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【AI小説】雪山の幻影|2026  作者: 茉莉花イツカ


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第一話 悪夢の残響

 銀世界が、肺を抉るような冷気を伴って際限なく広がっている。息を吸い込むたび、気管支が凍てつき、呼吸そのものが鋭利な刃物と化して内側を削り取る。一歩、また一歩。前へ進もうとする意志とは裏腹に、平衡感覚は白い闇に溶け落ち、天と地の境界すらも、もはや判別できない。


 視界を埋め尽くすのは、死を象徴する無垢な白だ。健太は、重い泥の中を進むように、あるいは自らの墓標を刻み付けるように、ただ這い進む。


「誰か……いるのか」


 放ったはずの声は、鼓膜に届く前に暴風に掻き消された。声帯が氷結し、ただ意味を成さない喘鳴が漏れるだけだった。膝から下の感覚は、すでに何光年もの彼方へと置き去りにされたかのようだ。


 特に左足は、存在そのものが最初からなかったかのように、虚無へと沈み込んでいた。恐る恐る視線を落とすと、そこには──。


    ◇◇◇


 悲鳴は、現実の寝室を切り裂く絶叫となって健太を覚醒させた。シーツは冷や汗を吸い込み、氷のように冷たく肌に張り付いている。網膜に焼き付いた残像が、部屋の闇に溶け出すまでの数秒間、彼は自分が生と死のどちら側にいるのかさえ判然としなかった。胸の内で心臓が早鐘を打ち、薄い皮膚を突き破らんばかりに暴れている。


「……ただの、夢だ」


 湿った声が暗闇に落ちる。枕元のデジタル時計が、冷徹な赤色で午前三時十分を刻んでいた。


 ベッドから這い出そうとした瞬間、左足の付け根に、鈍い痺れにも似た違和感が走った。立ち枯れた大木の腱が烈風に引き裂かれるように、関節が異質な軋みをあげる。健太は反射的に足首を掴んだ。


 指先が捉えたのは、確かな肉の感触。ある。そこにある。震える手で何度も確かめるが、夢の続きがまだ皮膚の下に貼りついているような感触だけが、消えぬ霧のように足元にまとわりついていた。


 キッチンへ逃げ込むように移動し、蛇口から注いだ水を一気に飲み干す。水の冷たさが食道を滑り落ち、胃に到達するまでの軌跡が、今の自分を現実へと繋ぎ止める唯一の鎖だった。


 冷蔵庫の扉に目をやると、カレンダーに刻まれた赤い円が、血の跡のように健太の視線を射抜いた。二月十日。あの谷川岳の地獄から、正確に一年。


 世間は奇跡の生還ともてはやし、新聞は生存の執念と書き立てたあの日だ。しかし、健太の記憶は、吹雪に晒された写真のように、所々が白く塗り潰されている。三週間という空白。


 医師は低体温症による一時的な記憶障害と片付けたが、欠落した破片は、夜ごとに悪夢という形をとって彼の精神を侵食し続けていた。


 窓の外を仰げば、東京の夜景は星を食い尽くしたような暗澹たる闇に沈んでいる。遠くで点滅するビルの灯は、まるで深海から届くSOSの信号だ。街を満たす人工的な光が、今はひどく冷淡で、手の届かない別世界の出来事のように思えた。


 机の引き出しから、使い古されたノートを取り出す。医師に促されて書き始めた『記憶再生のための日記』。ペンを走らせる健太の手が、時折止まる。


 失われた三週間の断片。四人で入山し、自分一人が「生贄」のように現世へ戻された惨劇。不意に、病院のベッドで美咲が手を握ってくれた時の光景が、不自然な鮮明さで脳裏を掠めた。


『大丈夫、あなたは生き延びたのよ』


 その柔らかな、しかしどこか現実味を欠いた言葉。健太は、ペンを握る指を止めた。美咲。


 彼女と出会ったのは、いつだったか。病院の看護師として出会ったはずだが、同時に、大学のキャンパスで桜の花びらを浴びながら、彼女と笑い合っていたような記憶が、別の層から湧き上がってくる。記憶の断層。神経の奥底に生じた仄暗い沈黙が、疑念という毒をゆっくりと血管に流し込んでいく。


 鏡に映った自分の顔は、生気を完全に失い、冷たい蝋細工のように青白く濁っていた。頬は削げ、目の下には睡眠不足を物語る、深く刻まれた漆黒の陰影が残っている。


 出勤の準備を整えながら、左足の違和感を意識の底へ押しやる。靴下を履く動作は、もはや痛みを避けるための、儀式じみた素早さに達していた。


 天気予報のアナウンサーが、今日は平年より暖かい春のような一日になると告げている。しかし、健太の部屋を支配しているのは、冬の残滓などではない、もっと根源的な「凍てつき」だった。暖房が唸りを上げ、室温計は二十一度を示しているというのに、吐き出す息は白く、指先は氷のように冷たくなっている。


 ダウンジャケットを羽織っても、骨の髄まで沁み込んだ芯からの冷えは、決して去ろうとはしなかった。


    ◇◇◇


 会社に着くや否や、上司の山下が、重い足取りで近づいてくる。


「高橋、先週の企画書だが、少し修正が必要だ」


「どの部分ですか?」


「ターゲット層の分析が甘い。もう少し掘り下げろ」


 健太は機械的に頷くが、自分の指がキーボードを叩いてその企画書を作り上げた記憶が、掴もうとするほど指の隙間からこぼれ落ちる砂のように、実体を結ばない。


「……あと、体調はどうだ?」


 山下の瞳に宿る懸念は、腫れ物に触れるような、独特の不快さを伴っていた。


「問題、ありません」


「無理はするな。戻ってきたばかりなんだから」


 復職して半年。世間の時計は進んでいても、このオフィスにおいて健太は永遠に「生還したばかりの生存者」という枠に閉じられている。


 デスクに座り、PCを起動する。液晶が放つ無機質な光が網膜を刺した。画面に並ぶ文字列を目で追うが、文字の一つ一つが独立した記号のように浮き上がり、意味の体系を成さない。


 日本語を読んでいるはずなのに、知らない外国の呪文を眺めているような感覚。内容が、意識の表面を滑り落ちてしていく。不意に、強烈な悪寒が健太の背筋を這い上がった。


 周囲の社員たちはシャツ一枚で談笑しているが、自分だけが冬の真っただ中に取り残されている。ダウンジャケットを握りしめる手の震えが、止まらなかった。


 気づけば、十二時を告げるチャイムが鳴り響いていた。デスクに座ってから今までの数時間。健太の意識は、底のない深い溝にでも落ちていたかのように、一切の記憶を失っている。


    ◇◇◇


「高橋さん、聞きましたか?」


 社員食堂の喧騒の中、後輩の佐藤が声を潜めて言った。


「……何を」


 健太は、冷めきった定食の割り箸を動かさずにいた。


「斉藤さんのことですよ。……生きているっていう噂があるんです」


 健太の心臓が、一瞬、跳ねた後、凍りついた。


「……何がだ?」


「山で見たっていう人がいるらしくて」


 斉藤。大学時代からの先輩であり、あの吹雪の中で健太の隣にいた男。遺体は、まだ発見されていない。


「そんなはずはない」


 健太の口から漏れたのは、拒絶に似た確信だった。


「あの状況で、生き延びられるはずがない」


 自分の声が、刺すような鋭利さを帯びていることに、彼は気づかなかった。斉藤が生きているという事実は、あの日、自分が脳裏に焼き付けた「生存の記憶」のすべてを根底から覆すことを意味していた。もし彼が生きているなら、自分は一体何を山に置いてきたのか。


 あの猛吹雪のなか、自分を現世に繋ぎ止めるために、取り返しのつかない致命的な罪を犯したのではないかという、名状しがたい罪悪感と底知れぬ恐怖が防衛本能を刺激し、彼に強烈な否認を選ばせていた。佐藤は言葉を失い、まるで目の前にいる男が自分とは違う化け物にでも変わってしまったかのような、怯えの混じった視線を健太に注いだ。


    ◇◇◇


 午後の会議中も、健太の意識は屋上へ、そしてその向こうの空へと彷徨っていた。会議が散会すると、逃げるように屋上へ向かい、美咲へ電話をかけた。


「健太? どうしたの?」


 耳に届く彼女の声は、毛布のような温もりを持っていた。


「あ、そうだ。今日ね、健太の好きなどら焼きのお店、病院の近くで見つけたの。今度買って持っていくね」


 何気ない、けれど自分の些細な好みを正確に覚えている彼女の言葉に、健太はそれだけで強張っていた肩の力が抜けるのを感じた。


「……ありがとう。美咲、実は……斉藤さんのことなんだ。生きているっていう噂を聞いて」


 電話の向こうで、美咲の息が止まる音がした。


「斉藤さん?」


 彼女の声に、薄氷を踏むような警戒心が混じる。


「そんなこと、あるわけないでしょう」


 冷徹な断定。


「高橋くん、あなたは、自分で見たのでしょう? 斉藤さんが亡くなるところを」


 健太の思考が、一瞬停止した。俺は、あの日、斉藤の死を見たのだろうか?


 その問いが脳壁を叩いた瞬間、健太の思考は凍結した。脳の引き出しをどれほどひっくり返しても、そこにあるのはただ狂い咲く白魔の記憶だけで、斉藤が息を引き取った明確な瞬間はどこにも見当たらない。もし見ていないのだとしたら、なぜ自分は彼が死んだと確信しているのか。


 もしかして、自分はまだ息のあった彼を見捨てて逃げ出したのではないか。その凄惨な疑念の深淵を覗き込むことに耐えかね、健太は自らの思考に強制的に鍵をかけるように、声を絞り出した。


「……そうだったかな。忘れてくれ」


 電話を切った後、屋上の柵を掴む手に、じわりと違和感が広がった。受話器から流れた彼女の声を脳内で反芻する。最初は確かに親しげに「健太」と呼んだはずだ。


 しかし、斉藤の話題を出した途端、彼女は「高橋くん」と、まるで一線を画すかのような冷たい響きで呼び名を変えた。ただの言い間違いだろうか。いや、まるで自分の脳の壊れた受信機が、彼女の純粋な声を歪めて再生したかのような不自然さがあった。


 それでも、と健太は縋るように思った。あの声の底には、確かに自分を案じる響きがあった。世界がどれほど不気味に変質しようとも、彼女がこれまでくれた優しさの温もりだけは、決して偽物ではないと信じたかった。しかし、その願いとは裏腹に、自分の記憶の綻びが、その唯一の救いにまで不吉なノイズを混入させていく。得体の知れない断層が足元から広がっていくような恐怖が思考の網の目を急速に覆い尽くし、掴んだ鉄柵の冷たさがそれをさらに深めていく。


    ◇◇◇


 帰宅し、冷蔵庫から取り出したビールの缶が、手のひらの熱を奪っていく。リビングのソファに身を沈め、テレビから流れる無機質な情報を網膜に映す。左足の痛みが、夜の静寂と共にその脈動を強めていく。


 ふと、傍らの写真立てに目が留まった。山岳部時代の集合写真。健太と斉藤が肩を並べて笑っている。


 だが、その写真に奇妙な感覚を覚えた。自分の顔だけははっきりとしているのに、斉藤を含めた周囲の全員の顔が、まるで熱で溶け落ちたフィルムのように、不自然に歪んで認識を拒んでいた。


 スマートフォンの振動。美咲からだ。


『今日はもう休んで。明日、いつものカフェで待ってる』


 返信を打とうとして、指が止まる。斉藤への、あの過剰なまでの否定。呼び名の微かなズレ。


 カーテンを閉め、ベッドに横たわる。天井の影が、徐々に白い霜に変わっていくような幻覚に囚われながら、健太は瞼を閉じた。記憶の淵から、またあの日と同じ音が聞こえてくる。


 何かが、硬い雪の上を、不自然な動きで這いずり回る音。


『高橋、食料はどうする?』


 意識が闇に呑み込まれる寸前、斉藤の声が、すぐ耳元で囁いた。

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