな残酷な現実が隠されているのか。美咲の瞳を支配するその圧倒的な哀しみに、健太の指先は恐怖のあまりガチガチと震え始めていた。
◇◇◇
店を出ると、外気は狂ったように冷え込んでいた。降り積もる雪は音もなく健太の足跡を飲み込み、世界を白紙に戻していく。
「美咲、何か隠していることはないか? 昨日の電話でも、君は斉藤さんの死を見たはずだと言っただろう」
「……以前、あなたがそう言ったのよ。あなたの記憶は混乱しているの」
美咲は健太の腕を掴んだ。その手の温もりが、健太の冷え切った心を芯から溶かしていく。そうだ、世界がどれほど不気味に変質しようとも、彼女のこの温もりだけがあれば、自分はまだ正気でいられる。健太は無意識のうちに、彼女という救いに深く縋り付こうとしていた。
◇◇◇
帰宅した部屋は、すでに極寒の檻へと変貌していた。健太は再び、山岳部の集合写真を手に取った。やはり、自分以外の顔は全て、墨汁を落とした水面のようにどろどろと境界を失い、完全に崩壊している。
ただの視覚的な錯覚ではない。かつて確かに存在したはずの仲間たちの生が、自分の世界から一人、また一人と消去されていくような、底知れぬ孤立感と恐怖が健太の胸を締め付けた。自分の記憶が、そしてこの世界そのものが、足元から音を立てて溶けて消えていく。
強烈な目眩を覚えながら、彼は写真を床に伏せた。
暖房を最大にしても、窓ガラスには幾何学的な氷の結晶が、不気味な生き物の触手のようにじわじわと面を浸食している。キッチンで淹れたコーヒーは、数分も経たぬうちに表面に薄氷を張った。
健太は使い古されたノート──『記憶再生のための日記』を机に叩きつけるように開いた。
「おかしい。何かが決定的に歪んでいる」
呟いた声は白い霧となり、机の上のスタンドライトの光に怪しく身をよじるように揺れた。健太はペンを握り、ノートの白紙のページに、自らの手で「事実」と「矛盾」の境界線を線引きし始めた。
ただ医師に言われるがままに記憶を書き出すのではない。自分の脳内で起きているバグを、自ら告発するための、孤立無援の捜査だった。
左側には、美咲が語ったファクト。『出会いは救急救命センター。担当看護師。』
右側には、自分の網膜にこびりついて離れないビジョン。『大学の桜並木。青いスカーフ。』
「なぜ二つの過去が同時に存在する? 記憶違いで済むレベルじゃない」
さらに、ノートの余白に「斉藤さん」と書き殴る。世間は生存の噂を囁き、美咲は頑なにその名を拒絶する。影を追うように自分の脳の引き出しをどれほど探しても、斉藤の死の具体的な光景は見つからない。
健太は引き出しの奥から、遭難前に山岳部で使っていた古いノートPCを引っ張り出した。立ち上がるファンの金属音が、静まり返った部屋に狂おしく響く。凍える指先でキーボードを叩き、大学の山岳部のOB名簿や、当時の美咲とのメールの履歴を探そうと、過去のデータを血眼になって漁り始めた。
画面が放つ青白い光が、健太の削げ落ちた顔を冷酷に照らし出す。だが、奇妙なことに、過去のメールフォルダを開いても、美咲の名前はおろか、大学時代の友人たちとのやり取りの文字が、すべて意味を成さない記号の羅列へと変形していく。読もうと焦点を合わせるたびに、文字列が生き物のように崩れ、視界の端へと逃げていくのだ。
「俺の脳が、真実を見るのを拒絶しているのか……?」
健太はPCの画面を睨みつけた。恐怖はあった。だがそれ以上に、自分が自分という存在の主導権を奪われかけていることへの、根源的な怒りが怒濤のように湧き上がっていた。
もしこの世界が、あるいは自分の精神が壊れているのだとしたら、その中枢を突き止めて引きずり出してやる。
ガチガチと鳴る奥歯を噛み締め、健太はノートの新しいページに、血の滲むような筆圧でこう書き記した。
『世界を疑え。美咲の言葉を鵜呑みにするな。次の金曜日、彼女が家に来る時が、この嘘を暴くチャンスだ。』
その決意を証明するように、健太は自らの意志で、痛む左足を強く床に踏みつけた。質量のないはずの痛みが、彼の内なる闘志を現実へと繋ぎ止めていた。
毛布を幾層にも重ね、意識を闇へ沈める。左足首を貫く、脈打つような激痛。それは鎮痛剤を嘲笑うように、神経の奥底を執拗に抉り続けた。
瞼の裏で、あの日、テントを揺らした風の咆哮が蘇る。
『生き延びるための選択をするときが来た』
斉藤の声が、暗闇の中で呪詛のように反響していた。




