第9話 豚骨の湯気と埋もれた地図
1999年4月17日、土曜日。
春の柔らかな陽気がアスファルトを温める昼下がり。
俺は、自分の立場からすれば、いささか不釣り合いな空間にいた。
都内、環状7号線沿い。排気ガスと、それ以上に強烈な豚骨の匂いが漂う、ラーメン激戦区の一角だ。
目の前には、長年の油で黒光りする暖簾がかかった、年季の入った店舗がある。行列に並ぶ客層は、トラック運転手やガテン系の労働者、そして部活帰りの空腹を抱えた男子学生たちだ。全身をアルマーニのカジュアルラインで固めた俺の姿は、この風景においてどう見ても異質だった。
「へっ、ビビってんのか西園寺。ここの『背脂チャッチャ系』は世界一だぞ」
隣でニヤニヤと楽しそうに笑うのは、隼人だ。金髪にスカジャン、ダメージジーンズというコテコテの不良スタイルが、この埃っぽい風景には妙に馴染んでいる。
先日、球技大会の試合で絶妙なパス交換をした後、「美味いラーメン屋を教える」という約束を果たすために連れ出されたのだ。
「ビビってなどいない。ただ、店内の清掃状況と衛生基準が気になっているだけだ」
「うっせーな。床がヌルヌルしてんのが美味い店の証拠なんだよ。……ほら、次俺らだぞ」
隼人に促され、カウンター席に座る。椅子まで油で滑りそうだった。
注文したのは「特製チャーシュー麺、脂多め、味濃いめ、麺固め」。隼人が推奨する「早死に三段活用」のフルコースだ。やがて運ばれてきた丼は、雪のように降り積もった真っ白な背脂でスープの表面が完全に見えなくなっていた。
「……いただきます」
覚悟を決め、割り箸を割る。太麺を持ち上げると、濃厚な醤油と豚骨の香りが暴力的な湯気となって立ち上った。
一口、すする。
ガツン、と脳髄を揺さぶるような強烈な塩気と、背脂の暴力的なまでの甘味が口の中で弾ける。小麦の風味をしっかりと感じさせる中太麺が、どろりとしたスープによく絡む。洗練されたフレンチや、実家で供される繊細な懐石料理とは対極にある、本能を直接刺激するような原始的な快楽だ。
「……どうだ?」
隼人がレンゲを止め、不安そうにこちらの反応を窺ってきた。
俺はナプキンで口元を拭い、頷いた。
「……悪くない。いや、かなり美味いな。体がこのエネルギーを求めているのが分かる」
「だろ!? 俺が発掘した店にハズレはねぇんだよ!」
隼人は我が事のように喜び、豪快に自分の丼にかぶりついた。ズルズルと音を立てて麺をすする。俺もまた、彼に倣って麺を口に運んだ。
健康管理のためにこうしたジャンクフードは意識的に避けてきた。だが、たまにはいいだろう。若く燃焼効率の高い胃袋は、この程度の脂など瞬時に熱量に変えてしまうのだから。
「あー、食った食った! ……で、西園寺。お前、昨日のチョーク避け凄かったな」
店を出て、道路脇で缶コーヒーを片手にたむろする。
隼人が、公民の授業での出来事を持ち出した。
「あれ、絶対に見えてただろ。真田のオッサン、マジでビビってたぜ」
「偶然だよ。たまたま首が凝って動かしただけだ」
「嘘つけ。あんなピンポイントで首傾げる奴がいるかよ。……ま、俺のデコに当たったのは許してねぇけどな」
隼人は赤みが引いた額をさすりながら、ニカッと笑った。その笑顔には、裏表のない純粋な親愛が滲んでいる。
かつて理不尽な指導で陸上の夢を絶たれた過去を持ち、今また鷹森という歪んだ教師に目をつけられている彼だが、その根底にある魂の明るさまでは奪われていないようだ。
俺はコーヒーを飲み干し、空き缶をゴミ箱へ投げ入れた。
「城戸。……もし、本当に困ったことがあったらすぐに言え。力になる」
「あ? なんだよ急に。金なら貸さねぇぞ?」
「金の話じゃない。……まあいい。覚えておいてくれ」
鷹森の件は、舞が調査を完遂しつつある。証拠が揃えば、奴を社会的に排除する準備は整う。だが、それは俺が裏で処理すべき案件だ。隼人にはまだ、余計な心配をかけたくない。
「変な奴。……ま、サンキュな。次はゲーセン行こうぜ! 格ゲーで借りを返してやる!」
「ああ。またボコボコにしてやるよ。練習しておくことだ」
「うっせ! 次は絶対勝つ!」
他愛のない会話を交わし、駅前で別れる。
男同士の付き合いというのは、これくらい淡白で温度のない関係の方が、今の俺には心地よい。
★★★★★★★★★★★
隼人と別れた後、俺は駅前の大型書店に立ち寄った。
舞への指示出しをより正確にするため、最新の不動産関連の専門書を探すためだ。専門書コーナーで背表紙を眺めていると、視界の端に見覚えのある女性の姿が入った。
涼さんだ。
教育学のコーナーで、専門書のページを真剣な表情でめくっている。今日の彼女は、大学の講義帰りなのか、ラフな服装だった。オーバーサイズの白いシャツの袖を無造作に捲り上げ、少し色落ちしたデニムを合わせている。瑞々しい透明感を持つ中性的な美少女。
化粧っ気のない素肌は白磁のように透き通り、長い睫毛が伏せられた瞳に影を落としている。凛とした佇まいは、騒がしい書店の中でそこだけ静寂が支配しているかのようだった。
「……涼さん」
俺が声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、振り返った。
「……! あ、玲央?」
彼女は俺を認めると、驚いたように目を丸くし、次いでふわりと柔らかく微笑んだ。
元不良とは思えない、無防備で少女のようなあどけなさがある笑顔だ。
「奇遇ですね。勉強ですか?」
「ん、まあね。……大学のレポートで、教育心理学の本を探してて。……そっちは? 漫画でも買いに来たの?」
「いえ、都市開発と不動産登記法の専門書を数冊ほど」
「……ホント、可愛くないガキ」
涼さんは呆れたように苦笑した。彼女の手には、分厚いハードカバーの専門書が数冊抱えられている。
「重そうですね。持ちましょう」
「いいって。これくらい、昔の喧嘩に比べりゃ軽いもんよ」
「レディに重荷を持たせるのは、俺の流儀に反します。貸してください」
俺は強引に彼女の手から本を受け取った。ずしりと重い。発達心理学や教育社会学といった専門性の高い書籍ばかりだ。教師を目指す彼女の、真摯な努力の重みだった。
「……ありがと。相変わらずキザなんだから、ボンは」
「ボン?」
「ボンボンだからボン。……嫌だった?」
「いえ。涼さんになら、どう呼ばれても光栄ですよ」
俺たちは並んでレジへ向かった。彼女の歩幅は俺より少し小さいが、その背筋はピンと伸びていて美しい。先日、路地裏で震えていた姿とは別人のような芯の強さを感じさせる。
「……あの時は、ありがとな。助けてくれて」
会計を済ませ、店を出たところで彼女がぽつりと言った。
「礼には及びません。姉の友人が困っているのを見過ごすわけにはいきませんから」
「それでも、だよ。……アタシ、意地張って損するとこだった。あんたのおかげで、まだ夢を追いかけられる。……教師になる夢をさ」
彼女は眩しそうに目を細め、オレンジ色に染まり始めた春の空を見上げた。かつて道を外れかけた少女が、今は教師という「光を教える側」になろうとしている。その尊さを、俺は知っている。
「涼さんなら、きっと素晴らしい教師になれますよ。……生徒が羨ましいですね」
「何言ってんだか。……あ、そうだ。これ、お礼」
彼女はポケットから、包み紙に入った何かを取り出し、俺に投げ渡した。反射的に片手で受け取る。ミント味のガムだった。
「高いお礼はできないけど、今の精一杯。……またな、玲央」
彼女は照れくさそうに手を振り、颯爽と歩き出した。その背中を見送りながら、俺はガムを一枚口に放り込んだ。清涼感が口いっぱいに広がる。甘酸っぱく、スパイシーな味がした。
★★★★★★★★★★★
帰宅後。
俺は自室の広大なワークスペースに籠もっていた。
デスクの上は資料で埋もれていた。都内の詳細な地図、不動産物件の図面、登記簿のコピー、そして各自治体の都市開発計画書の束だ。
「……さて、整理するか」
シャツの袖を捲り、情報の整理に取り掛かる。
舞に貸金庫へ保管させた4,000万円分の金地金。手元に現物はないが、あれは未来の暴落相場における確実な防波堤として機能する。今はそれを忘れ、目の前の攻めの投資に集中する段階だ。
俺は広げた地図の二箇所に、赤いペンで印をつけた。
『港区』と『渋谷区』。
バブル崩壊以降、地価は下落し続けてきたが、都心の一等地に関しては底打ちの兆しが見え始めている。特に、これから再開発が急ピッチで進む六本木エリアや、IT企業が集積し始めた渋谷周辺の「ファミリータイプマンション」は絶好の投資対象だ。
単身者向けのワンルームではなく、あえて広めのファミリータイプを狙う。現在、多くのデベロッパーは都心部でのファミリー向け物件の開発に及び腰だ。地価の高さと採算性の悪さがネックとなっているからだ。しかし、職住近接を求め、通勤のストレスを嫌う富裕層のパワーカップルやニューファミリー層の需要は、水面下で確実に膨張し始めている。彼らは質の高い住環境であれば、郊外の一戸建てに匹敵する、あるいはそれ以上の家賃を支払うことを厭わない。現在はまだ供給が決定的に不足している、絶対的なブルーオーシャンなのだ。
割安で放置されている中古物件を買い叩き、リノベーションして賃貸に回す。あるいは、更地にして開発業者に転売する。
電卓を叩き、投資利益率を算出する。利回りは表面で10%を超えそうだ。現在の俺の個人資産をレバレッジを効かせて運用すれば、ポートフォリオは巨大に膨れ上がる。だが、焦る必要はない。まずは手堅く、優良物件を確実に押さえる。
俺は舞に送るためのメールを作成した。
件名は『新規取得候補物件リスト』。添付ファイルには、厳選した5つの物件データを付けた。
送信ボタンを押す。
窓の外には、無数の光が瞬く東京の夜景が広がっている。その光の一つ一つに、人々の生活があり、欲望があり、そして膨大な金が動いている。その奔流の中で、俺は確かに未来への舵を握り締めていた。
階下のリビングから、賑やかな声が聞こえてきた。
そういえば、今日は母と姉が遊びに来ていたんだった。俺のペントハウスを第二の別荘か何かと勘違いしている節があるが、定期的に顔を見せに来るその気遣いは嫌いではない。
「玲央ー! いつまで仕事してるのよ! デザートのアイス、溶けちゃうわよ!」
姉の、相変わらず締まりのない声が階段を上がってくる。どうやら、買い込んできた高級アイスクリームの食べ頃が近づいているらしい。
休日の家族団らんも、俺に課せられた大切な義務の一つだ。
俺は苦笑しながらパソコンの電源を落とし、リビングへと向かった。




