第2話 今日も駅が遠い
翌朝。
「今日は本当に行くんですよね?」
芳江が念を押すと、信夫は昨日と同じ旅行鞄を持ち上げた。
「当たり前だ。昨日はたまたま日が悪かっただけだ」
「今日は晴れてますよ」
「だから行くんだろ」
信夫は靴も履いている。
財布も持った。
昨日一時間近く探した乗り換えのメモも、今日は胸ポケットに入っている。
芳江は念のため三回確認した。
「じゃあ、駅まで気をつけて」
「駅くらい一人で行ける」
「昨日は一度行けましたものね」
「そういうことだ」
信夫は自信たっぷりに出ていった。
芳江は玄関からその背中を見送った。
昨日よりはいい。
少なくとも今日は、朝のうちに家を出た。
これなら大丈夫かもしれない。
そう思っていた。
三十分ほどして、玄関が開いた。
「ただいま」
信夫だった。
「……どうしたんですか?」
「分からん」
「何がです?」
「駅に行こうと思って歩いてたんだ」
「はい」
「ずっと歩いてたら、ここに着いた」
芳江は夫を見た。
その後ろにある自宅の玄関を見た。
「一周してきたんですか?」
「たぶんな」
「駅まで、ほとんど一本道ですよ?」
「俺もそう思ってた」
芳江には、どうやったら一本道を歩いて家へ戻ってこられるのか、さっぱり分からなかった。
「しょうがないですね。私も行きます」
「いや、一人で行ける」
「今、一人で帰ってきたじゃないですか」
「今度は大丈夫だ」
「その『大丈夫』を昨日から何回聞いたと思ってるんです?」
結局、芳江が駅までついていくことになった。
「私の後ろを歩いてくださいね」
「子供じゃないんだから」
「勝手に曲がらないでくださいよ」
「曲がらん」
二人で歩き始めた。
芳江が前、信夫が後ろ。
しばらくは順調だった。
「向こうに着いたら、ちゃんと電話してくださいね」
返事がない。
「あなた?」
やはり返事がない。
芳江が振り返った。
誰もいなかった。
「……あなた?」
来た道を戻る。
いない。
横道を覗く。
いない。
しばらく探した末に、二本ほど離れた通りで信夫を見つけた。
「何してるんですか!」
「ん?」
信夫は、何事もなかったような顔をしていた。
「勝手にいなくならないでください!」
「こっちの方が近いかと思って」
「駅、反対です!」
「そうなのか?」
「だから私についてきてって言ったでしょう!」
信夫は悪びれる様子もなく、腹を押さえた。
「腹減ったな」
「え?」
「もう昼じゃないか?」
芳江が時計を見る。
十一時五十分。
家を出たのは、まだ八時を少し過ぎたころだったはずだ。
「……もうお昼にしましょう」
「そうするか」
近くの店に入り、二人で昼食を取った。
「本当に一人で大丈夫なんですか?」
芳江が聞く。
「大丈夫だ」
「全然そうは見えませんけど」
「駅まで着けば、あとは電車に乗るだけだろ」
「その駅まで着かないから言ってるんです」
食事を終え、店を出た。
「じゃあ、ここからは一人で行く」
信夫が歩き出そうとする。
「あなた」
「なんだ」
「下駄ですよ」
「え?」
信夫が自分の足元を見る。
家で近所へ出るときに履いている下駄だった。
「その格好で新幹線乗るんですか?」
「別に乗れるだろ」
「乗れますけど」
そこで芳江は、自分も信夫の足元を見た。
朝、二人で一緒に家を出た。
それからしばらく前を歩いていたし、途中では信夫を探して町中まで歩き回った。
それなのに、どうして今まで下駄に気づかなかったのだろう。
考えてみれば、家を出るときに財布やメモだけではなく、靴まで確認しておくべきだったのかもしれない。
夫の靴まで確認しなければならないというのも、どうかとは思うが。
信夫は少し考えた。
「……戻るか」
「戻るんですか」
また二人で家へ向かった。
その途中、芳江はふと思った。
「でも、おかしいですね」
「何が?」
「昨日は一人で駅まで行けたじゃないですか」
「ああ」
「今日はどうして行けないんです?」
「昨日は前に女の人が歩いてたからな」
「女の人?」
「綺麗な人だった」
「……それで?」
「見てたら駅に着いた」
芳江は足を止めた。
「その人についていったんですか?」
「まあ、結果的には」
「道を覚えてたんじゃないんですか?」
「道なんか見てなかった」
芳江は何も言わず、また歩き始めた。
違う意味で心配になってきた。
家へ戻り、信夫は靴を履き替えた。
これでようやく出発かと思ったが、
「飯食ったばかりだから、ちょっと休む」
「またですか?」
信夫はスマートフォンで時刻表を見た。
「次の電車より、その次の方が乗り換えがいい」
芳江は信夫を見た。
「昨日も同じこと言ってませんでした?」
「そうだったか?」
「そうですよ」
「じゃあ、昨日もちゃんと調べてたってことだな」
そこは覚えていないらしい。
靴をどこで脱いだかも、道も、昨日何をしたかもろくに覚えていないのに、どうしてこういうことだけは同じなのだろう。
「少しくらい寝られるな」
「結局、昨日と同じじゃないですか」
「今日は起こしてくれ」
そう言ってソファに横になった。
数分後には寝息を立てていた。
芳江はもう驚かなかった。
今度は時間になったら自分が駅まで送ろう。
それしかない。
予定の時間になり、信夫を起こした。
「起きてください。行きますよ」
「ん……もうか?」
「私が駅まで送りますから」
まだ寝ぼけている信夫に旅行用のバッグを持たせ、芳江は駅まで連れていった。
「着きましたよ」
「ん……」
「今度こそ行ってくださいね」
「ああ」
信夫を駅に残し、芳江は家へ戻った。
今度こそ終わった。
そう思った。
しばらくすると、携帯が鳴った。
「はい」
『迎えに来てくれ』
「どうしたんです?」
『起きたら駅にいた』
「私が送ったんですよ」
『そうだったか』
「寝ぼけてたんですか?」
『たぶんな』
芳江は額を押さえた。
すると電話の向こうで、信夫がごそごそ何かを漁り始めた。
『おい』
「今度は何です?」
『これ、俺の荷物じゃないぞ』
「そんなわけないでしょう」
『中に服しか入ってない』
「服?」
『トレーニングウェアだ。しかも臭い』
芳江は固まった。
廊下を見る。
そこに、信夫が持っていくはずだった旅行用のバッグが置いてあった。
「あ……」
『どうした』
「……間違えました」
『何を』
「バッグ」
さっき寝ぼけている信夫に渡したのは、この前運動したときに使ったバッグだった。
中には、まだ洗濯していないトレーニングウェアが入っている。
『お前もそそっかしいな』
芳江の眉が動いた。
「誰のせいで朝から歩き回ってると思ってるんですか」
『まあ、誰にでも失敗はある』
「駅で待っててください! 今、本当のバッグを持っていきますから!」
『分かった』
芳江は旅行用のバッグをつかみ、再び駅へ向かった。
駅に着いた。
信夫がいない。
「……あれ?」
周囲を探した。
いない。
携帯をかける。
『もしもし』
「今どこにいるんですか?」
『家に向かってる』
「なんでですか!」
『待ってても来ないから』
「すぐ向かいましたよ!」
『そうなのか?』
「駅で待っててって言ったでしょう!」
『まあ、もう途中まで来ちゃったから』
電話が切れた。
芳江は旅行用バッグを抱えたまま、また家へ向かった。
家に着く。
「あなた?」
いない。
「……なんで?」
今度は家にもいなかった。
もう一度電話をかける。
「今どこですか?」
『家に向かってる』
「私、家にいますけど!」
『おかしいな』
「そこ、どこです?」
『分からん』
芳江は目を閉じた。
結局、また外へ出て夫を探した。
しばらくして、全然違う道を歩いている信夫を発見した。
二人がようやく家へ戻ったころには、芳江の方がへとへとになっていた。
信夫は居間へ入るなり、ソファに座った。
「疲れたな」
芳江は黙って夫を見た。
たぶん、自分の方が疲れている。
「今日はもう行かないんですか?」
「今日はもういい」
「またですか?」
「どうも今日は運が悪い」
「昨日は日が悪くて、今日は運が悪いんですね」
「そういう日もある」
信夫はすっかりくつろいでいた。
「先方に断っといてくれ」
「また私がですか?」
「明日は行くって言っといてくれ。明日は大丈夫だ」
その言葉を聞きながら、芳江は電話へ向かった。
本当に大丈夫なのだろうか。
昨日も同じようなことを考えた気がする。
親戚に謝り終えて電話を切ると、芳江は台所を見た。
夕食の時間が近づいている。
けれど、今日はもう何かを作る気力が残っていなかった。
「あなた」
「なんだ?」
「今日の夕飯、出前でいいですか?」
「俺は何でもいいぞ」
芳江は深くため息をついた。
明日こそ本当に旅立ってくれることを、今はただ祈るしかなかった。




