第10話 底値の楼閣と心理学者の迷宮
週明けの東京は、小雨が降る肌寒い朝を迎えていた。窓ガラスを伝う滴が、ぼやけた街の灯りを無数に乱反射させている。
登校中のハイヤーの中、俺は昨夜自ら厳選し、舞に送信しておいた『新規取得候補物件リスト』の最終確認を行っていた。膝の上には、舞が早朝から法務局のデータと照合し、権利関係の瑕疵がないかを裏付けた詳細なレポートが置かれている。
「……見事な仕事だ、舞。懸念材料は一つもない」
分厚い資料を閉じ、俺は満足げに息を吐いた。
バブル崩壊後の底値圏にある都心の優良物件。これをレバレッジを効かせて押さえ、最新の設備でリノベーションを施して富裕層向けに貸し出す。昨夜俺の頭の中で描いた青写真が、舞という有能な執行者の手によって、いよいよ現実のビジネスとして動き出す。
「舞。この5物件、予定通りすべて買い付け証明を出しておけ。指値はせず、満額回答で構わない」
「承知いたしました。当社の資産背景を提示すれば、銀行も喜んで融資を実行するでしょう。手続きはこちらで迅速に進めておきます」
運転席の舞が、バックミラー越しに力強く頷く。彼女の淡々とした、しかし完璧な手際への信頼は揺るぎない。
俺はブレザーのポケットから携帯電話を取り出した。2月にサービスが開始されたばかりの『iモード』対応端末。まだモノクロの小さな画面に、ニュースサイトのテキストデータを呼び出す。通信速度は驚くほど遅く、画像一枚表示するのにも数秒の時間がかかるが、この小さな箱が人々の生活様式を根本から塗り替える予兆は、すでに始まっている。
不動産という「物理的な土地」と、インターネットという「仮想の土地」。
その両方を制する者だけが、次の時代の絶対的な覇者となるのだ。
学園に到着し、1年A組の教室に入ると、月曜の朝独特の気だるい空気が漂っていた。週末の余韻を引きずる生徒たちの間で、ひときわ不協和音を奏でる聞き慣れた声が耳に入ってきた。
「なぁマナ! 今度の日曜、みんなでボウリング行かね? クラスの女子も何人か来るって話だぜ!」
日向翔太だ。彼は前の席に座るマナの机に身を乗り出し、無神経なほどのハイテンションで捲したてている。マナは開いたままの教科書に視線を落とし、困ったように眉を下げていた。
「……ごめん翔太。日曜はお店の手伝いがあるから、行けないよ」
「えー? いいじゃんサボれば。おじさんに俺から言っとくし! 幼馴染の頼みだってさ」
「ダメだってば。最近忙しいし、新しいメニューも考えなきゃいけないの。遊びじゃないんだから」
「真面目だなぁ。そんなの適当でいいだろ? 息抜きも必要だって!」
翔太は、おそらく本気で「良かれと思って」言っているのだろう。自分と一緒に過ごせば彼女が喜ぶと信じて疑わない、純粋で残酷な善意。
だが、その言葉には、マナが背負っている責任や、彼女が大切にしている実家の洋食屋という「居場所」への敬意が決定的に欠けている。自分の価値観だけで相手を救おうとする行為は、時に明確な暴力となる。
「……本当に無理なの。ごめんね」
マナの声色が、わずかに硬くなった。明確な拒絶のサインだ。だが、翔太はそれに気づかず、「ちぇっ、付き合い悪いなぁ」と不満げに口を尖らせ、ようやく自分の席へと戻っていった。
先日の放課後、日直の仕事を通じて彼女と対話したことで、マナの中の自立心は確実に芽生えつつある。翔太の子供じみたアプローチは、もはや彼女の心に響かないどころか、積み重なる疲労の原因にしかなっていないようだ。
俺は自分の席につき、鞄を置きながらその光景を静かに観察するだけにとどめた。果実は熟して落ちるのを待てばいい。無理に枝を揺らして傷をつける必要はないのだ。
昼休み。俺は図書室を訪れた。
蔵書ラインナップが意外と充実していることを知り、最近はここが俺の隠れ家になりつつある。経済史の棚から大蔵省に関するノンフィクションを抜き取り、貸出カウンターへ向かおうとした時、窓際の閲覧スペースで一人の女子生徒と目が合った。
霧島先輩だ。
窓から差し込む雨上がりの薄日が、彼女の艶やかな黒髪と彫りの深い美貌を鋭く際立たせている。彼女は分厚い洋書を読んでいたが、俺の気配に気づくとスッと目を細めた。
「……奇遇ね、成金くん。貴方も本なんて読むの? お札の枚数以外に興味があるなんて意外だわ」
挨拶代わりの皮肉。だが、以前のような刺すような敵意は、わずかに鳴りを潜めているように感じた。
「ええ。知識は荷物になりませんから。……今日は結衣先輩とはご一緒ではないのですね」
「結衣なら委員会よ。……それより、貴方」
霧島先輩は読んでいた本を静かに閉じ、俺を正面から見据えた。
「結衣が、貴方のことを『階段の王子様』だなんて騒いでいるわ。……あまり調子に乗らないことね。あの子は純粋すぎて、毒と薬の区別がつかないだけよ」
「肝に銘じておきます。ですが、俺が毒かどうかは、先輩ご自身の目で判断されてはいかがですか」
「言われなくてもそうするわ。……私の目の届く範囲で、あの子を傷つけるような真似をしたら、絶対に許さないから」
彼女の言葉には、自分自身が追い詰められた状況にありながらも、唯一の親友を守ろうとする高潔な意志が宿っていた。
俺は僅かに口元を緩め、一礼した。
「ご忠告、感謝します。……では、失礼します」
俺が立ち去ろうと背を向けた、その瞬間だった。
「……あの時のこと、礼は言っておくわ。……ありがとう」
背後から聞こえたのは、周囲の静寂に溶けて消え入りそうな小さな声。振り返ると、彼女はすでに視線を本のページに戻していたが、白い耳朶が微かに赤らんでいるのが見えた。プライドと誠実さの板挟みから来る、不器用な感謝。その青い未熟さは、俺の目には好ましく映った。
放課後。俺はハイヤーを飛ばし、都内の某有名私立大学のキャンパスへと向かった。
目的は、大学図書館の地下書庫に眠る経営学の希少資料を閲覧することだ。高校生には貸出はおろか入館権限もないため、紹介状を携えての閲覧申請という煩雑な手続きが必要になる。
アカデミックな静謐さが漂うキャンパスの並木道を歩いていると、広場のベンチで足を組み、気だるげにペーパーバックを読んでいる女性がいた。
柚木沙耶だ。
今日の彼女は、モノトーンのモード系ファッションに身を包み、女子大生というよりは若き女性教授のような知的な色気を放っていた。
「……おや。迷子の高校生かしら?」
俺が近づく前に、彼女は顔を上げずに言った。足音か、あるいは気配だけで察知する鋭さは、やはり心理学を修めているゆえか。
「こんにちは、柚木さん。迷子ではありません。資料を探しに来たんです」
「ふうん。相変わらず勉強熱心なオーナーさんね。……でも、ここは私のフィールドよ。案内してあげましょうか?」
彼女はパタンと本を閉じ、悪戯っぽく微笑んだ。
俺たちは並んで図書館へと向かった。道中、彼女はすれ違う男子学生たちの視線を一身に集めていたが、本人は全く意に介していない様子だった。
「ねえ、西園寺くん。せっかくだから心理テストしてみない?」
図書館の閲覧席に着くと、沙耶が小声で提案してきた。俺の深層心理を暴こうという、彼女なりの遊びだろう。
「どうぞ。お手柔らかに」
「じゃあね……。貴方は暗い森の中にいます。目の前に道が二つ。一つは整備された広い道、もう一つは獣道。どっちを選ぶ?」
「……目的地によりますね。最短距離なら獣道を選びますが、リスクとリターンを計算して、整備された道を走った方がトータルでの効率が良い場合もあります。状況次第です」
「……うわ、可愛くない答え」
沙耶は呆れたように眉をひそめた。
「普通は『冒険したいから獣道』とか『怖いから広い道』とか、感情で選ぶものよ。……貴方、思考回路がおじいちゃんみたいね」
「合理的と言ってください。経営者には必要な資質です」
「はいはい。……じゃあ次。道の先に家がありました。どんな家?」
「資産価値の高そうな、メンテナンスが行き届いた邸宅ですね。将来の売却益を考慮すると、立地条件も重要です」
「もういい! つまんない!」
沙耶は拗ねたように頬を膨らませた。
彼女の鋭利な分析をもってしても、中身41歳の俺の思考は完全に規格外だったらしい。
資料の精読を終えると、日はすでに傾きかけていた。
「心理テストに付き合わせた借りを返して」という彼女の理不尽な要求により、俺たちは大学近くのプールバーに来ていた。地下にある薄暗い店内に、タバコの煙とチョークの粉っぽい匂いが漂う。
「私、結構自信あるのよ。負けたらジュース奢りね」
沙耶はキューを構え、ブレイクショットを放った。鮮やかな手際で的球が散らばる。なかなかの腕前だ。
だが、俺も負けるつもりはない。
「……では、いただきます」
物理演算と空間把握。俺は頭の中で計算した通りの軌道を描き、的球を次々とポケットに沈めていく。次の球を狙える絶好の位置に手球を残す「ポジション・プレー」。正確なショットを繰り返す俺に、グラスを傾けていた沙耶の目が次第に真剣なものへと変わっていった。
「……嘘でしょ。なんでそんなに迷いがないの?」
「ただの物理的な出力ですよ。力学の理屈さえ合っていれば、結果は自ずとついてくる」
「また理屈っぽい……。でも、悔しいけど綺麗ね、あんたのプレイ」
彼女は俺の横顔をじっと見つめ、そう呟いた。その瞳には、単なる分析対象として以上の、熱っぽい光が混じり始めていた。
帰り道、駅前の花屋に立ち寄り、純白のカラーを数本購入した。
無機質なペントハウスに、少しばかりの彩りと生命の息吹が欲しかった。
帰宅後、俺はジャケットを脱ぎ、書斎のデスクで1000ピースのモノクローム写真のパズルを広げた。無心になってピースの形状と色合いだけを追いかけ、空間を埋めていく作業は、脳内のノイズを除去する瞑想に似ている。
静寂の中、モデムが発する「ピーヒョロロ」という独特のダイヤルアップ接続音が響く。懐かしくも歯がゆい、1999年の音だ。
パズルが完成に近づいた頃、ふと思いついてクローゼットの奥にあった未開封の段ボールを開けてみた。引っ越しの際、実家から持ってきた整理途中の荷物だ。
中には古い経済誌や四季報に混じって、一冊の古びたスケッチブックが入っていた。
見覚えのない表紙。ページをめくると、色褪せたクレヨンの拙いタッチで描かれた絵が現れた。幼い頃の俺と祖父、そして泣き虫だった頃の姉さん。
さらにページを進めると、一枚の絵に目が止まった。
ショートカットで、泣きそうな顔をして、それでも懸命に笑おうとしている少女の肖像。
「……これは」
記憶の底にある情景が、突然のフラッシュバックとなって脳裏を掠めた。
この少女、どこかで。
俺はスケッチブックを閉じ、深く息を吐いた。
窓の外、夜の東京タワーが小雨に煙っていた。




