24 慟哭
ウレイアはこれまでにないほどの恐怖を感じていた。
テーミスがトリィアを狙っている!
あの『天使』が何を考えているのか理解できないが、そうでなければ影武者を置いて消えるはずがないのだ。相手を警戒しすぎて思慮思考の視野が狭くなっていた。そして考えが深すぎたのだ。
ましてや、もう敵がテーミスひとりでは無くなった。100人の同族が敵であってもおかしくない、今さらでもそう考えを改めた。
ウレイアは全力で疾る馬の背に乗っていながらも、すぐに自分の脚で駆け出したい気持ちだった。
(もっと…もっと遠くっ…)
ウレイアの『監視』が届く範囲は全円で視ると半径2キロほど、視界を絞るほどに距離は伸びるが狭い範囲を視るだけではそれだけ見逃してしまうものも増えてしまう。
俯瞰による『監視』も距離は格段に伸びるが、広く見通そうとすれば目で見るように認識は粗くなり、木や物陰の裏を見ることもできない。ウレイアは行く手にあるものを絶対に見逃さないように、自分より前だけに視野を絞り倍の距離を稼ぐ。
「つっ…!」
激しい頭の痛みが襲ってくる。
少しでも遠く見透そうとすると、脳がその負荷に耐えきれずに悲鳴を上げる。それはまるで、ことのほか酷くのぼせている時と似ている。
そして悲鳴を上げ始めたのはウレイアの脳だけでは無い。かわいそうだとは思うが、既にペースが落ち始めている馬にウレイアは苛ついていた。
しかしそれとほぼ同時に……
「…っ!、トリィア!」
見つけた方へ目を凝らしても肉眼では遠すぎる。でもウレイアはやっと大きく息をすることができた。
(はあ…無事だったのね…)
トリィアも大分急いでこちらを目指しているようだ。姿を確認できたウレイアはそのまま馬なりに走らせ、首を撫でて馬をねぎらった。
やがて肉眼でも姿が見えるようになるが……
何故かトリィアは速度を緩めることなく、真っ直ぐにウレイアを目指して馬を走らせている。
(トリィア?)
すぐ先まで来ているというのに、トリィアが手綱を緩める気配がない、まるでウレイアに気づかずにすれ違ってしまいそうな勢いだが…トリィアは直前で何かを地面に捨てた……
「?」
ウレイアは自然と今目の前で起きていることから可能性を分析するが……感情が邪魔をしてウレイアの時間が止まる。その時っ…
首に下げていたひとつのマテリアルが熱を帯びた。それはエルセーのコインだ。
「あつっ!?」
胸に熱とざわつく危機を感じながら、ウレイアは反射的に顔をそむけてのけぞった次の瞬間…っ
トリィアがすれ違うと同時に仰ぎ視るウレイアの頭をかすめていく鋼糸が見えたっ。
それは集中した彼女の目にはっきりと、そしてゆっくりと後方へ飛び去っていく。
冷たい汗が一瞬で吹き出し、鞍の無い馬の背中からバランスを取りきれずに、転がり落ちてしまう。
(トリィアッ?!)
背中から落ちてゆく中で、ウレイアは身体が地に着くよりも早く左足で地面を蹴ると、転がる体に勢いをつけてその場から身をかわした。
パキンっ!と乾いた炸裂音が響く。
そうっ、落ちた場所にはトリィアが仕掛けた石が獲物を待ち構えていたからだ。
(つっ…!!)
逃しきれなかった足を石のかけらがはすっていった。
確実に殺意のこもった一撃っ、いや、二連撃っ!しかし今はそんなことを考えている暇は無い。手綱を返して突進してくるトリィアがすぐそこに迫っている。
ウレイアがトリィアの顔を凝視するとその顔に浮かぶ敵意と激しい怒りの面様に、彼女はそのまま棒立ちになってしまう。しかしトリィアは激情にまかせて手綱を緩めることは無く、またウレイアの首に鋼糸が迫ってくる。
それを弾き返そうと鋼糸が力なく鎌首をもたげるが、今の彼女の精神状態では弾き返せるか分からない。
するとっ、今度は馬が突然嫌がって斜行したことで流れた鋼糸がウレイアの頰を薄く切って通り過ぎていった。
はっとしたウレイアはすぐ側の雑木林に向かって走り出すと、何の考えもないまま木の影に逃れた。
(トリィア…無事では無かったのね……っ)
ウレイアは自分の出来の悪さに怒りがこみ上げてきた。トリィアに散々偉そうなことを並べ立ててきたことに恥じ入り、そして謝りたい気分だ。
そのトリィアは林の前で馬を降りるとウレイアに向かって叫んだ。
「テーミスっ!よくも…よくもお姉様をっ!」
一瞬カッと熱くなった頭の血の気はすぐに引いて、逆に身震いするほどの冷たい怒りと殺意がウレイアを支配する。
テーミスがトリィアにしたことを理解するには十分な言葉だった。
(やってくれたわね…テーミスっっっ!)
それは少し前……
エルセーと別れたあと、一刻でも早くウレイアの元へ戻ろうとしていたトリィアは、無理をさせない程度に、それでも最大と思われる速度で馬を走らせていた。
「こ れ でっ…お使いはっ…おわりですっ…」
乗馬のリズムに合わせて変な歌を作っている。
(戻ったらお姉様をナデナデしてあげましょう!)
馬もトリィアも上機嫌でボーデヨールに向かっていた。
(んん?)
トリィアは手綱を軽く引きながら、たった今『監視』の中に浮かび上がった人物に注目する。
そしてゆっくりと足を止めた馬の上でトリィアは考える。
(こんなところで?人……?)
ここからでは同族かどうか…隠すことが上手い者ならばヒトに成りすませる。そんなそぶりでも見せてくれれば悩まずに済むのだが、女がたったひとりで…こんな街道の途中で人待ち顔をしていれば、トリィアでなくても不審に思うのは当然である。
ただ、ちらほらと他の旅人や馬車も往来している時間であって、無理に考えればこんな辺ぴな場所だが誰かとはぐれたのか…?待ち合わせをするつもりのただの人間かもしれない。
「ううん…どう思いますか?ウーマさん…」
「ブル?」
勝手に適当な名前を呼ばれた上に何を問われたかなどウーマには分からない。
(でも、もし……あの人が同族でテーミスの仲間だったら…それは憂慮すべき事実ですよね?やっぱり確かめないと……)
しかし同族かどうか判断するには、それと分かるまで近づかなくてはならない。さらにテーミスの仲間であるかを知るためには少なくとも、疑惑を持てるだけの情報を得なければならない。
手綱を握る手に力を入れると、意を決してトリィアは馬を進ませた。
(どのみち避けて通れば時間がかかるし、何よりテーミスに仲間がいるのならその情報を持って帰るほうが重要ですよね?)
こんな時、町の中のように忍び寄れる場所ならば相手の様子からある程度推測することもできる。
目や耳に頼らずこちらの存在に気づいたそぶりを見せてくれれば同族である疑いを強めることができるが、まだ距離はあってもすでに互いの姿が見通せる草原である。
他の馬車や旅人の前で馬の上から姿を消しても騒がれるだろう。
(それは相手も同じなんだから…刃傷沙汰にはならないよね?ふう……よしっ、私の後ろにはお姉様が付いてくれていますっ)
ひとりきりの不安を振り切るように、今まで見て学んできたことを自信と勇気に変えて踏み出す。それはまぎれもなく、教えを与えてくれた全ての人に守られていることを意味している。
(ええと、しかしどうしましょう?)
しかし何か腹案があるのかというと…ノープランである。
(と、とにかく人間かもしれないから、まずは確認しないと…それから…ええと、テーミスの仲間かどうか……聞くの?)
蒼い瞳が泳いで空が映った。
「だ、ダメだあたし…」
トリィアはまず、相手が人間だったら危害を加えないことを前提に考える。それは無用の騒ぎを起こさない意味もあるが、何より優しいからである。
それでもぶつぶつと考えながら馬にまかせて近づいていくと、100メートルほどを残した辺りで女が顔を向けた。すぐに視線を他へ移したが、身構えていたトリィアの緊張感は増していく。
(いやいや…この人は…)
近づくにつれて相手の正体がはっきりしてきた。顔が十分に見合える距離まで来ると女はにっこりと会釈をした、旅人同士が交わす挨拶のそれである。トリィアは挨拶を返しながらじっと女の顔を確かめる。
そしてほっと胸を撫で下ろした。
(なんだー、やっぱり人間ですよねー)
しかし……すれ違いざまに三度女と目が合った時に感じた異常は……
(!、この人っ意識がないっ?操られて……)
「ねえ…」
背後から不意に声をかけられた。そして突然現れた声の主の気配に全身に鳥肌が立つっ。
(うそっ?テーミ…)
「〝眠って…〟」
身体から力が抜けて意識が散ってしまいそうになるのを堪えて振り返ると、ドアの開いた馬車の中にそれらしい少女が座っていた。
「っ!!」
「〝眠りなさい〟」
目が合った瞬間に更に言葉をかぶせられると易々と心の防壁を突破されてしまう。
「あ…おねえさ…ま…」
意識を刈り取られていく中でもうひとりの女が馬車から降りてくるのを見届けると、トリィアはだらりと意識を失った。
ずり落ちそうになるトリィアを馬がかばって膝を折ると、すぐに降りてきたもうひとりの女が頭を抱き抱えるように受け止めた。
「まあ!馬が?」
受け止めた女は感嘆の言葉を口にしながらテーミスを見た。テーミスは満足した笑みを浮かべると女にうなずいて見せる。
そして立たせていた女にはあしらうように冷たく命令する。
「その馬を馬車につないで…お前は御者台に座りなさい」
「はい…」
女はテーミスに言われた通りに行動すると、御者台によじ登った。
その間にトリィアは引きずられながら馬車の中に連れ込まれ、テーミスの隣に壁にもたせかける形で座らされた。
トリィアを見つめるテーミスが鼻をひくつかせると、頰をそっと撫でた。
「あおい…蒼くて澄みきってる…葡萄の花?いい香り…」
トリィアを乗せて馬車が走り出す。人目から遠ざかるために街道から離れて東に向かって……
「なんて可愛らしい。この娘が新しい姉妹ですか?テーミス様」
「そう…ふふ…」
テーミスはまるで子供が人形を愛でるように撫でながら、トリィアに語りかけ始める。
「ねえ、聞こえる……?」
「………」
「そうね…自己紹介をしましょう……?わたしはテーミス……あなたの…〝なまえを教えて?〟」
トリィアの眉間に力が入る。
「ん…………」
「ん?」
それは無意識の必死の抵抗だった。
「ふうん……」
テーミスはトリィアの耳に口を近づけると、慣れた手順なのか焦ることもなくに囁いてくる。
「それじゃあ…10年前に戻って…そうね…〝あなたは生まれ変わってから…何歳?〟」
年齢退行はトリィアの記憶とそれまでの経験を奪われる意味で、抵抗力を削ぐには効果的な方法なのだろう。
「じっ……じゅう…いち、さい」
「そう…『あなたの名前は?』」
「トリー…」
テーミスがにんまりと笑った。
「トリー…そう…素敵な名前ね…?それじゃあ…〝おねえさまはあなたのそばにいる?〟」
テーミスはトリィアの意識が落ちる瞬間に呟いたことを聞き逃さなかった。
「もちろん」
「そう…〝お姉様の名前を教えて〟」
「おね…さま、の…んん……」
本当の名前を話してはならない……
口の軽めなトリィアでも得体の知れない相手とあっては幼い頃でも口は堅い。かと言ってテーミスも諦めはしない。
「じゃあ…15年前に戻りましょう……トリー…〝お姉様はそばにいる?〟」
こくこくと嬉しそうにトリィアがうなずく。
(そんなに…前から…?)
テーミスは2人の関係がどのようなものなのか、急に興味をそそられた。
「〝お姉様は優しい?〟」
また力強くうなずく。
「〝お姉様のことが好き…?〟」
「だいすき……」
ウレイアはいつもトリィアを気遣い思いやって叱り、抱きしめられることは少なくても常に愛情に包まれていた。
必死に追いかけて来る歩みの遅いトリィアが自分を見失わないようにゆっくりと、ゆっくりと歩いてくれる。いつかは追いついてその横顔を見上げることがささやかな夢になった。
「いつも…いつも一緒に歩いてくれる……」
「!……そうなの…あら?お姉様があなたを置いて行ってしまうわよ?早く〝お姉様の名前を呼んで!〟」
「う、ウレイアさまっ!」
「そうっ!…ウレイアっ!そう……綺麗な名前ね…」
テーミスは苛つくことも無く、こんな過程を楽しんでいるように見えた。まさしくおもちゃで遊んでいる子供のように……
「そう……そうそう…〝お姉様にもご主人様がいるの?〟」
トリィアは首をかしげた。
「ご主人様…さま?」
「〝あなた達を従えている…誰かがいるでしょう?〟」
「わたしにも、お姉様にも…ご主人はいないよ」
「え…?」
今度はテーミスが首をかしげる。
テーミスはトリィア達の関係が、自分と同じように力と支配によって築かれているに違いない、と思っていた。
自分よりも強い者におもねる。その思い込みはウレイアと話をした時にもテーミスが口にしていたが、エルセーにせよ、トリィアにせよ、彼女達の絆を他の同族と一緒にされるとは……甚だ心外だと言うだろう。
「…トリーにとって…お姉様はご主人様…でしょう?」
「お姉様?お姉様は……お姉さん、お母さん…家族、ずっと一緒……わたしの半分…」
「はん…ぶん?」
それまで楽しんでいたテーミスが不可解で、不愉快な顔をした。
テーミスは視線を落として少し考えてから
「トリー…5年前まで大きくなるよ…〝お姉様は優しい?〟」
「もちろん、それでもお怒りになる時は…私のためを思ってのことですから」
「トリーに…〝何かを押しつけたり…利用しているのでしょう?〟」
トリィアはハッキリと首を振った。
「ううん…利用しているのは私の方…お姉様に甘えてわがままばかり言って…むしろお姉様は…私に何も求めて下さらない…私はいつでも何でも捧げることができるのに…」
「…………」
そしてはじめて、テーミスは顔をしかめた。
「それに私には分かります、決して誰にも踏み入れられることのない強い絆と…」
「〝だまってっ〟…トリー」
止め処ないトリィアののろけを思わず一喝してしまったテーミス。
同時に心の奥深くから暗くどろりとしたものが湧き上がってくる。知らない感情にあらがうこともできず、テーミスはそのまま粘りつく心地にあっさりと自身を委ねてしまう。
「この人は…わたしの姉妹にはなれないのね…」
何故か心からウレイアに自分を委ねているトリィアにテーミスは苛つきを見せた。そしてテーミスがどのような言葉を発しても今一緒にいる女の表情にあまり感情は表れない。テーミスはその事で尚更のこと心の内を濁らせて、やるせない思いが幾重にも纏わりつき心をがんじがらめに絡めていく。
「トリー…あなたとウレイアの絆はとても強いのね?」
「もちろんです!」
「そう…」
しばらく虚ろを仰いでいると、テーミスは冷たくトリィアを見つめてささやきはじめた。
「トリー…あなたのお姉様の姿を思い描きなさい…」
心に描いたウレイアの姿にトリィアが微笑んでいる。
「お姉様…」
「よく聞いて…〝それが…テーミスよ!〟」
「え?ちがう…この人は私のお姉様…」
テーミスが語気を重ねて強めた。
「〝あなたはテーミスにそう信じ込まされているのよ?ウレイアが危ない…!お姉様を救うの…忘れないでっ、〝それはテーミスよ!〟〟」
悪意に染まったわがままがトリィアの無垢な現実を塗り潰していった。
トリィアに襲われ、苦し紛れに木の影に身を潜めたが、それでも少しは時間を稼げたようだ。
「トリィアっ!〝私がウレイアよっ〟私の声まで忘れたの?」
トリィアに叫ぶと僅かに足を止めるが、怒りの炎に油を注いだようで、すぐにまた距離を詰めて来る。
「このうえ、お姉様の名を騙るなんて…お前の顔を間違えるわけがないでしょうっ?」
「なぜっあなたがテーミスの顔を知っているの?考えてみなさい!」
「え…?それ、は………ええいっうるさい!私を操ろうとしても無駄よっ」
(トリィアを刺客にするなんて…気が変わったのか、気でも違ったのか?辺りにテーミスの姿は無いけど……)
取り込んでいる同族の数も能力も分からない今、全ての可能性を捨てることが出来ない。そんな中でもトリィアが怒りにまかせて迫って来る。
テーミスに対しての怒りは一旦置きざりにしてトリィアを止めることに集中し始めるウレイア。
すると殺意を向けられているのにも関わらず、全力で自分に向かってくるトリィアの本気を感じて、何故か口元が緩むのだった。
彼女の武器も攻め手も知り尽くしているが、さっきの攻め方は中々良かった。さて、次はどんな手を使って攻めてくるのか?もっと…もっと本気のトリィアを見せて欲しいっ。私に全てをぶつけてみなさい……
そんなことを考えていると、トリィアは石を幾つかウレイアの両の真横に落ちるように放った。
ウレイアは石が地に着く前に左側に投げられた石を鋼糸で弾き飛ばすと、木の影から飛び出して右の石から遠ざかろうとする。しかし当然、飛び出した先にはトリィアの鋼糸が待ち構えていたっ。
(やはり真っ先に首を狙ってくるのね?急ぎすぎよ……?)
すぐに根元に近い方に自分の鋼糸を叩きつけると、くの字に曲がって軌道を変えるっ。そして軌道が浅くなった分だけ体を傾けて鋼糸からすり抜ける、その先端の数ミリ先を表情ひとつ変えることも無く。
(もう一手欲しいわね、トリィア?)
そのまま林の奥へ向かいながら、すぐにまた木の影に潜り込む。
(今のは今ひとつ……もっとも、逃げる相手に石を使うのは難しいわよね?)
トリィアはウレイアの動きを見て、使えなかった石を素早く回収しながら迫っていた。
(ふう…とんだハンデ戦ね?追って来るトリィアに罠を仕掛けるのは簡単だけど、多少の傷を負ってもあの子は絶対に止まらない。意識を断つほどの攻撃をすれば殺してしまうかもしれない…今のこの子を無傷で無力化するなんて…無理難題ね?)
「!」
(テーミスは私にトリィアを殺させたいのねっ?!)
と、その時っ、突然息を吹きかけられたような風に首を撫でられた。
「っ?!」
異常事態を感じ取ったウレイアの体は反射的に身を沈めてその脅威を回避するっ。
すぐにもたれていた木を見上げると、幹に斬りつけたような傷がっ……!?
(この技はっ!トリィア、あなたっ)
ケールの置き土産、トリィアが懸命に練習していたあの技だ。
(でもまだ不安定で時間がかかるようね?前兆を感じることができなければ今のは危なかった……)
それなのにウレイアの顔は喜びで緩んだ。脅威である程嬉しくなってしまう、トリィアが正気に戻っても今の感覚を忘れないでいてくれることを祈りながら。
(ふふ、これは怖いわねっ、完全に安全地帯が無くなった。でも……)
これで余裕が無くなった。次は前兆も無く首を落とされるかもしれない……
(トリィアを無傷で止められないなら……私が死ぬしかない…か)
ウレイアはまた飛び出してトリィアからなるべく離れると、わざと細めの木を選んで身を隠した。
(この距離なら鋼糸は届かないわよ、トリィア?)
「トリィアっ、ボーデヨールに向かっていた時の…野宿したあの夜を思い出してっ!」
トリィアがはっとして、こころに迷いが生じる。
「な?なんでそんなことをあなたが……?もうっだっ、だまれっ!」
淡い期待と挑発を兼ねて叫び、ウレイアは神経を集中する……息を静かに吐き、自分の時間を最大限に『延ばし』ていく……
隠し切れていない体からは首の高さを想像するのも容易だろう。
(でも大きさを見誤ったら…)
確信は無いが、まず首に触れる風で位置と大きさを想像できそうだ、けれど次、もしその前兆さえ無くなっていたら…
!
(きたっ!)
前兆は来たっ!それでも猶予は一瞬っ、その一瞬に必死の領域から活路の幅だけ首を逃すっ。
っ!!!
(首の…中にまで風が通り抜けていった?)
しかしその妙な感触はすぐに激痛にすり変わった。
「ぐうっ!」
(しくじっ…かし…ら?)
避けた勢いのまま、ウレイアは血しぶきを散らせながらその場に倒れ込んだ。
「やった……?やりましたお姉様!仇をっ、テーミスを討ち取りましたっ」
トリィアはウレイアが倒れたことを見ると、生死を確認するために駆け寄って来る。
じっと動かず…ウレイアは薄っすらと目を開けると、そばにはペンダントがばらけて石が散らばっていた。
(あ、痛うっ…大丈夫……でも少し、深く切らせすぎた?首に鋼糸を巻きつけていなかったら危なかったわね………これで死んだと思ってくれたかしら?)
トリィアは警戒しながら近づきつつウレイアのことを丹念に観察しはじめた。
「と、とどめは…?」
テーミスを倒したことで、怒りに絡め取られていたトリィアの心が自由を取り戻す。
そしてその目はある物に釘付けになった。
「!?、あ…れ?なんでテーミスが大お姉様の古いコインを……??何で…このルビーを持っているの……っ???」
血の気の引いたウレイアの顔のそばには、トリィアにプレゼントされた大切なルビーが落ちていた。
「あ……?」
その途端、トリィアの脳裏にこれまでのウレイアとのやり取りと、冷たいテーミス本人の眼が次々と蘇ってくる。
テーミスが反撃しなかったこと、
テーミスが鋼糸を使っていたこと、
テーミスが知り得ないことを知っていたこと、
見てもいない筈のテーミスの顔を知っていたこと、
今横たわっているテーミスと記憶の中のテーミスの『眼』がちがうこと、
そして……
「あ…お姉様は、ふたりの時は私をトリーとは…呼ばない……それに…このふたつと無いルビーは…」
トリィアの顔が見る見るうちに青ざめていく。
「う、うそ……この…ひと、は…」
ウレイアは激痛の中、トリィアを見て語りかけようとした。
「とり…あぁ…」
(つっ…声が上手く出せない)
後悔と…
悲しみと…
己に対する怒りにトリィアの顔が歪む。
「あ、ああああああ、お…おねえ、さま?」
「いいの、よ…トリィ…あ」
そして最後に蘇ってきたものは、トリィアが自分を責めて苛んだ両親の最後…………………
「ひ、いっ…いやああああああああーっ!」
激しい慟哭を最後にトリィアは意識を失って倒れた。
「トリィ、ア…ぐ、うっ…」
首を手で押さえて体を起こす。
(少しの間首を動かせない…痛っ)
ウレイアは膝を使ってトリィアににじり寄ると、意識の無いトリィアの頭を膝に乗せて優しく撫でた。
(少しだけ待ってね、トリィア……)
切り口が綺麗なことは助かった、既に血は止まっている。もう少し待てば動いても支障は無いだろう。
ウレイアは自分の呼吸を確かめるように、何度か大きく息をした。
そしてスイッチを入れ替えると蘇ってきた怒りに体を震わせた。
怒りには2種類ある。時間と共に薄らいでいく怒りと、復讐を果たすまで決して癒されない時間と共に増す怒り……
そしてテーミスの残酷な死は、ウレイアの中で決定的なものになった。
(テーミスっ…)
テーミスはトリィアに嘘の記憶を植えつけた。それは……
テーミスに出会った記憶を封じられ、嘘の現実…言ってみれば夢の中でトリィアはボーデヨールに帰るべく馬を走らせていた。
「戻ったらお姉様をなでなでしてあげましょう」
トリィアが走り続けていると、ボーデヨールから馬を走らせるウレイアの姿が彼女の『監視』の網に引っ掛かった。しかし、この夢の中のウレイアはテーミスと入れ替わっている。
「まさかっ!?お姉様?」
ウレイアはかなりの深手を負って、馬に体を預けながらかろうじて逃げ延びてきたのだ。
「お姉様ーっ!」
すぐにウレイアが握っていた手綱を受け取り街道を外れて、身を隠すのに丁度良い小屋を見つけて馬を止めた。
馬からずり落ちるウレイアをトリィアが受け止めると、取り敢えず小屋の壁に持たせかけて座らせる。どうやら致命傷ではなさそうだが傷は深い。
「お姉様っ、お姉様…ひどいっ!大丈夫なんですか?お姉様がこれほどの深手を負うなんて…」
「ん…大丈夫よトリー…でも、すぐに逃げてっ、テーミスに追いつかれるわ」
「テーミスですか?テーミスにやられたんですか?」
「そうよ…私はしばらく動けない、いいから私を置いて逃げなさい。このまま真っ直ぐに逃げなさいっ!」
トリィアはウレイアを見ると怒りをあらわにして
「いやですっテーミスは私が止めますっ!」
「トリーっ!」
「それにお姉様にこれだけのことをされて許せるはずがありませんっ。お姉様はここで回復に努めて下さい」
ウレイアは体を引きずってトリィアを止めようとしている。
「トリー、やめなさい」
「大丈夫…必ず戻りますからっ」
トリィアはテーミス、つまりはウレイアを止めるべく馬で飛び出していった。
それが、テーミスに見せられた悪夢……あとは適当なところで意識が戻るよう馬に乗せられて放り出されたのだ。
ウレイアは首を押さえて回復を待ちながら、戸惑ってうろうろとしている馬の姿を確認していた。
(良かった…そのまま待っていて頂戴。テーミスは一体どこに行ったの?…まあいいわ、動けるようになったら街に戻りましょう。どうせ奇襲は通じないし、さすがに街の中では襲ってこれないでしょうし……もう私には…関係ないけどね……っ!)
すぐにでも引き裂きに行きたい衝動を今は抑える。どんなに時間を経てもこの衝動があせることなどあり得ないし、今はトリィアの事を最優先にしたい。
「ん、んんっ…もう、いいわね……」
ウレイアはトリィアを抱えて馬に乗せると、抱きかかえるように両手で挟んで手綱を握った。
鞍のない馬には無駄かもしれないが、ひとこと語りかけてみる。
「後ろに付いてきて、解る?」
出発して振り返るとウレイアに言われた通りに後ろをちゃんと付いて来ている。やってみるものだ、そう思った。
ウレイアは人知れず宿に戻り、とにかくトリィアをベッドに寝かせた。
街に戻っているなら自分達が無事だったことはテーミスにも分かったはずだ。
(思えばまだ宣戦布告をしていなかったけど、まあ、そんなことをしたことも無いけど…ここへ戻ったことで分かるでしょうテーミス?今度こそ…あなたを殺しに来たと)
ウレイアはまだ目覚めないトリィアが心配でただ髪を撫でた。
(この子は…忌まわしいあんな地獄を二度も味わって……『もうそんな事は起こらない』この子にそう…約束していたのに……!)
しかし、ウレイアは約束を破った。
いくら撫でてもこの傷を癒せるはずがない。眉をひそめてトリィアを見つめると、ウレイアは償いを誓った。




