四話 帰り道
「──あ、最後に大事な連絡だ」
ホームルームの終わり際、担任が思い出したように教卓を叩いた。
「昨日の夜、この近辺で会社員の女性が不審者に襲われそうになる事件があった。幸い怪我はなかったようだが、犯人はまだ逃走中だ。お前らもくれぐれも気をつけるように。なるべく、一人にならずに集団で帰れよ。いいな」
教室がざわりと波打つ。女子生徒たちの悲鳴に近い囁きや、男子たちの茶化すような声が頭上を通り抜けていく。
俺の心臓が、胸の内側から逃げ場を探すみたいに跳ねた。
呼吸のリズムがずれて、教室の空気だけがやけに薄く感じられる。
──不審者? 違う。そんな生易しいものじゃない。
昨夜、俺が見たあの黒い影。肺を焼くような冷気と、死の臭い。
あれは「事件」なんて言葉で片付けられるような代物ではなかった。もし、今日またあの暗闇に放り出されたら。今度こそ、俺は──。
いつの間にか荷物をまとめ終えたリョウが、軽やかな足取りで席を立とうとしている。その表情は、先ほどの教師の話など微塵も気にかけていないように晴れやかだ。
行ってしまう。
背中が、今にも教室の喧騒に紛れて消えてしまいそうだった。
思考より先に、右手が動いた。
くたびれた制服の袖。その端を、祈るような心地でぎゅっと掴む。
「んー? どうしたの?」
リョウが足を止め、不思議そうに振り返る。
掴んでしまった。後悔と気まずさが一気に押し寄せ、視界がぐにゃりと歪む。けれど、指先に力を込めれば込めるほど、リョウの体温が微かに伝わってきて、どうしても離すことができなかった。
「なんか、用事でも……あんのかよ……」
絞り出した声は、自分でも驚くほど細く震えていた。
リョウは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「用事? 特にはないけど。……何、もしかしてデートのお誘い?」
「ちがう……っ」
首を振るが、顔を上げることができない。
情けない。不審者が怖いから一緒に帰ってくれなんて。しかも、昨日出会ったばかりの相手に。
俺の指先は、止まらない震えを隠すようにリョウの布地を握りしめていた。
「大丈夫?」
リョウの声から、茶化すような響きが消えた。
その穏やかなトーンに、こらえていた涙腺が熱くなる。
「……一緒に──いや、なんでもない。ごめん、忘れて」
これ以上、自分の醜態を晒したくなくて、俺は逃げるように手を離す。
背を向けて、逃げ出そうとした。
しかし、その刹那。
今度は俺の手首が、確かな力で掴まれた。
「いいよ」
夕焼けの逆光で、リョウの輪郭が淡く滲んで見えた。
まるでこの放課後の風景そのものが、人の形を取ったみたいだった。
さっきまでのふざけた様子は影を潜め、その瞳には夜の海のような、深く静かな色が宿っている。
「一緒に帰ろ。……君の家まで、俺がちゃんと届けるから」
夕日に長く伸びる二人の影が、アスファルトの上で付かず離れず揺れている。
自分から誘っておいて、俺は一言も発することができずにいた。横を歩くリョウの存在感が大きすぎて、意識すればするほど呼吸の仕方が分からなくなる。
リョウは歩幅を俺に合わせてくれている。その優しさが、臆病な俺の心を見透かしているようで、また少し俯いた。
「新しいクラス、どう? 楽しい?」
「……あんまり。馴染めない、かも……」
「そっか」
リョウの声は、否定も肯定もしない凪のようなトーンだった。それが少しだけ、俺の口を軽くさせたのかもしれない。
「俺、人と話すの苦手で……。なんていうか、いつも浮いてるし。周りからも、どう扱っていいか分からない腫れ物みたいに思われてる気がするんだ。……実際、そうなんだろうけど」
口にしてから、激しい後悔が襲ってきた。
何言ってるんだ、俺。せっかく一緒に帰ってくれている相手に、こんな卑屈で重い話をぶつけてどうする。案の定、リョウは「そっか」と言ったきり、言葉を止めてしまった。
言葉が途切れた瞬間、靴底がアスファルトを擦る音だけが、やけに大きく聞こえた。
沈黙は冷たいというより、重たくて、逃げ場のないものだった。
嫌われた。あるいは、心底面倒だと思われた。
自業自得だ。俺は顔を上げられずに、自分の爪先ばかりを見つめていた。
「……こんなに可愛いのにね」
「は?」
耳を疑った。今、この状況で、こいつは何を言った?
驚いて顔を上げると、リョウは夕焼けのオレンジを瞳に反射させながら、至極真面目な顔でこちらを見ていた。
「小さくて、大人しくて、知的で──すごく、魅力的だと思うけどな」
「なんだよ、それ……馬鹿にしてんの……?」
顔が、昼休み以上に熱くなる。
「可愛い」なんて、この歳で、しかも男同士で、どんな顔をして受け取ればいいのか。リョウは俺の動揺を愉しむように、ふわりと微笑んだ。
「馬鹿になんてしてないよ。本心」
いつの間にか、見慣れた門扉の前に着いていた。
リョウは一歩下がり、俺を見送る体制に入る。さっきまでの気まずさはどこへやら、俺の胸の中は正体不明の熱でかき乱されていた。
「それじゃ……。送ってくれて、ありがとう……」
「いいえ。明日も、また隣で」
そう言って手を振るリョウに、俺は消え入りそうな動作で応えた。
「……うん。また、明日」
小さく手を振り返すと、リョウの姿が夕闇の向こうへ溶けていく。
家に入り、玄関の鍵を閉めても、まだ心臓がうるさい。
『可愛い』
あいつが残した無責任な言葉が、呪いのように頭から離れなかった。




