第1話 ひとり旅
高橋信夫が、遠方に住む親戚のところへ行くと言い出したのは、つい三日前のことだった。
正確には、何か月も前から「たまには遊びに来い」と誘われていた。それを信夫が、遠いだの、また今度にするだのと言って先延ばしにしていたのである。
それがようやく重い腰を上げた。
「たまには一人で行ってくる」
そう宣言した夫に、妻の芳江は不安しかなかった。
昔から方向音痴で、忘れっぽくて、そそっかしい。
本当に一人で旅なんて大丈夫なのだろうか。
とはいえ、本人がようやく行く気になったところで水を差すのもよくない。
芳江は朝から荷物を確認し、予定していた新幹線に間に合うよう夫を玄関まで送り出した。
そこで信夫が止まった。
「……俺の靴、どこだ?」
「靴?」
「いつもの靴だよ。ないぞ」
芳江も玄関を見た。
確かにない。
「昨日、自分で脱いだんでしょう?」
「だから、ここにあるはずだろ」
「私に言われても知りませんよ」
二人で靴箱を探した。
ない。
玄関の隅も、廊下も、物置も見た。
ない。
「もう、ほかの靴じゃ駄目なんですか?」
「駄目だ」
「ほかにもあるでしょう?」
「俺はあの靴じゃないと駄目なんだ」
信夫は妙なところで頑固だった。
「そんなこと言ってたら、新幹線に間に合いませんよ」
「新幹線なら次がある」
「指定席取ってたんですよね?」
「指定席より、俺の足の指定席の方が大事だ」
「……何ですか、それ」
「あの靴が一番しっくりくるってことだ」
「だったら最初からそう言ってください」
信夫は構わず靴を探し続けた。
だんだん苛立ってきたらしい。
「お前、どっかに片づけたんじゃないのか?」
「あなたの靴を勝手に片づけませんよ」
「じゃあ、どこ行ったんだ」
「靴に聞いてください」
そのうち芳江は時計を見た。
「あの、新幹線……」
「ん?」
「もう間に合いませんよ」
信夫も時計を見る。
そして、しばらく黙った。
「……まあいい」
「よくないでしょう」
「指定席じゃなくても新幹線には乗れる」
「せっかく取ったのに」
「電車なんか、まだいくらでもある」
そういう問題なのだろうか。
さらに二十分ほど探したところで、信夫が突然「あ」と声を上げた。
「何ですか」
「昨日、勝手口から入った」
「勝手口?」
芳江が勝手口へ行くと、そこに靴がきちんと並んでいた。
「あるじゃないですか」
「お前が玄関閉めてるからだろ」
なぜか信夫が不満そうに言った。
「昨日、あなたが帰ってきたの夜中じゃないですか。私はもう寝てましたよ」
「だから何度も鳴らしただろ」
「何を?」
「チャイムだよ。何回押しても起きないから、仕方なく勝手口から入ったんだ」
「電話もしたぞ」と信夫は付け加えた。
「私、寝るときは携帯をマナーモードにしてますから。でも、ちゃんと家のチャイムを鳴らしてくれれば起きましたよ」
「鳴らした」
「本当に?」
「何回も押した」
妙に自信満々なので、芳江は玄関の外へ出た。
「どれ押したんです?」
「これだ」
信夫が指差した。
芳江はそのボタンを見た。
信夫を見た。
もう一度ボタンを見た。
「あなた」
「なんだ」
「これ、車庫のシャッターですよ」
「…………」
「チャイムはこっちです」
すぐ横にある別のボタンを芳江が指差す。
信夫は二つを見比べた。
「なんでこんな紛らわしいところに付いてるんだ」
「忘れたんですか?」
「何を」
「そこに付けようって言ったの、あなたですよ」
「…………」
また黙った。
本当に昔から変わらない。
忘れっぽいし、そそっかしいし、何かあるとすぐ人のせいにする。
こんな人を一人で遠くへ行かせていいのだろうか。
「まあ、靴は見つかった」
何事もなかったかのように信夫が言った。
「指定席はなくなりましたけどね」
「切符はある」
「時間の話です」
ようやく出かけるのかと思った、そのときだった。
ぐうう、と盛大な音がした。
信夫が腹を押さえた。
「腹減ったな」
「……行かないんですか?」
「飯食ってから行く」
「もうお昼作るんですか?」
「電車は夜まである。今日中に着けばいいんだ」
芳江は何か言おうとして、やめた。
結局、昼食を作った。
信夫はしっかり食べた。
食べ終わっても動かなかった。
「行かないんですか?」
「ちょっと待て」
信夫はスマートフォンで時刻表を見ていた。
「この次より、その次のやつの方が停まる駅が少ない」
「そうなんですか」
「乗り換えの時間まで考えると、そっちの方が楽だな。少し休める」
そう言って信夫は居間へ行った。
芳江は食器を片づけた。
洗濯物を取り込み、しばらくして居間へ戻った。
信夫はソファで寝ていた。
「あなた」
反応がない。
「あなた!」
「ん……?」
「まだ行かないんですか?」
信夫が時計を見た。
飛び起きた。
「やべえ!」
ようやく慌ただしく荷物を持ち、今度こそ家を出た。
芳江は玄関の扉が閉まるのを見届けた。
「やれやれ……」
これでようやく出発した。
そう思った。
一時間ほどして、玄関が開いた。
信夫が立っていた。
「どうしたんですか?」
「財布忘れた」
「…………」
芳江は時計を見た。
もう午後四時近い。
「これから行くんですか?」
「行く」
「財布、大丈夫なんですか?」
「今持った」
「本当に?」
「大丈夫だ」
信夫は財布をポケットに押し込み、荷物を持ち直した。
「じゃあ、今度こそ行ってくる」
玄関へ向かいかけて、また止まった。
「……メモは?」
「何のメモです?」
「乗り換えとか、向こうの駅とか書いた紙だよ」
「知りませんよ」
「テーブルに置いといたはずなんだけどな」
二人でダイニングを探した。
ない。
新聞の下も、棚の上も、信夫の鞄の中も確認した。
「これじゃないんですか?」
「違う。それは病院の予約票だ」
「じゃあ、こっちは?」
「電気代」
「自分でまとめておけばいいのに」
「ちゃんと置いてあったんだ」
「どこに?」
「それが分かれば探してない」
もっともだった。
いや、もっともではない気もした。
探し始めてから一時間近く経ったころ、家の電話が鳴った。
芳江が出る。
親戚からだった。
『今日、来るんだよね?』
「ええ。その予定なんですけど……」
『もうこっちに向かってるのか? 今どの辺だ?』
芳江は振り返った。
信夫はまだダイニングの引き出しを開けていた。
「まだ家にいます」
『まだ?』
「ちょっと、探し物をしてまして」
『だったら、こっちから駅まで迎えに行こうか? 何時ごろ着く?』
「ちょっと待ってくださいね」
芳江は受話器を押さえた。
「あなた。どうするんですか? 何時ごろ着くのかって。駅まで迎えに行こうかって言ってますよ」
信夫が立ち上がった。
「今からなら……」
そう言いながら窓の外を見る。
ぽつ。
ぽつ。
庭の石に、小さな雨粒が落ち始めた。
信夫は黙って外を見た。
雨粒は少しずつ増えていく。
「……明日行くって言っといてくれ」
「え?」
「今日はもういい」
「雨、まだこれくらいですよ」
「これから降るだろ」
「駅、歩いてすぐじゃないですか」
「今日は日が悪い」
信夫はそう言うと、せっかく持った荷物を床へ置いた。
芳江は何か言いかけた。
今日使わなければ、新幹線のきっぷも無駄になる。
朝には指定席を一つ無駄にしている。それでも今日のうちなら、まだ新幹線には乗れた。
それくらい、信夫だって分かっているはずだった。
けれど、それを言ったところで考えを変えるとも思えない。
口にしたところで、その言葉まで無駄になるだけだ。
芳江は何も言わず、受話器を握り直した。
朝から靴を探し。
新幹線の指定席を逃し。
昼飯を食べ。
昼寝をし。
財布を忘れて一度戻り。
今度はメモを探して一時間。
最後は雨だった。
「……すみません。今日はもう無理みたいです」
『そうなの?』
「はい。明日は必ず行かせますから」
電話を切る。
居間へ向かう信夫の背中に、芳江は言った。
「今日は日が悪かったんでしたっけ?」
「そうだ」
「朝は晴れてましたけど」
信夫は振り返らなかった。
「朝からずっと日が悪かったんだ」
芳江は深くため息をついた。
本当に、明日は行けるのだろうか。
昨日までより、その心配が少しだけ大きくなっていた。




