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40代IT社長の俺がギャルゲーの悪役に転生したけど、主人公が頼りないので「大人の包容力」と「経済力」でヒロイン全員幸せにします  作者: 伊達ジン


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第10話 底値の楼閣と心理学者の迷宮

 1999年4月19日、月曜日。

 週明けの東京は、週末の晴天を裏切るような冷たい小雨が降りしきる、ひどく肌寒い朝を迎えていた。


 グレーの雲に分厚く覆われた空の下、雨に濡れたアスファルトがハイヤーのタイヤによって規則的な水しぶきの音を立てている。通りを行き交う人々は皆、色とりどりの傘を差して俯き加減で足早に歩を進めていた。ワイパーが一定のリズムでフロントガラスの雨粒を拭い去っていく中、俺は後部座席で、舞が用意した不動産物件の最新リストに目を通していた。


 バブル崩壊から約10年。日本の地価は下落の一途を辿り、今や「底の底」と言える水準にある。特に都心部のマンション価格は、先の相場を知る俺からすれば異常なほど割安だ。

 リストの筆頭にあるのは、港区南麻布の閑静な住宅街に佇む低層レジデンス。100平米を超える3LDKのファミリータイプが、なんと4,000万円台で売りに出されている。数十年後の感覚で言えば、優に1億5,000万円から2億円は下らないクラスの優良物件だ。それが今、この日本では、平均的なサラリーマンの生涯年収よりも安い価格で市場に放置されている。


「狂っているな。いや、正常化への過渡期か」


 俺は赤の万年筆を取り出し、購入候補の物件の隅に小さな印をつけた。

 手元資金は十分に潤沢だが、ここはあえて全額キャッシュでは買わない。歴史的な低金利時代を逆手に取り、銀行から多額の融資を引き出し、レバレッジを効かせて複数の物件を同時に押さえるのが定石だ。

 南麻布、広尾、そして再開発が決定している代官山周辺。これらを現代的なデザインにリノベーションし、外資系企業の駐在員や富裕層向けに賃貸に出せば、インカムゲインだけで莫大な利益を生む。そして将来的なキャピタルゲインは約束されているも同然だ。


「舞。印をつけた3物件、すぐに買い付け証明を出しておいてくれ。満額回答で構わない」

「承知いたしました。銀行との融資交渉も、オーナーの現在の信用力であれば即決でしょう」


 運転席の舞が、バックミラー越しに力強く頷く。彼女の圧倒的な事務処理能力があれば、今週中には契約まで漕ぎ着けるだろう。

 俺は、2月にサービスが開始されたばかりの『iモード』対応端末を取り出し、ニュースサイトのテキストデータをスクロールした。通信速度は苛立つほど遅く、画面も粗いモノクロだ。だが、この小さな箱が世界を一変させる予兆は、水面下ですでに始まっている。

 不動産という「物理的な土地」と、インターネットという「仮想の土地」。

 その両方を圧倒的な資金力で制する者が、次の時代の覇権を握る。


★★★★★★★★★★★


 学園に到着し、1年A組の教室に入る。

 月曜の朝独特の、少し湿った気だるい空気が漂う中、前方から聞き慣れた声が響いてきた。


「なぁマナ! 今度の日曜、みんなでボウリング行かね? C組の女子も何人か来るって言ってたぜ!」


 翔太だ。

 彼は前の席に座る桜木さんの机に身を乗り出し、無邪気なハイテンションで話しかけていた。桜木さんは開いた教科書から視線を外さず、困惑して眉を下げている。


「ごめん、翔太。日曜はお店の手伝いがあるから」

「えー? いいじゃんサボれば。おじさんには俺から上手く言っとくしさ!」

「ダメだってば。最近忙しいし、お父さんと新しいランチメニューも考えなきゃいけないの」

「真面目だなぁ。そんなの適当でいいだろ? 息抜きも必要だって! 一緒に行こうぜ!」


 翔太は「良かれと思って」言っているのだろう。幼馴染を外に連れ出し、楽しませてあげたいという彼なりの善意だ。

 だが、その善意には彼女の事情や、実家の店への敬意が決定的に欠如している。自分の価値観だけで相手の時間を消費しようとする行為は、時に傲慢な暴力へと変わる。


「本当に無理なの。ごめんね」


 桜木さんの声色が、わずかに硬くなった。妥協のない、明確な拒絶のサイン。

 だが、翔太はそれに気づく様子もなく、「ちぇっ、付き合い悪いなぁ」と不満げに口を尖らせている。

 先日の雨の日の放課後を経て、彼女の中の自立心は着実に芽生えつつある。翔太の子供っぽいアプローチは、もはや彼女の心には響かないどころか、ただのノイズにしかなっていない。

 俺は席につき、その様子を観察するだけにとどめた。今は静観するに限る。


★★★★★★★★★★★


 昼休み。俺は降り続く雨を避けて図書室を訪れた。特有の古い紙とインクの匂いが漂う室内には、静寂を求める数人の生徒が散見される。

 経済史の棚から、大蔵省に関するノンフィクションと、行動経済学の専門書を抜き取る。貸出カウンターへ向かう途中、薄暗い閲覧スペースの窓際で、一人の女子生徒と目が合った。

 霧島先輩だ。

 エキゾチックで彫りの深い美貌。窓から差し込む雨上がりの淡い陽光が、彼女の艶やかな黒髪と、意思の強そうな瞳の輪郭を際立たせている。彼女は分厚い洋書を読んでいたが、俺に気づくとスッと目を細めた。


「奇遇ね、成金くん。貴方のような人が本なんて読むの?」


 挨拶代わりの皮肉。

 だが、入学当初のような刺々しい敵意は、いくらか和らいでいるように感じる。親友である結衣先輩の窮地を俺が救った一件が、確実に影響しているのだろう。


「ええ。知識は重荷になりませんから。先輩こそ、今日は結衣先輩と一緒ではないのですか?」

「結衣なら委員会よ。それより、貴方」


 霧島先輩は本を閉じ、俺を正面から見据えた。すらりとした、隙のない立ち姿。


「結衣が、貴方のことを『王子様』だなんて騒いでいるわ。調子に乗らないことね。あの子は純粋すぎて、毒と薬の区別がついていないだけよ」

「肝に銘じておきます。ですが、俺が毒かどうかは、先輩ご自身の目で判断されてはいかがですか?」

「言われなくてもそうするわ。私の目の届く範囲で、あの子を傷つけるような真似をしたら、ただでは済まさないから」


 彼女の言葉には、親友を慈しむ揺るぎない意志が宿っていた。自らの家が危機的状況にありながらも、他者を気遣うことを忘れない。彼女の気高さが窺えた。


「ご忠告、感謝します。では、失礼します」


 俺が背を向けた直後、背後から消え入りそうな声が聞こえた。


「あの時のこと、礼は言っておくわ。……ありがとう」


 振り返ると、彼女はすでに視線を本に戻していた。だが、黒髪から覗く白い耳朶が微かに赤く染まっているのが見えた。

 プライドと誠実さの板挟みから来る、不器用な感謝の言葉。その不器用な態度は、どこか人間らしかった。


★★★★★★★★★★★


 放課後。

 俺は舞に迎えさせ、都内の有名私立大学のキャンパスに足を踏み入れた。目的は、大学図書館にある経営学の希少な資料を閲覧することだ。高校生には貸出権限がないため、あらかじめ用意した紹介状を持参して閲覧申請をする必要がある。

 レンガ造りの歴史ある校舎と、雨に濡れて青々と輝く銀杏並木。アカデミックな空気が漂うキャンパスを歩いていると、中庭のベンチで足を組み、気だるげに読書をしている女性が目に留まった。


 沙耶さんだ。

 今日はモノトーンのモード系ファッションに身を包んでいる。シャギーの入ったショートボブと、口元にあるホクロ。周囲の大学生たちが放つ若々しい活気の中で、彼女一人だけが独立したアンニュイな空気を纏っていた。


「おや。迷子の高校生かしら?」


 俺が近づく前に、彼女は視線を上げずに言った。足音か、あるいは気配で分かったのだろう。


「こんにちは、沙耶さん。迷子ではありません。少し資料探しに来たんです」

「ふうん。勉強熱心なオーナーさんね。でも、ここは私のフィールドよ。案内してあげましょうか?」


 彼女はパタンと本を閉じ、悪戯っぽく微笑んだ。その余裕のある態度は、年上の女性らしい魅力に溢れている。


「では、お言葉に甘えて」


 図書館の閲覧席に着くと、沙耶さんが小声で、しかし楽しげに提案してきた。


「ねえ、西園寺くん。せっかくだから、私の専門の心理テストをしてみない?」


 俺の深層心理を探り、大人ぶった殻を剥こうという魂胆か。


「どうぞ。お手柔らかに、沙耶さん」

「じゃあね。貴方は暗い森の中にいます。目の前に道が2つ。1つは整備された広い道、もう1つは険しい獣道。どっちを選ぶ?」

「目的地によりますね。最短距離なら獣道を選びますが、リスクとリターン、移動効率を計算して、整備された道の方が最終的に早く着くなら、広い道を選びます」

「うわ、可愛くない答え」


 沙耶さんは呆れたように眉をひそめた。


「普通は『冒険したいから獣道』とか『怖いから広い道』とか、感情で選ぶものよ。貴方、思考回路がおじいちゃんみたいね」

「ただの性格ですよ。少し慎重なだけです」

「はいはい。じゃあ次。道の先に家がありました。どんな家?」

「そうですね。広くて快適そうな、日当たりの良い家でしょうか」

「うわ、無難。模範回答すぎて逆につまんない」


 沙耶さんは拗ねたように頬を膨らませた。俺の思考は、彼女の分析の網をはぐらかすには十分だったようだ。


 資料の閲覧を終えた後、俺たちは大学近くのプールバーへと足を運んだ。

 薄暗い店内に、紫煙の匂いとチョークを塗る音、そしてキューが球を激しく弾く硬質な音が響き渡る。壁には古びたネオンサインが飾られ、大人の遊び場としての雰囲気を醸し出していた。


「私、ビリヤードは結構自信あるのよ。負けたらジュース奢りね」


 沙耶さんはキューを構え、美しいフォームで鮮やかなブレイクショットを放った。なかなかの腕前だ。手球のコントロールもしっかりしている。


「では、いただきます、沙耶さん」


 俺はテーブルの配置を俯瞰し、狙いを定めてキューを突き出した。手球は計算通りの軌道を描き、的球をポケットに沈めると、次のボールを狙える絶好のポジションに静止した。

 連続してポケットを埋めていく俺のプレイに、沙耶さんの瞳が次第に真剣みを帯びていく。


「嘘でしょ。なんでそんなに上手いのよ」

「少し慣れているだけですよ。昔、遊びで齧ったことがあるんです」

「謙遜しちゃって。でも、悔しいけど綺麗ね。貴方のプレイ」


 彼女は俺の横顔をじっと見つめ、低く呟いた。その瞳には、分析対象として以上の、微かな熱が混じり始めていた。


★★★★★★★★★★★


 帰宅後。

 俺は雨に濡れたジャケットを脱ぎ、広々としたリビングで一人、コーヒーを淹れた。最高級の『ブルーマウンテンNo.1』の芳醇で豊かな香りが部屋いっぱいに広がる。

 誰もいない部屋で、テーブルに広げたパズルを少しずつ埋めていく。1000ピースのモノクロームの風景。脳内の余計な雑音を消し去るための、俺なりの瞑想だ。

 ISDN回線のモデムが発する独特な接続音が、空間に響き渡る。ADSLすら普及する前の、懐かしくもどかしいインターネットの音。


 窓の外では、まだ冷たい雨が降り続いている。

 雨粒がガラスを叩く不規則なリズムと、モデムの電子音が奇妙に調和し、ペントハウスの静寂をより一層際立たせていた。


 冷めかけたコーヒーを最後の一口まで飲み干し、俺はパズルの最後のピースを所定の位置へと落とし込んだ。

 カチリ、という微かな音が響く。

 完成したモノクロームの風景を眺めながら、俺は深く息を吐き出した。

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