五話 無味
扇状地だとか、三角州だとか。
地理の教師が黒板に書き連ねる地形の名称は、どこか遠い異国の呪文のようにしか聞こえない。チョークが乾いた音を立てて躍るたび、知識が頭を素通りして、窓の外の頼りない空へと消えていく。
『明日も、また隣で』
昨日の別れ際、夕闇に溶ける間際に彼が残した、あの約束。
耳の奥に残っているのは、甘やかな残響だけだ。
視線を落とせば、主を失ったままの机が、春の淡い光を無機質に反射している。
今朝、教室のドアを開けた瞬間、そこが「空席」であると悟った時の、心臓が冷えるような感覚がまだ指先に残っていた。
期待なんてしていなかったはずなのに。
独りでいることなんて、俺にとっては「日常」という名の、当たり前の景色だったはずなのに。
「……嘘つき」
自分にしか聞こえない小さな声で毒づき、俺は無意識に頬を膨らませた。
あんなに自信満々に、当たり前のように「また明日」なんて言っておいて。
あんなに鮮やかに、俺の灰色の日常をかき乱しておいて。
一晩明けたら、最初からいなかったみたいに消えてしまうなんて。
少しだけ乱暴に置かれたカバンや、購買のパンの匂いや、距離感のバグった笑顔。それらが一切合切消え失せたその空間はひどく冷え切っている。
──まるで、最初からいなかったみたいだ。
そんな考えが頭をもたげると、指先が微かに震えた。
あいつは本当に実在していたんだろうか。昨日、一緒に帰ったのも、夕暮れの中で「可愛い」なんて言われたのも、全部俺が孤独に耐えかねて作り出した、都合のいい幻影だったのではないか。
もし、このまま二度とあいつが現れなかったら──。
昨日まで、独りでいることは俺にとっての「普通」だったはずなのに。
たった一日、隣に誰かがいただけで、こんなにも静寂が痛い。
ペンを握る手に力が入る。ノートの端に、意味もなく「リョウ」と書きそうになり、慌ててそれを塗りつぶした。
リョウに届かなかった俺の「おはよう」が、その黒い塊の中に沈んでいくような気がした。
「はい。今日はここまで」
カッ、と。教師がチョークを置く。白い粉に塗れた手のひらで。
孤独を取り戻した日常の中で、無機質な弁当箱を箸でつつく。
「昨日先生が言ってた不審者、捕まったらしいよ」
「え、マジ? もう大丈夫じゃん」
どこかのグループから聞こえてきた安直な安堵の声。それを合図に、放課後の遊びの予定が威勢よく飛び交い始める。カラオケ、ゲーセン。俺とは無縁のギラギラとした世界の話。不審者が消えたのなら、あいつももう、俺を送る理由がなくなってしまったわけだ。
昨日と同じ、黄色い卵焼きが今日も顔を見せる。
けれど、それを羨ましそうに覗き込む熱い視線は、どこにもない。
俺は、その一切れを乱暴に口に放り込んだ。味わう間もなく、喉の奥へやっつけるように流し込む。
美味しいはずの母の味が、今はひどく喉に支えて、砂を噛んでいるような気分だった。昨日、あいつに「あーん」なんてした時の、あの心臓が焼けるような熱気。あれは何だったんだ。
期待なんて、毒でしかない。
噛みしめるほどに虚しさが込み上げて、俺は残りの卵焼きを次々と口へ押し込んだ。頬をパンパンに膨らませ、必死に咀嚼する。そうでもしないと、今にも「嘘つき」と叫び出しそうな自分を抑え込めなかった。
「ふふっ、いい食べっぷりだね。リスみたいになってるよ」
聞き間違えるはずのない、脳にこびりついたその声が、頭上から降ってきた。
「……っ!? げほっ、ごほっ!」
驚きのあまり、飲み込みかけの卵焼きが変なところに入った。激しくむせ返りながら顔を上げると、そこには昨日のままの眩しいほどの笑顔を浮かべたリョウが立っていた。
彼はずっとそこにいたかのような自然さで、俺の隣の席にカバンを放り出した。
「お、大丈夫? 背中さすろうか?」
「……い、いい……っ、触るな……っ」
涙目で睨みつける俺のことなど気にする様子もなく、リョウはそのまま机に両肘をついて、上目遣いに俺を覗き込んできた。
「ちょっと寝坊しちゃってさ。ねえ、ユイト。お願いがあるんだけど」
「……何だよ」
「出れなかった授業のノート、写させてくれない?」
昨日の、真剣な守護者のような面影はどこへやら。
あまりに呑気で、図々しいお願い。
俺は、今しがたまで絶望の淵にいた自分を呪いたくなった。
こんな奴のために、俺は卵焼きを自棄食いしていたのか。
「……勝手にしろ。カバンから取っていいから」
「やった! やっぱりユイトは天使だね」
嵐のように現れて、俺の孤独を鮮やかにぶち壊していく。
さっきまでなかった「騒がしい日常」が、強引に連れ戻された瞬間だった。
「見やすいノートだね。さすがユイト」
「……別に、普通だろ」
リョウは俺のノートを机に広げ、熱を帯びた眼差しを注いでいる。その瞳はキラキラと輝いていて、珍しい小動物を愛でるような、あるいは至高の芸術品を鑑賞するような、得体の知れない興奮に満ちていた。
あまりの熱視線に耐えられず、俺はわざとらしく視線を窓の外へ逃がした。
普通だ。色ペンだって最小限だし、目立つような工夫なんて何一つしていない。なのに、あいつがそうやって大げさに褒めるせいで、ただの授業の備忘録が、何か特別な価値を持つもののように思えてくるから癪だ。
「ねぇ、これ何?」
俺の顔の前でノートを広げる。指は、地理のノートの隅、「リョウ」を塗り潰した黒い塊を指していた。
「……落書きを消しただけ」
視線を窓の外に投げる。「リョウ」と書いていただなんて、口が裂けても言えない。
「ふーん、意外と落書きとかするタイプなんだね」
覗き込むような声。心臓が跳ねた。「ユイトの意外な一面、発見」と、気のせいじゃなければ、彼はそう呟いた。それ以上追求することなく、リョウは機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら、サラサラと俺のノートを写していく。
その横顔があまりに屈託なくて、俺は自分の胸の鼓動を誤魔化すように、冷たい窓ガラスに額を押し当てた。
窓の外では、散り残った桜の花びらが風に煽られ、どこか行き場を失ったように舞っている。
昨日までは、その虚しさこそが俺の日常だった。
なのに、隣から聞こえるシャーペンの音を聴いている今、世界が昨日までとは決定的に違う色を帯び始めていることに、俺は気づかない振りをすることさえできなくなっていた。




