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【AI小説】雪山の幻影|2026  作者: 茉莉花イツカ


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第九話 雪山の真実

 安らかな静寂のなかで閉じた瞼を、再び押し開いた。耳の奥に残っていた規則的な医療機器のビープ音は、歪んだ電子ノイズとなって遠ざかり、代わりに鼓膜を乱暴に引き裂いたのは、地鳴りのような風の轟音と、全てを圧殺せんとする雪の咆哮だった。


 見上げた天井は、あのありふれた白い病室などでは決してなかった。激しい烈風に身をよじり、今にも破裂しそうなボロボロのナイロン布地が、狂ったように羽ばたいている。


 健太は、麻痺しきった凍えた指先で自らの顔に触れた。包帯の感触はない。ハードシェルジャケットの袖は無残に破れ、手袋の失われた皮膚には、凍傷によるどす黒い斑紋が容赦なく広がっていた。


 自分を介護してくれていたはずの看護師の気配も、暖かなベッドも、そこには何一つ存在しなかった。


「夢……なのか」


 ひび割れて血の滲む唇から、掠れた声が漏れる。


「どっちが……夢だ……」


 思考は極寒の空気の中で凍りつき、まともな輪郭を結ばない。ただ一つ、確かな質量を持って彼を現実に引き戻したのは、左足の奥底から立ち上る、骨を鋸で直に挽かれるような、凄まじい激痛だった。


 おそるおそる視線を落とした瞬間、健太の精神は完全に凍結した。膝から下はある。しかし、足首から先が、無残に変色して凍りつき、感覚ごと完全に死に絶えていた。


 粗雑に巻き付けられた布の隙間から覗くのは、壊死組織のどす黒い腐臭と、乾いた血の茶色が混ざり合った、目を背けたくなるほど生々しい肉体の破綻だった。


 その瞬間、電撃のような理解ではなく、濁流のような絶望が健太の胸を突き破った。脳が、引き裂かれるように痛む。


 復職してからの半年間の日常、毎日のデスクワーク、山下部長の小言、佐藤と交わした他愛のない会話、そして何より、自分をいつでも全肯定し、その温もりで包み込んでくれた美咲。そのすべてが、この極寒の地獄で死にゆく自分の脳が見せた、ただの壮大な逃避行──幻覚だったのだと悟った。


「嘘だ……嘘だろ……!」


 健太は狂ったように自らの頭を殴りつけた。あの日々は、あの愛おしい時間は、すべて自分の脳が死の恐怖を和らげるために上映した、哀れな嘘の映画に過ぎなかった。


 自分が帰るべき東京の街など最初からなく、自分は一年前のあの遭難した日のまま、この一ノ倉沢の奈落に囚われ続けていたのだ。恋人の温もりも、友人の声も、すべてが虚空に溶けて消えていく。


 そのあまりにも巨大な喪失感に、健太は胸を激しくかきむしり、声にならない絶叫をあげて涙を流した。


 テントの隅、破損したザックの脇には、水に濡れてしわくちゃになった一冊のグラビア雑誌が転がっていた。表紙の桜の木の下で、青いワンピースを纏って完璧な微笑みを浮かべる黒髪のモデル。健太の心が、この地獄から逃げ延びるために作り出した理想の恋人──美咲の原型が、そこに冷酷に遺棄されていた。


 山下も佐藤も、あの滑落の瞬間に崖の向こうへと消え去り、最初から死んでいたのだ。


 美咲。彼女は、健太が精神を完全に崩壊させず、生存への執着を維持するために、脳が最後の防衛本能として紡ぎ出した極限の幻想だった。


「美咲……美咲……っ」


 名前を呼ぶたび、脳内で彼女の輪郭が、煙のようにサラサラと崩れていく。存在すらしていなかった恋人への、届くはずのない謝意と、狂おしいほどの愛惜が喉を締め付ける。


 彼女という美しい偽物がいてくれたからこそ、自分は今まで正気を保ち、この冷たい暗闇の中で息を繋いでいられたのだ。健太は涙で視界を滲ませながら、その幻影の消滅を、身を切られるような悲しみと共に受け入れ、心の中で静かに告げた。


「ありがとう……。俺を、ここまで生かしてくれて」


 消え去っていく美咲の残像に祈るように瞑目し、健太はゆっくりと、重い首を動かした。

その視線の先に、もう一人の「現実」が横たわっている。


「斉藤……さん」


 掠れた声に、テントの片隅で身を屈めていた男の背中がピクリと動いた。だぶだぶのダウンジャケットに身を包み、小さなポータブルストーブの鍋に向かって、四つん這いの姿勢で何かを作業している。


 その骨張った手には、赤茶色の染みがこびりついた登山用ナイフが握られていた。


 ゆっくりと振り返ったその顔は、頬骨が鋭く突き出し、皮膚は生気のない岩肌のように濁っていた。病院の廊下で、あるいは病室の天井から這い寄ってきたあの恐ろしい怪異の輪郭は、飢餓によって変貌した斉藤そのものの姿だったのだ。


 しかし、男の虚ろな眼窩には、健太を呪う怨嗟などではなく、極限状態を生き延びようとする狂気と、言い知れぬ悲痛な涙が滲んでいた。


 食料が尽きて三週間。救援の見込めぬ深い谷の岩棚で、二人が生存のために下した、倫理の薄氷を叩き割る凄惨な決断の記憶が、濁流となって健太の脳内へ押し寄せてきた。


 鍋のなかで煮える、肉の塊。夢の中で自宅の冷蔵庫の奥に見つけた、あの直感が拒絶した赤い容器の正体が、鮮明な映像となって脳裏に蘇る。


 生存という本能のためだけに、人間としての尊厳を、倫理のすべてをドブに捨て、互いの肉を、あるいは死んだ仲間の肉を貪り食うという決断。そのおぞましい罪悪感が、健太の胃腑を激しく侵食した。


 自分は生き延びるために、人間であることをやめたのだ。あの四つん這いの怪異が放っていた「お前は知っている」という言葉の意味が、呪いのように肉体を縛り付ける。


 吐き気と、自らへの凄まじい嫌悪感に身をよじりながらも、健太はその倫理を超えた大罪の記憶を、己の過去として生々しく引き受けた。


 そのとき、激しい吹雪の音の向こうから、厚い雪を踏みしめる明らかな人工の足音が響いてきた。救助隊の足音か、あるいは死神の誘いか。


 健太は残された力を振り絞り、感覚のない手足を使って、左足の残骸を引きずりながらテントの入り口へと這い進んだ。斉藤は何も言わず、ただその姿を深く沈んだ瞳で見つめている。


 凍りついたジッパーに指をかけ、何度も滑らせながらも、ついにそれを引き下げた。


 牙を剥くような地吹雪が容赦なく顔面を叩き、視界を白く染め上げる。しかし、健太はその圧倒的な冷気に向かって、白い闇の向こうで微かに揺らめく救助の光へと、右手を真っ直ぐに伸ばした。




──THE END──

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