第12話 雨音の絶縁と着信メロディの予感
1999年4月21日、水曜日。
朝のホームルーム前、1年A組の教室は、湿った重い空気に包まれていた。
天気予報通りの雨。窓ガラスを不規則に叩く雨音が、登校してきた生徒たちの騒がしい喧騒を、少しだけ低いトーンへと沈ませている。
席につき、鞄からノートパソコンを取り出す前に、教室の後方で繰り広げられている「不協和音」に目を留めた。
窓際、最後方の席。
文庫本を開き、静かに自分の世界に入ろうとしている高城の机に、翔太がべったりと張り付いていた。
「なぁ高城さん、今度の日曜、絶対暇だろ? クラスのみんなでボウリング行くんだけどさ、お前も来いよ! 女子の人数合わせにちょうどいいしさ!」
翔太の、無神経の極みとも言える声が教室に響く。
「人数合わせ」。誘い文句としてこれ以上なく失礼な言葉を、彼は全くの悪気なく、むしろ親切のつもりで口にしている。
透明感溢れる美少女。高城は本から視線を一切上げず、低く冷ややかな声で答えた。
「お断りよ。私は貴方ほど暇ではないの」
「えー? どうせ家で本読んでるだけだろ? たまには体動かさないと太るぞー? 女の子なんだからさ」
デリカシーを欠いた、セクハラまがいの発言。
高城が、バタンと強い音を立てて本を閉じた。
その整った顔立ちが、瞬時に氷点下の冷気を帯びる。顎のラインで切り揃えられた黒髪のボブカットと、涼しげな瞳。クラスでも「高嶺の花」として一目置かれる彼女の凛とした美貌が、今は明確な軽蔑によって鋭く研ぎ澄まされていた。
「日向くん。貴方のその『自分が世界の中心』だと思い込んでいる身勝手な思考回路、正直に言って吐き気がするわ。私の貴重な時間を、貴方の退屈しのぎのために使う義理は、これっぽっちもないの」
「はあ? なんだよ、ノリ悪いなー。マナなら『行く行く!』って即答するぜ?」
「マナの名前を安易に出さないで。彼女がこれまで貴方に合わせてくれていた献身的な優しさを、当たり前だと思わないことね。不愉快だわ」
高城は冷徹に言い放つと、教科書を机に押し込み、そのまま教室を出て行った。
残された翔太は、「なんだよアイツ、生理か? 変な奴」などと独りごちている。
救いようがない。
彼は気づいていないのだ。マナだけでなく、クラスで最も知的な高城からも、完全に「絶縁」の烙印を押されていることに。そして、その無自覚な傲慢さが、今日この後、マナとの関係を決定的に壊す引き金になることも。
★★★★★★★★★★★
2限目、古典。
教壇では年配の教師が『徒然草』の解説を淡々と続けているが、意識は机の下、15インチの液晶画面の中にあった。
開いているのは、一昨日図書室で借りた『大蔵省 権力と腐敗の構造』。
昨年の1998年、大蔵省接待汚職事件が発覚し、日本中を震撼させた。これを契機に、戦後日本を支配した「護送船団方式」は崩壊し、2001年には財務省へと再編される激動の時代だ。
重要な記述をキーボードで入力し、データベースに蓄積していく。
金融ビッグバンによる抜本的な規制緩和。
それは、外資系金融機関の本格参入やネット証券の台頭を促し、日本の金融市場に新たなうねりを作り出すはずだ。
教師の視線がこちらに向く微かな気配を察知し、素早く画面を切り替え、黒板を凝視する演技に移った。
★★★★★★★★★★★
昼休み。
雨のため中庭には出られず、気分転換を兼ねて、本校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下の自販機コーナーに来ていた。
ブラックコーヒーを買おうと小銭を探していると、背後からふわりと甘い、花の蕾のような香りが漂ってきた。
「あ、西園寺くん! 奇遇だね~、喉乾いちゃったの?」
結衣先輩だ。
あどけなさと健康的な色気が同居した美貌。艶やかな黒髪のセミロングに、少し垂れ気味の大きな瞳が印象的だ。制服のブラウスが窮屈そうなほど豊かなプロポーションは、今日も健在だった。
彼女は「期間限定・イチゴオレ」の紙パックを両手で大切そうに持ち、無邪気な笑顔を向けてきた。
「こんにちは、花村先輩。先輩も、束の間の休憩ですか?」
「うん。セイラちゃんが生徒会の会議で忙しいから、一人でフラフラしてたの。ねえねえ、西園寺くんってさ、お休みの日は何をして過ごしてるの?」
彼女は、こちらの個人的なパーソナルスペースを軽々と飛び越え、至近距離まで近づいてくる。
無防備すぎる上目遣い。薄いシャツ越しでも分かる豊かな凹凸。大人の理性が、警報を鳴らすほどの破壊力だ。
「読書や映画鑑賞、あとは自宅でのトレーニングを少々嗜んでいます」
「すごぉい! やっぱり王子様は違うねぇ。私なんて、お家でゴロゴロしてポテチ食べて、ずっとテレビ見てるだけだよ~」
「それはそれで、ストレスからの解放という意味では有意義な休日だと思いますよ」
「えへへ、優しいなぁ、西園寺くんは」
彼女は嬉しそうに目を細め、幸せそうな吐息を漏らした。
その笑顔には、一切の計算も裏表も存在しない。潔癖なまでの純真。霧島先輩が、この危ういほど無防備な少女を全力で守りたくなる理由が、今ははっきりと理解できた。
「あ、そうだ。セイラちゃんね、西園寺くんの話をすると、ちょっとだけ顔を赤くしてプイッてするんだよ。ふふっ、二人で仲良くなれるといいよね」
「善処します」
苦笑いで返した。
あの「氷の女王」が動揺する姿は想像し難いが、結衣先輩の歪みのないフィルターを通すと、そのように映るのだろうか。
予鈴のチャイムが鳴り響く。彼女は「またね~!」と大きく手を振り、ふんわりとした柔らかい足取りで教室へと戻っていった。
嵐のような、しかし確かな癒やしを感じさせる時間だった。
★★★★★★★★★★★
放課後。
雨脚は一段と強まり、校庭のアスファルトには巨大な水たまりが広がっていた。
生徒たちは傘を差して、あるいは友人同士で肩を寄せ合い、三々五々に帰宅していく。
昇降口から少し離れた路肩に黒塗りのセダンを回させ、舞に待機するよう連絡を入れた。
昇降口の屋根の下で、立ち尽くしているマナの姿を見つけた。
健康的なショートボブ。彼女は傘を持っていないようで、暗い空を仰ぎ、細い肩を震わせて溜息をついていた。
そこへ、部活を終えたばかりの翔太が、軽快な足取りで現れた。
彼は自分の体格には不釣り合いなほど大きな、ゴルフ用の丈夫な傘を手にしていた。マナの顔が、救いを見つけたかのようにパッと輝く。幼馴染の彼なら、当然のように自分を入れてくれると確信したのだろう。
「あ、翔太! ちょうど良かった、私、うっかり傘を忘れちゃって……」
マナが駆け寄ろうと一歩踏み出した、その瞬間だった。
翔太の視線はマナを通り越し、彼女の後ろにいた別の女子生徒へと固定された。
クラスでも目立つ、華やかなグループの一員である高田だ。
「おっ、高田さんじゃん! 傘ないの? 俺のに入りなよ! 駅まで送ってやるって!」
翔太は、手の届く距離にいるマナの存在を完全に無視し、高田に駆け寄って豪快に傘を差し出した。高田は「えー、マジ? ラッキー! サンキュー日向!」と弾んだ声を上げ、翔太の傘の中に滑り込む。
二人は親しげに肩を並べて笑い合いながら、雨の帳の中へと消えていった。
――残されたのは、氷点下の表情で立ち尽くす、マナ一人だけ。
彼女が伸ばしかけた右手は、行き場を失って虚空を掴んでいた。
幼馴染だから。一番近くにいるのが当たり前だから。
そんな長年の積み重ねが、形のない音を立てて崩れ落ちる瞬間だった。
マナは自分の震える肩を抱きしめるように力を込めると、意を決したように通学鞄を頭の上に乗せ、激しい雨の中へと飛び出した。
「舞。彼女を追え」
後部座席のチャイルドロックを解除し、低く指示を出す。
セダンが水しぶきを上げ、滑らかに発進する。
数メートル先、ずぶ濡れになって足早に歩くマナの真横に、車をぴたりと寄せた。
電動パワーウィンドウが、静かに開く。
「桜木さん。乗ってください」
「えっ……西園寺、くん……?」
マナが驚愕して振り返った。
容赦なく降り注ぐ雨水が前髪から滴り、彼女の視界を遮っている。
その瞳は充血し、雨のせいか、それとも涙のせいか判別がつかないほど濡れそぼっていた。
「風邪を引きます。実家の店まで送りますよ」
「で、でも……こんな高級車、汚れちゃうし……迷惑じゃ……」
「車は洗えば済みます。早く。俺が濡れるのは構わないが、貴女の体調は取り返しがつかない」
自ら身を乗り出してドアを開ける。
マナは躊躇いながらも、身を切るような寒さに耐えかねて、後部座席に潜り込むようにして乗り込んできた。
即座に、コンソールボックスから用意させておいた清潔な厚手のバスタオルを、彼女の頭から優しく被せる。
「……ごめんね、ありがとう。西園寺くん」
彼女は小刻みに震えていた。
物理的な寒さだけではない。心底冷え切ってしまった自らの内面への、自己嫌悪と悲しみ。
舞に空調の温度を最大限に上げるよう指示し、彼女の呼吸が落ち着くのを静かに待つ。
「見ちゃった、よね」
数分後、タオルの中から、掠れた弱々しい声が漏れた。
「翔太……私のことなんて、どうでもいいんだね。幼馴染だからって、勝手に特別だと思ってた私が、一番のバカだったんだ」
彼女は拳で、タオルを強く握りしめた。
「自分が大切にされていない」という残酷な事実を、人生で初めて直視した痛み。それは彼女が「幼馴染という檻」から抜け出し、一人の女性として自立するためには、避けては通れない通過儀礼だ。
「彼は愚かだが、根っからの悪人ではありません。ただ、桜木さんの底なしの優しさに甘えきって、隣にいる貴女の『心』を見ることを、怠惰にも忘れているだけです」
淡々と、しかし包容力を込めて告げる。
「ですが、桜木さんはもっと大切に、そして丁寧に扱われるべき女性だ。少なくとも、俺なら雨の中に君を置き去りにはしない。決してな」
マナが顔を上げた。
濡れた瞳が、俺の眼差しを真っ直ぐに捉える。
その瞳の奥深くに、西園寺玲央という存在が、深く、消えない楔として打ち込まれるのを感じた。
「西園寺くんは、ずるいよ。そんなこと言われたら、私……泣いちゃうじゃん」
彼女は再びタオルに顔を埋め、声を押し殺して泣き出した。
何も言わず、彼女の涙が止まるまで、その震える背中をただ黙って見守り続ける。
★★★★★★★★★★★
マナを実家まで送り届けた後、車は夕闇と雨音が支配する東京の街を滑るように進んでいた。
助手席の舞が、ルームミラー越しに気遣うような視線を向けてくる。
「オーナー。このままご自宅へお戻りになりますか?」
「ああ。少し休みたい気分だ」
窓の外には、雨上がりの東京の夜景が広がっている。
街を彩るネオンの灯りが、濡れたアスファルトに反射して揺らめいていた。
静かな車内には、微かにマナの残した雨の匂いと、彼女の小さな嗚咽の余韻が漂っているような気がした。
★★★★★★★★★★★
ようやくマンションの自室に帰宅すると、リビングから芳醇で温かな香りが漂ってきた。
広大なアイランドキッチンに立っているのは、エプロンを身に纏った母、ソフィアだ。
世界的ハリウッド女優が、日本のマンションのキッチンで煮込み料理に勤しむ姿は、あまりにシュールで非現実的な光景だが、その手際の良さは本物のプロに近い。
奇跡的な美貌。
「Welcome back, Leo! 今日は寒いから、私特製のビーフシチューよ!」
「ただいま、母さん。素晴らしい香りですね。助かります」
ジャケットを脱ぎ、整えられたダイニングテーブルについた。
そこには、完璧なテーブルセッティングと共に、湯気を立てる温かいシチューと、香ばしく焼かれたバゲットが並べられていた。




