第11話 銀盤の映画と鋼の重り
1999年4月20日、火曜日。
春の長雨がようやく上がり、少し汗ばむほどの陽気が東京に戻ってきた。
5限目、世界史。
昼食後の睡魔が教室を支配する、まさに「魔の時間帯」だ。
教壇に立つのは、学年主任も務めるベテラン教師の小田切だ。白髪交じりの髪を几帳面に撫でつけ、銀縁眼鏡の奥から、今にも意識を飛ばしそうな生徒たちを鋭く睨め回している。彼は生徒を指名して答えられないと、授業を止めて延々と説教を始めることで有名だった。
「では、ここだ。冷戦終結後の国際秩序について。1991年のソビエト連邦崩壊が、その後の地域紛争にどのような影響を与えたか。おい、西園寺」
不意に、静寂を切り裂くように名前を呼ばれた。
手元に広げていた洋書の原典から顔を上げる。
一瞬でクラス全員の視線が集中するのが分かった。これは単なる暗記した知識を問う問題ではない。当時の複雑な歴史的背景と因果関係を、論理的に構築して説明する必要がある、高校生には少々荷が重い問いだ。
椅子を引き、静かに立ち上がった。
「はい。ソ連崩壊による力の空白は、それまで超大国の抑止力によって封じ込められていた民族対立や宗教対立を表面化させました。特に旧ユーゴスラビア地域やカフカス地方における紛争の激化は、冷戦構造の均衡が崩れたことによるパワーバランスの激変が直接的な要因です。また、戦術核を含めた核拡散の懸念や、急速な市場経済への移行に伴うハイパーインフレと経済的混乱も、地域の不安定化に決定的な拍車をかけたと認識しています」
淀みなく、しかし傲慢にならないトーンで答える。
教科書の内容をなぞるだけでなく、前世での知識と、今世で収集した当時の生のニュース、さらには後世の歴史的評価を加味した、反論の余地のない完璧な回答だ。
小田切先生は眼鏡の位置を指先で直し、ほう、と感嘆の息を漏らした。
「正解だ。いや、模範解答以上だな。現段階でそこまで多角的な視点を持っているとは。よく勉強している」
「恐縮です、先生」
一礼して着席した。
周囲から「マジかよ」「あいつ、いつ勉強してるんだ?」という囁きが漏れる。隣の席の隼人が、教科書の陰で親指を立て、ニカッと不敵に笑った。
小さく肩を竦めてみせる。
大人の知識量と経験を持ってすれば、高校レベルの授業など児戯に等しい。だが、学生の本分として手を抜くつもりはない。効率よく周囲の評価を稼ぎ、自分の自由な時間を最大限に確保する。それが、大人の学校生活における最適解だ。
★★★★★★★★★★★
放課後。
隼人を伴って、渋谷にある大型のスポーツ用品店に来ていた。
目的は、マンションの自室でのトレーニング環境を本格的に整えることだ。
現在の肉体は、若く無限の可能性に満ちているが、まだ線が細い。将来的な激務や、これから直面するであろう物理的なトラブルに耐えうる「戦える肉体」を早期に作り上げる必要がある。
「へぇ、ダンベルかよ。お前、見た目に反して意外と脳筋だよな」
隼人が陳列棚にある、重厚な金属音を立てるダンベルを持ち上げながら冷やかす。
金髪にピアスの不良スタイルを貫いているが、その腕の筋肉はしなやかで、かつ機能的だ。野性味溢れるアスリートの体躯。元陸上部のエースとしての貯金は、未だにその細胞の隅々に残っているようだった。
「これと、ベンチプレス用の本格的なセットも頼む」
「マジかよ。あんな広い部屋にまだ何か置くのか?」
「問題ない。空間は有効活用してこそ価値がある」
店員を呼び、可変式のダンベルセットと、耐荷重の大きいフラットベンチ、さらに床を保護するための厚手のジョイントマットを注文する。
総重量はかなりのものになるため、自宅への配送を依頼した。ついでに、海外製のプロテインとサプリメントもカートに入れる。
1999年当時、日本で市販されているプロテインはまだ「粉っぽくて不味い」という認識が一般的だった。だが、選んだ米国の高品質なものは、最新のフレーバー技術により、十分に日常的な摂取に耐えうる味になってきている。
「西園寺、お前マジで何目指してんの? 格闘家にでも転身するか?」
「ただの自己管理だ。体が資本だからな。城戸、君もどうだ? 一緒に鍛えるか?」
「俺はいいよ。走るのは今でも好きだけどな、地味な筋トレは性に合わねぇ」
隼人は少し寂しげに笑い、視線を逸らした。
その視線の先には、最新のテクノロジーを搭載したランニングシューズのコーナーがあった。
中学時代、理不尽な指導によって足を壊され、夢を断たれた彼。だが、その情熱の残り火は、まだ消えずに燻っている。
あえて何も言わず、会計を済ませた。
彼が再び走り出すための舞台装置は、裏で着々と準備を進めている。鷹森という学園の癌を排除した後に。
★★★★★★★★★★★
スポーツ用品店を出た後、俺たちは近くのレンタルショップ『TSUTAYA』に向かった。
青と黄色のネオンサインが、夕暮れの渋谷の街に鮮やかに浮かび上がっている。
店内は、最新のJ-POPチャートの音楽と、新作を求める若者たちの熱気で溢れかえっていた。
VHSビデオカセットが棚の9割以上を占める中、店舗の端に新設されたばかりの、まだ小規模な「DVDコーナー」へと迷わず足を向けた。
DVD。直径12センチの、虹色に輝く銀色の円盤。
VHSに代わる次世代の映像メディアとして登場したばかりで、1999年現在はまだタイトル数も限られている。だが、そのデジタルならではの圧倒的な画質と音質、そして「巻き戻し不要」という劇的な利便性は、エンターテインメントの歴史を塗り替える革命だ。
そのままカウンターへ向かい、新規の入会手続きを行った。
「ただいま、年間会員キャンペーンを実施しております。入会金無料で、新作も1泊半額になりますが、いかがなさいますか?」
「では、それでお願いします」
店員の説明を聞き、即決した。横で隼人が目を丸くして身を乗り出す。
「おいおい、いきなり年会費払うのかよ。たまに借りるくらいなら、その都度払った方が安くねぇか?」
「計算上、損益分岐点は月に2本だ。それ以上観る習慣があるなら、長期的に見てこちらの方が遥かに得だ。コストパフォーマンスの問題だよ」
「お前の頭、マジで電卓入ってんな。で、何借りるんだ?」
手に取ったのは、2本のDVDケースだ。
1本は『アルマゲドン』。1998年の大ヒット作で、エアロスミスの主題歌と共に世界中を熱狂させた、パニック超大作だ。
もう1本は『プライベート・ライアン』。冒頭20分の上陸作戦の圧倒的なリアリズムが、戦争映画の定義を変えたと言われる傑作だ。
どちらも、大画面と高音質スピーカーを備えた部屋で、DVDのポテンシャルを最大限に引き出すにはうってつけのタイトルだ。
「うわ、また重そうなとこ選ぶなぁ。俺ならアイドルのイメージビデオとか、もっとバカっぽいの借りるけど」
「それも一つの選択肢だな。だが、部屋には専用のホームシアターセットがある。今度、君も観に来るか?」
「マジかよ!? 行く行く! あのデカい画面でブルース・ウィリス拝めるとか最高じゃん!」
隼人は子供のように瞳を輝かせた。こういう計算のない素直な反応が、彼の憎めない魅力だ。
★★★★★★★★★★★
「なぁ、ちょっとだけ付き合えよ」
店を出ると、今度は隼人が袖を引いた。
連れて行かれたのは、路地裏にある古びたバッティングセンターだ。
カキーン、カキーンと、金属バットが硬球を捉える快音が等間隔で響いている。
「ストレス発散には、これが一番効くんだぜ」
隼人は慣れた手つきで100円玉を投入し、一番速い120キロのケージに入った。
バットを構えると、無駄のない鋭いスイングでボールを正確に捉えた。
快音と共に、打球は一直線にセンターのネットへと突き刺さる。フォームに淀みがない。下半身の粘りと、背筋の使い方が極めて優秀だ。身体能力の基礎が桁外れに高いのだろう。
「っしゃあ! 西園寺、お前もやってみろよ。ストレス溜まってんだろ?」
「野球の経験はないが、やってみるか」
隣のボックスに入った。アルマーニのジャケットを脱ぎ、バットを握る。
マシンのアームが動き出し、白球が放たれる。
動体視力は極めて良好だ。飛んでくるボールの縫い目までが明確に視認できる。タイミングを完全に合わせ、最短距離でバットを一閃させた。
――カァン!
芯を完璧に捉えた、重厚な感触。
ボールは鋭いライナーとなって、防護ネットを揺らした。
「おー! マジかよ! 初心者にしてはスイングスピードが異常だろ。お前、隠れて特訓でもしてんのか?」
「少し慣れているだけだ。だが、確かに悪くないな」
手に残る、微かな痺れが心地よい。
その後も、30分ほど無言で白球を打ち続けた。
汗と共に、日々の過密なスケジュールや、複雑な思考のノイズが外部へ排出されていく感覚。
隣のケージで、隼人が声を上げて笑っている。
彼がこうして、自分の可能性を信じて身体を動かせる場所を守り抜くこと。それは、現在のプライベートな目標の一つとして、確かに胸に刻まれていた。
★★★★★★★★★★★
バッティングセンターを出ると、通り沿いに一台の黒塗りのハイヤーが静かに停まっていた。迎えだ。
「じゃあな城戸。今日は良い気分転換になった」
「おう。またな西園寺。あ、明日筋肉痛で動けなくなっても知らねーぞ!」
隼人と拳を軽く合わせ、後部座席に乗り込んだ。
運転席には、秘書の舞が座っている。陶器のように白い肌。ルームランプに照らされた彼女の横顔は、彫刻のように完成された美しさを湛えていた。
ダークネイビーのスーツを完璧に着こなし、知性と気品の鎧を纏った彼女。その涼しげな瞳が、バックミラー越しに視線を捉えた。
「お疲れ様です、オーナー。少し汗をかかれたようですね」
「ああ。友人と少しばかり体を動かしてきた。配送の手配は済んでいるか?」
「はい、すべて完了しております。トレーニング機材一式は、明日の午前中にはマンションへ搬入予定です」
「助かる。舞の手回しの良さには、いつも感心させられるよ」
シートに深く身を預けた。舞の運転は相変わらず極上の快適さだ。
車外の東京の喧騒を完全に遮断し、滑るように夜の街を進んでいく。
「城戸様とは、随分と打ち解けられたようですね。オーナーがそれほどまでに信頼を置く方は、珍しい」
「ああ。彼は裏表がない。今の俺が身を置いている、計算と利害だけの世界にはいないタイプだ。大切にしたいと思っているよ」
「オーナーがリラックスできる居場所を確保できているのであれば、秘書としてこれ以上の喜びはありません。ですが、例の鷹森教師についての詳細な調査報告書、すでに作成済みです。ご覧になりますか?」
「いや、帰ってからじっくり読ませてもらう」
舞の声色が、わずかに温度を下げた。
おそらく、調査の結果は相当に深刻なものだ。鷹森の「黒い部分」が、想像以上に深く、根深いことを示唆している。
窓の外を流れる、無数の光に彩られた夜景をじっと見つめた。
1999年の東京。光の数だけ闇があり、欲望がある。だが、その闇を恐れることはない。
「無理はなさらないでくださいね。オーナーのお体は、オーナーお一人のものではありませんから」
「分かっています。舞を悲しませるような真似はしません。約束しましょう」
言葉に、舞は少しだけ頬を赤らめ、静かに微笑んだようだった。
彼女とのこの短い、嘘のない対話こそが、最高のリセットボタンであり、明日への活力だった。
★★★★★★★★★★★
帰宅後、シャワーを浴びて一日の汚れを流した。
リビングの窓際に置かれた観葉植物、パキラの鉢植えに目をやる。
ISDN回線のモデムが「ピーヒョロロ」という懐かしくもどかしい接続音を響かせる中、棚から緑色の活力液のアンプルを取り出した。
キャップを丁寧にねじ切り、乾いた土に逆さまに突き刺す。
「しっかり育てよ」
このパキラが大きく成長し、天井に届く頃、描いた未来予想図はどこまで現実のものとなっているだろうか。
最新のホームシアターの電源を入れた。借りてきた『アルマゲドン』の銀色の円盤を、トレーにセットする。
部屋の照明を落とすと、100インチのスクリーンに宇宙の圧倒的な深淵が広がった。
エアロスミスの重厚なバラードが、高音質のスピーカーから部屋全体を震わせる。
映画を流しながら、届いたばかりのヨガマットを敷き、自重トレーニングを始めた。
プッシュアップ、クランチ、そして深いスクワット。
映画の中では、ブルース・ウィリスたちが人類を救うために命を懸けている。
この戦いはもっと静かで、時に非情なものだが、背負っている覚悟の総量に差はない。
「ふっ、ふっ」
一回ごとに正確なフォームで、筋肉に限界まで負荷をかけていく。
汗がマットに落ちる。
映画がクライマックスを迎え、自己犠牲の愛が語られるシーンで、最後のセットを完璧に終えた。
心地よい、痺れるような疲労感。
今日はよく動いた一日だった。
隼人とのバッティング、舞との静かな時間、そしてトレーニング。
プロテインをゆっくりと喉に流し込んだ。




