第11話 銀盤の映画と鋼の重り
数日間続いた春の長雨がようやく上がり、東京の街には少し汗ばむほどの陽気が戻ってきた。たっぷりと水分を吸ったアスファルトが強い陽光に焼かれ、むせ返るような重苦しい熱気が学園の校舎を包み込んでいる。
5限目、世界史。
昼食後の満腹感と、窓から容赦なく差し込む暖かな光が、教室内に抗い難い睡魔を振りまく時間帯だ。使い古された天井の扇風機が緩慢に回り、微かな羽音を立てているが、生ぬるい空気をかき混ぜているに過ぎない。
教壇に立つのは、学年主任も務めるベテラン教師、小田切だ。白髪混じりの髪を神経質そうに撫でつけ、銀縁眼鏡の奥から、今にも机に突っ伏しそうな生徒たちを鋭く睨め回している。彼は一度教壇に立てば、指名した生徒が答えられないのを合図に、若者の学力低下や気概のなさについて延々と説教を始めることで有名だった。
「……では、ここだ。冷戦終結後の国際秩序について。1991年のソビエト連邦崩壊が、その後の地域紛争にどのような影響を与えたか。……おい、西園寺」
不意に名前を呼ばれた。俺は手元の洋書――1999年時点での地政学リスクについて記された専門書からゆっくりと顔を上げた。
一瞬にしてクラスの視線が俺の背中に集まる。これは単なる年号や人名を問う暗記問題ではない。歴史的背景と複雑な因果関係を論理的に整理し、自分の言葉で説明する必要がある。15歳の高校生には、いささか荷が重い問いだ。
俺は音を立てずに椅子を引き、静かに席を立った。
「はい。ソ連という巨大な重石が外れたことで生じた力の空白は、それまでイデオロギーによって抑え込まれていた民族的、宗教的な対立を急速に表面化させました。特に旧ユーゴスラビア地域での紛争激化や、カフカス地方におけるチェチェン紛争などは、超大国間の均衡が崩れたことによるパワーバランスの変動が直接的な要因です」
教室内から、どよめきにも似た吐息が漏れる。俺は黒板の横に掛けられた世界地図に視線をやりながら、構わず続けた。
「加えて、冷戦時代の遺物である核兵器の管理体制の弛緩、いわゆる核拡散の懸念や、急進的な市場経済への移行に伴うハイパーインフレ、経済的混乱も地域の不安定化に拍車をかけたと認識しています。これらは、単一の秩序から多極化へと向かう、痛みを伴う過渡期の象徴と言えるでしょう」
淀みなく、事実を客観的に述べる。教科書の内容をなぞるだけでなく、当時の報道の熱量と、後の歴史的評価を加味した回答だ。
小田切は眼鏡の位置を指先で直し、ほう、と感嘆の息を漏らした。説教の機会を完全に奪われた形だが、その表情には教育者としての純粋な驚きが混じっていた。
「……正解だ。いや、模範解答を遥かに凌駕している。西園寺、君は普段からどのような文献を読んでいるのかね?」
「広く浅く、興味の赴くままに。恐縮です」
俺は短く一礼して着席した。
周囲から「ガチかよ」「あいつの中身どうなってんだ」という囁きが漏れる中、左隣の席の隼人が、教科書の陰で親指を立て、音を立てずにニカッと笑った。俺は小さく肩を竦めてみせる。
41歳の知識量を持ってすれば、高校の授業は知的なゲームにすらならない。だが、学園という組織の中で効率よく立ち回るためには、教師からの「特権的な評価」は有用な武器になる。自由な時間を確保するための、これは必要経費のようなものだ。
放課後。
俺は隼人を伴って、渋谷の街へ繰り出していた。目指したのは、道玄坂の近くにある大型のスポーツ用品店だ。
目的は、自室でのトレーニング環境を整えること。
現在の俺の肉体は、健康体ではあるものの、いかんせん15歳相応に線が細い。これから本格化するビジネスでの激務、あるいは避けては通れない物理的なトラブル。それらに耐えうる、実用的な「戦える肉体」を再構築しておく必要があった。
「へぇ、ダンベルかよ。西園寺、お前って意外と脳筋系なんだな」
隼人が陳列棚に並んだ重厚な鉄の塊を持ち上げ、皮肉げに冷やかす。金髪にピアスの不良スタイルだが、ジャージ越しでも分かる彼の腕の筋肉は、しなやかで力強い。元陸上部のエースとしての貯金は、まだ彼の体の中に確かな芯として残っているようだった。
「健全な精神は健全な肉体に宿る、と言うだろう。……これと、調整可能なフラットベンチのセットも頼む」
「マジかよ。そんなの部屋に置けんのか? 普通の家なら床が抜けるぞ」
「問題ない。今の住まいは床荷重についても補強済みだ」
俺は店員を呼び、5キロから20キロまで調整可能な可変式ダンベルのセットと、業務用に近いスペックのフラットベンチ、さらに床を保護するための高密度なジョイントマットを注文した。
総重量はかなりのものになるため、自宅への配送を手配する。ついでに、海外製のプロテインとマルチビタミンのサプリメントもカートに入れた。
1999年当時、日本国内でのプロテインはまだ「不味くて溶けにくい粉」という認識が一般的だったが、アメリカ製の最新のものは、味も成分も実用レベルに達し始めている。
「西園寺、お前マジで何を目指してんだ? どっかの道場にでも殴り込みに行くのか?」
「ただの自己管理だ。資本家にとって、自らの健康こそが最大の資産だからな。……隼人、お前もどうだ。このあたりの軽量の重りで、衰えた足を鍛え直す気はないか?」
「……俺はいいよ。走るのは好きだけどな、こういう地味なのは性に合わねぇんだわ」
隼人は少しだけ寂しげに笑い、視線を逸らした。
その視線の先には、最新型のランニングシューズが並ぶコーナーがあった。中学時代、理不尽な指導によって致命的な怪我を負わされ、陸上の夢を断たれた彼。だが、その情熱の残り火は、まだ彼の瞳の奥で微かに揺らめいている。
俺はあえてそれ以上は何も言わず、会計を済ませた。
店を出た後、俺たちは近くの巨大なレンタルショップ『TSUTAYA』へと足を向けた。
青と黄色のネオンが、夕闇が迫る渋谷の街に鮮やかに浮かび上がっている。店内は、オリコンチャートの上位曲が大音量で流れ、週末の夜を楽しむ若者たちの熱気に満ちていた。
棚の大半をVHSビデオカセットが占拠する中、俺は新設されたばかりの、まだ小規模な「DVDコーナー」へと迷わず進んだ。
DVD。
直径12センチの銀盤。VHSに代わる次世代メディアとして鳴り物入りで登場したが、プレイヤーが高価なこともあり、世間ではまだ「一部のマニア向け」という扱いだ。だが、その圧倒的な解像度とデジタル音声、そして巻き戻し不要という利便性を知れば、アナログに戻ることは不可能になる。
「いらっしゃいませ。ただいま、DVD年間会員の特別キャンペーン中です」
カウンターで店員がマニュアル通りの説明を始める。
「入会金無料で、新作レンタルも半額になりますが、いかがなさいますか?」
「では、それでお願いします」
俺が迷わず財布を取り出すと、横で隼人が目を丸くした。
「おいおい、そんなの入るのかよ。たまに借りるくらいなら、普通の都度払いの方が安くねぇか?」
「損益分岐点は月に2本だ。それ以上観るなら、こちらのプランの方がトータルでのコストパフォーマンスは高くなる。……何より、返却時の手続きが簡略化されるのが最大の利点だ」
「計算はえーな、相変わらず……。で、その銀色の皿で何を観るんだ?」
俺が棚から抜き取ったのは、2枚のDVDケースだ。
1枚目は『アルマゲドン』。
エアロスミスの主題歌と共に、昨年の映画界を席巻したパニック超大作。
2枚目は『プライベート・ライアン』。
冒頭の上陸作戦における極限のリアリズム描写が話題を呼んだ戦争映画。
どちらも、DVDというデジタルメディアのポテンシャルを最大限に引き出すにはうってつけのタイトルだ。
「うわ、また重たそうなの選ぶなぁ。……俺なら、隣の棚にあるグラビアアイドルのビデオとか借りるけど」
「選択の自由は尊重するよ。……俺の部屋には専用のホームシアターがある。気が向いたら、大画面でブルース・ウィリスでも観に来るがいい」
「マジ!? 行く行く! それ絶対最高じゃん!」
隼人は屈託なく目を輝かせた。ビジネスの世界で狡猾に立ち回る大人たちばかりを相手にしてきた俺にとって、彼のこうした真っ直ぐな反応は、時に心地よく感じられた。
「なぁ、ちょっと付き合えよ」
店を出ると、今度は隼人が俺の袖を引いた。
連れて行かれたのは、路地裏の雑居ビルの屋上にある、古びたバッティングセンターだった。
カキーン、カキーンという硬質な金属音が、むせ返るような都会の空へリズミカルに消えていく。オイルと埃の入り混じった独特の匂いが鼻を突いた。
「ストレス発散には、これが一番効くんだぜ」
隼人は慣れた手つきで100円玉を投入し、バッターボックスに入った。設定は120キロ。
彼は軽く膝を曲げてバットを構えると、流れるようなスイングでボールを芯で捉えた。
快音と共に、放たれたライナーがセンター奥のネットを激しく揺らす。
フォームに一切の淀みがない。下半身のバネを使い、背筋の力を正確にバットへ伝える技術。身体能力のベースが、やはり同年代とは一線を画している。
「っしゃあ! ……西園寺、お前もやってみろよ。ガリ勉の腕前、見せてみろ!」
「野球の経験はない。だが、飛んでくる球の軌道を見るだけなら素人でもできる」
俺は着ていたジャケットを脱いで備え付けのベンチに無造作に置き、貸し出し用のバットを握った。
飛んでくる白球に神経を集中させる。
マシンのアームが動き、ボールが放たれる。動体視力は極めて良好だ。球筋が、空中に引かれた糸のように視覚化される。
俺は最小限のテイクバックから、ボールの縫い目にタイミングを合わせてバットを振り抜いた。
――カァン!
掌に伝わる痺れるような衝撃。ボールは鋭い弾道を描き、隼人が打った場所のすぐ横に突き刺さった。
「おー! やるじゃん! お前、初心者とか嘘だろ。スイングの速さが尋常じゃねぇぜ」
「ただタイミングを合わせただけだ。たまたま芯に当たったらしい」
俺はバットを構え直し、次々と飛んでくるボールを弾き返した。
汗と共に、日々のビジネスでの思考のノイズや、学園での鬱屈が排出されていく感覚。隣のボックスで、呼吸を荒くしながらも楽しそうにバットを振る隼人の気配を感じながら、俺は残りのコインを投入機に押し込んだ。
バッティングセンターを出ると、通り沿いに黒塗りのセダンが静かに停車していた。
俺の迎えだ。
「じゃあな、隼人。今日は有意義だった」
「おう、またな西園寺。……あ、明日筋肉痛で泣き言言うんじゃねーぞ!」
隼人と別れ、俺は後部座席に乗り込んだ。
運転席には、秘書の如月舞が座っている。
夜の車内に佇む彼女の横顔は、完璧な秘書としての隙のなさを保っていた。ダークネイビーのスーツの襟元にはシワ一つない。
「お疲れ様です、オーナー。……少し、汗をかかれたようですね」
「ああ、友人と少し運動をしてきた。……機材の配送手配はどうなった?」
「すべて完了しております。トレーニング機材一式は、明日の午前中に搬入・設置予定です。担当者には、オーナーの不在時に舞が立ち会う旨を伝えてあります」
「助かる」
俺はシートに深く身を預け、閉じていた目を開けた。
「城戸様とは、随分と親睦を深められたようですね」
「ああ。彼は裏表がない。……俺が最も信頼を置くタイプだ」
「オーナーが心を許せる相手であれば、私としても喜ばしい限りです。……それと、鷹森についての詳細な調査報告書が上がっております。助手席のファイルをご確認ください」
舞の声が、僅かに硬くなったのを俺は見逃さなかった。
彼女の表情は崩れていないが、その言葉の端々に嫌悪の色が潜んでいる。調査結果が予想以上に黒かったことを意味していた。
俺は窓の外を流れる夜の東京を眺めながら、助手席に置かれた分厚いファイルを引き寄せた。
「……無理はなさらないでくださいね。オーナーの身に何かあれば、私……いえ、弊社は立ち行きませんから」
「分かっている。お前を悲しませるような未熟な真似はしない。……頼りにしてるぞ、舞」
俺の言葉に、舞はバックミラー越しに小さく口角を上げたようだった。
帰宅後、俺はシャワーを浴びて汗を流した。
静寂を取り戻したペントハウスのリビングで、俺は真っ先に舞から受け取ったファイルを開いた。
そこには、体育教師・鷹森恒一が過去に勤めていた複数の学校での「実績」が、被害者たちの悲痛な証言と共に羅列されていた。
暴力的な指導による不登校の誘発。それを、コネクションを持つ教育委員会関係者を使って揉み消した形跡。さらに悪質なのは、特定の生徒をターゲットにして執拗に精神を追い詰め、最終的に自分の支配下に置こうとする手口だ。
隼人が目をつけられたのも、彼の卓越した身体能力と反骨心が、鷹森の歪んだ支配欲を刺激したからに他ならない。
「……なるほど。救いようのないクズだな」
俺はファイルを閉じ、ブラックコーヒーを喉に流し込んだ。
静かな、しかし熱い怒りが胸の奥で燃え上がる。単に学園から追放するだけでは、この男は別の場所で同じことを繰り返すだろう。彼が二度と教育の場に立てないよう、社会的に完全に息の根を止める罠を張る必要がある。
思考をクリアにするため、俺はシアターセットの電源を入れた。
借りてきた『アルマゲドン』のDVDをトレイに乗せ、部屋の照明を落とす。
プロジェクターから投影された大画面に、漆黒の宇宙が広がる。高音質のスピーカーから、エアロスミスの重厚なバラードが流れ出した。
俺はリビングの広い空間を使い、自重でのトレーニングを始めた。
プッシュアップ、クランチ、そしてスロースクワット。
画面の中では、ブルース・ウィリスが人類のために命を懸けた戦いに挑んでいる。
「……ふっ、……ふっ」
規則正しい呼吸と共に、筋肉に確かな負荷を与えていく。
額から滴る汗が、絨毯に落ちた。
映画がクライマックスを迎え、自己犠牲のシーンが画面に映し出される中、俺は最後のセットを終えた。
息を整えながら立ち上がり、タオルで額の汗を拭う。テーブルの上に置かれた鷹森の調査報告書を一瞥し、俺は冷え切ったコーヒーの残りを静かに飲み干した。




