第3話 大宮
三日目の朝。
芳江は、もはや信夫を一人で駅へ行かせるつもりはなかった。
「今日は私が駅まで送ります」
「昨日も送っただろ」
「昨日はあなたが帰ってきたじゃないですか」
「今日は大丈夫だ」
「その言葉も三日目です」
信夫は不満そうだったが、芳江は譲らなかった。
靴を確認した。
財布もある。
乗り換えを書いたメモもある。
旅行用のバッグも、今度こそ間違えていない。
「大阪ですよ」
「分かってる」
「東京と反対ですよ」
「分かってるって」
「新幹線に乗る前に、ちゃんと行き先を見てくださいね」
「俺を何歳だと思ってるんだ」
芳江は答えなかった。
年齢の問題ではないことを、この二日間で嫌というほど思い知らされている。
静岡駅まで信夫を送り、改札の前でもう一度確認する。
「大阪方面ですよ」
「はいはい」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。ここまで来れば、あとは乗るだけだろ」
それは昨日も聞いたような気がした。
それでも、いつまでもついていくわけにはいかない。
「着いたら電話してくださいね」
「分かった」
信夫は手を振り、改札の向こうへ消えていった。
芳江はしばらくその場に残った。
戻ってこない。
十分経っても戻ってこない。
今日は本当に行ったらしい。
「やっと行った……」
芳江は小さく息を吐いて家へ戻った。
久しぶりに静かな午前中だった。
今日は探し物もしなくていい。
夫を捜して町を歩き回る必要もない。
何より、親戚に謝罪の電話をしなくてもいい。
そう思っていた。
昼前に、携帯が鳴った。
信夫だった。
「もしもし。着いたんですか?」
『着いたことは着いた』
「ずいぶん早いですね」
『ただな』
嫌な予感がした。
「なんです?」
『全然見覚えがない』
「久しぶりに行くんだから、あまり見覚えがなくて当たり前でしょう」
『いや、そうじゃない。大阪ってこんなところだったか?』
芳江は黙った。
「駅名、何て書いてあります?」
『ちょっと待て』
しばらく電話の向こうから雑踏だけが聞こえた。
『東京だな』
「……東京?」
『ああ。東京駅』
「なんで東京にいるんですか!」
『新幹線に乗ったら着いた』
「大阪と反対ですよ!」
『そうなのか?』
「朝、私が言ったでしょう!」
『どっちだったかな』
芳江は額を押さえた。
信夫は大阪へ行くつもりで、東京へ向かう新幹線に乗ったらしい。
「とにかく、大阪方面に乗り直してください」
『どうすればいいんだ』
「東京から東海道新幹線の大阪方面に乗ればいいんですよ
『大阪だな』
「そうです。大阪です」
『分かった。大阪な』
「ちゃんと案内を見てくださいよ」
『分かってる』
電話が切れた。
これなら、さすがに間違えないだろう。
行き先は一つしか言っていない。
大阪。
それだけ覚えていればいい。
しばらくして、また信夫から電話が来た。
『着いたぞ』
「大阪にですか?」
『いや、大宮だ』
芳江は黙った。
「……大宮?」
『ああ』
「どうして大宮にいるんですか!」
『大阪と似てるじゃないか』
「似てればいいわけじゃありません!」
『大まで同じだぞ』
「だから何なんですか!」
どうやら信夫は、東京駅でなぜか大阪方面の新幹線ではなく、大宮へ向かう在来線に乗ってしまったらしい。
「大宮は東京より北ですよ。大阪へ行くどころか、また大阪から遠ざかってるじゃないですか!」
『そうなのか?』
「そうですよ!」
『でも大宮まで来たんだから、もう少しじゃないのか?』
「何がです?」
『大阪』
「全然違います!」
芳江はもう、自分が何を説明しているのか分からなくなってきた。
「とにかく大宮で待っててください」
『分かった』
「絶対にそこから動かないでくださいね」
『はいはい』
「本当にですよ!」
『分かったって』
電話を切った。
芳江はしばらく考えた。
このまま電話だけで大阪まで行かせられるのだろうか。
東京で大阪へ行けと説明しただけなのに、大宮へ行った人である。
大阪へ行くつもりが、次はどこにいるか分からない。
「……もう駄目ね」
芳江は立ち上がった。
財布を持った。
上着を着た。
そして自分まで駅へ向かった。
まさか夫を大阪へ行かせるために、自分が埼玉まで行くことになるとは思わなかった。
でも、このまま任せておいたら一体どこまで行ってしまうのか分からない。これ以上大阪から遠ざかってもらっては困る。
大宮に着いたころには、芳江の方がすっかり疲れていた。
改札を出て信夫に電話する。
「着きました。どこにいます?」
『大宮』
「それは知ってます。大宮駅のどこです?」
『駅の中』
「それも知ってます!」
『電車が見える』
「駅ですからね!」
『あと人がいっぱいいる』
「それもでしょうね!」
しばらく電話で目印を聞きながら探し、ようやく信夫を見つけた。
ベンチに座っていた。
芳江を見ると、信夫は手を上げた。
「遅かったな」
芳江は返事をしなかった。
「結構待ったぞ」
「誰のせいで大宮まで来たと思ってるんですか」
「まあ、来たんだからいいじゃないか」
「大阪に行くはずだったんですよ」
「でも、ちゃんと旅には出たな」
芳江は大宮駅の天井を見上げた。
確かに旅には出た。
目的地とは逆方向だったが。
「これからどうします?」
「大阪行くか?」
「今から?」
芳江は時計を見た。
もう夕方が近い。
ここから大阪まで移動して、さらに親戚の家まで行くとなると、かなり遅くなる。
何より芳江自身がもう疲れていた。
「今日はここで泊まりません?」
「そうするか」
信夫はあっさり答えた。
「先方には?」
「お前から言っといてくれ」
「また私ですか?」
「俺が言うよりいいだろ」
この三日間で何度目になるか分からない電話を、芳江は親戚へかけた。
『もしもし。今どの辺?』
「あの……」
芳江は信夫を見た。
信夫は知らん顔で駅の案内板を眺めていた。
「今、大宮にいまして」
『大宮?』
「はい」
『なんで大宮に?』
当然の質問だった。
「ちょっと……用事がありまして」
『大宮に?』
「ええ、まあ……急用というか」
芳江自身、何を言っているのか分からない。
『じゃあ今日は来ないの?』
「今日はちょっと難しそうなので……また行けそうになったら、こちらから連絡します」
『分かったけど、大丈夫?』
「大丈夫です」
そう答えながら、芳江は信夫を見た。
大丈夫ではない気がした。
「本当にすみません」
電話を切る。
「なんて言ってた?」
「なんで大宮にいるんだって」
「そりゃそうだな」
「誰のせいですか」
「まあいいじゃないか。今日は大宮観光ってことで」
「観光してませんよ」
その日は駅の近くに宿を取った。
部屋に入るなり、信夫はベッドへ腰を下ろした。
「疲れたな」
「私の方が疲れました」
「でも明日はここから大阪へ行けばいいんだろ」
「今度こそ大宮と間違えないでくださいね」
「もう間違えない」
「大阪ですよ」
「大阪な」
芳江はもう、その言葉を信じなかった。
こうして大阪へ向かっていたはずの二人は、その夜、なぜか大宮に泊まることになった。




