三話 手元
昨夜の出来事を「夢」という箱に押し込めて、無理やり蓋をした。
鏡の前で見た自分の顔は、ひどく土気色をしていたけれど、それはきっと寝不足のせいだ。何度もそう自分に言い聞かせながら、重い足取りで教室のドアを開ける。
喧騒の中、昨日と同じ場所、同じ温度で「彼」はいた。
「おはよう、ユイト」
昨日よりもずっと自然に、親しげに名前を呼ばれる。心臓が跳ねたのは恐怖のせいか、それとも。
「……おはよう」
なるべく視線を合わせないように席に着く。カバンを下ろす手がつい震えてしまうのを、自分でも情けなく思った。
「ユイト、顔色悪いよ? もしかして、あんまり眠れなかった?」
覗き込むようなリョウの瞳は、昨夜、暗闇の中で見たあの「禍々しい目」とは対極にある、透き通った茶褐色をしていた。
「別に。なんでもない。……ちょっと、夜更かししただけ」
「ふーん。あんまり無理しちゃダメだよ。君はただでさえ、放っておけない雰囲気なんだから」
からかうような笑み。能天気な遠慮のなさ。
やっぱり、あれは全部俺の妄想だったのだ。そう確信して、小さく息を吐いた。
二時限目、現代国語の授業。
ノートの隅に、昨夜の光景を無意識に書き連ねそうになり、慌てて消しゴムを動かした。
力を入れすぎたのか、使い古した消しゴムが指先から滑り落ち、コロコロと隣の席の方へ転がっていく。
あ、と思う間もなく、白い指先がそれを拾い上げた。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
リョウが差し出した手から、消しゴムを受け取ろうとした。
その時、俺の動きが止まった。
彼の白い手の甲から手首にかけて、真新しいガーゼが制服の袖口から覗いていた。
それだけじゃない。ガーゼから少しはみ出した指の付け根には、赤黒い擦り傷がいくつも刻まれている。
「……その、手」
思わず声が出ていた。
リョウは一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに「ああ」と困ったように笑って、袖を引っ張って傷を隠した。
「これ? ちょっと昨日、派手に転んじゃってさ。恥ずかしいから内緒にしててよ」
「転んだ、って……」
「そう。ドジだよね。暗い道は気をつけないと、何があるかわからないから」
──暗い道。
──何があるかわからない。
リョウの言葉が、鋭い針のように俺の胸に刺さる。
偶然だ。ただの偶然に決まっている。
黒板に向かう教師の背中が遠のいていく。
隣で涼しい顔をしてノートを取っているこの男は、一体、何者なんだ。
疑念は、一度芽吹くと、もう無視できないほど大きく育ち始めていた。
弁当箱の隅に追いやられた冷凍グラタンを箸で掬い取る昼休み。自然解凍特有の無機質な冷たさが舌先に触れ、淡雪のように頼りなく溶けた。
『恋愛運向上! 好きな人と一緒に帰れるかも!?』
アルミカップの底に印字された、安っぽい赤文字の占い。くだらない、と心中で一瞥して裏返し、プラスチックの仕切り板の向こうへ隠した。そんな他愛ない奇跡に縋らなければならないほど、俺の日常は枯渇していない——はずだった。
「ふー、お腹空いたね」
左に九十度。椅子を引き摺る音に混じって、軽やかな鼻歌が鼓膜を叩く。隣の席の主は購買で一番人気を誇る、炭水化物の塊のような焼きそばパンを宝物でも扱うように大事そうに抱えていた。
「美味しそうだね。お母さんが作ってくれてるの?」
不意の問いかけに、箸が止まる。
別に、誰が作ったものでもいいじゃないか。そう毒づく言葉を飲み込んで、真っ赤なミニトマトと一緒に「母さんが作った」という事実を胃の奥へ流し込んだ。
「……そうだけど」
肯定するだけで、自分がひどく子供っぽく、親に依存している存在のように思えて居心地が悪くなる。
「お母さん、料理上手なんだね。詰め方がすごく綺麗だ」
「……普通だよ」
「いいなぁ。卵焼き、すっごく美味しそうだ」
皆勤賞といってもいいほど毎日顔を見せる、少し甘めの卵焼き。俺にとっては日常の一部でしかないそれを、リョウは指まで咥えてしまいそうなほど、切実な眼差しで見つめてくる。
「俺、両親いないからさ。羨ましいな、そうやって誰かに弁当作ってもらえるの」
——卑怯だろ、それは。
心臓を素手で掴まれたような衝撃。さきほどまで「マザコンだと思われたくない」なんて矮小な自意識に振り回されていた自分が、救いようのない最低な人間に思えた。
横目でリョウを盗み見る。そこには、雨の中で飼い主を待ち続ける大型犬のような、湿った寂しさが透けて見えた。
……あいつ、さっきまであんなに眩しく笑ってたのに。
罪悪感が胸の内で膨れ上がり、手に持った箸がひどく重く感じられる。
「……食べる?」
しまった、と思う間もなく、言葉が空気中に放たれている事実に絶望した。
いやいやいや。血迷い過ぎだろ。何言ってんだ、俺。
「あ、いや……ごめん──」
「いいの? じゃ、お言葉に甘えて」
取り消そうとした瞬間、リョウの顔がパッと輝いた。
断る隙も与えられない。
リョウは当然のように俺の方へ体を寄せると、雛鳥が餌を待つような無防備さで、ゆっくりと口を開けた。
「箸持ってないし、あーんして」
耳の奥で、ドクンと心臓が跳ねた。
何を言っているんだ、この男は。
教室の喧騒が遠のき、視界にはリョウの柔らかそうな唇と、期待に満ちた瞳だけが映る。
俺の自我がその場に不在だったとはいえ、「食べる?」なんて聞いたのは他ならぬ俺の方だ。
今更、逃げ場はどこにもない。
俺は震える手つきで、黄色い卵焼きを一切れ、生贄でも捧げるような心持ちで彼の口元へと運んだ。
スローモーションのようにゆっくりと、リョウがそれを食む。
咀嚼に合わせて動く喉仏や、わずかに潤んだ唇の端。その一つひとつの所作が酷く熱を帯びていて、俺は思わず肺に残っていた息を呑み込んだ。
「美味しい。ユイトが食べさせてくれて、美味しさ倍増」
ふにゃりと、リョウが目を細めて笑う。
心臓の音が耳元までせり上がってきて、俺は慌てて残りの卵焼きを口の中に放り込んだ。味がしない。ただ、自分の耳たぶが沸騰したように熱いのだけがわかる。
「なんだよ……それ……」
俺は逃げるように弁当の蓋を閉め、膝に敷いていたハンカチで指先を強く拭った。
触れたわけでもないのに、指の先までリョウの体温が伝染してしまったような気がして、いつまでもその感覚が拭えなかった。




