第13話 空白の市場と銀色の晩餐
昨日の雨が嘘のように晴れ渡り、東京は初夏を思わせる陽気に包まれていた。たっぷりと湿り気を吸い込んだアスファルトが強烈な陽光を反射し、街全体が眩いほどの光を放っている。
放課後。俺は、騒がしい学園を離れ、独り渋谷の街を歩いていた。
制服のブレザーを腕にかけ、ワイシャツの袖を数回折り返す。センター街を吹き抜ける風はまだ涼しいが、すれ違う若者たちの装いには少しずつ夏の色が混じり始めていた。ルーズソックスを履いた女子高生たちが、アンテナが光るストラップをつけた携帯電話やPHSを器用に操作しながら、甲高い笑い声を上げている。
向かった先は、文化村通りに構える大型書店だ。情報がデジタル化される前のこの時代、知の集積地としての書店の存在感は圧倒的だった。
店内に入ると、新しい紙とインクが混ざり合った特有の香りが鼻腔をくすぐった。話題の新刊が積まれた平積みコーナーを足早に抜け、俺はビジネス書と専門書のフロアを往復する。
棚を指先でなぞりながら、現在の、そして数年後の俺に必要となるであろう「武器」を次々と吟味していく。
『e-コマース革命:ネットワーク経済の正体』
『Java言語プログラミング:オブジェクト指向の真髄』
『iモード・ストラテジー:移動体通信の未来』
『現代建築の潮流:空間と機能の再定義』
『心理学における行動分析:集団心理の操作』
『フランス料理の科学:分子ガストロノミーの萌芽』
手にしたのは計6冊。重量感のあるハードカバーが腕にずしりと重みをかけるが、この重みこそが知識の質量だと考えればむしろ心地よい。
レジで会計を済ませ、重厚な紙袋に入れてもらう。15歳の少年が買い込む内容としては明らかに異常だが、ここは渋谷だ。店員も特に表情を変えることなく、事務的に処理を終えた。
知識への投資に上限は設けない。自分自身の頭脳という、絶対に裏切らずリターンが確定している投資先ほど、効率の良いものはないからだ。
「……あら。随分と熱心に仕入れたわね、オーナーさん」
書店の出入り口。人波を避けるように太い円柱に背を預け、文庫本に目を落としていた女性が顔を上げた。
柚木沙耶だ。
今日の彼女は大学の講義が休みなのか、モードな装いとは一転してラフな格好をしていた。体のラインを曖昧にするオーバーサイズの白いシャツに、履き古したような風合いのスキニーデニム。足元はコンバースのキャンバススニーカー。
シンプルを極めた装いだが、それがかえって彼女の持つアンニュイな、どこか世俗を拒絶するような美しさを際立たせている。
「こんにちは、柚木さん。奇遇ですね。また人間観察ですか」
「ええ。ゼミの資料探しにかこつけてね。……で? その大量の紙の束はインテリア? それとも、重りにしてトレーニングでも始めるつもり?」
「まさか。全て今夜中に読み切るつもりですよ。脳の栄養補給です」
「ふうん……。15歳にしては随分と健啖家なのね。消化不良を起こさないといいけど」
沙耶は読みかけの文庫本を閉じ、面白そうに俺を値踏みした。彼女の瞳には、心理学徒としての分析的な光が常に宿っている。
「柚木さんも、相変わらず精力的ですね。大学はどうしたんですか」
「退屈な講義をサボって、生きたサンプルを探しに来たのよ。……ねえ、少し立ち話も何だし、奢ってくれるならお茶くらい付き合うわよ? 社長さんの景気のいい話、聞かせてくれない?」
彼女は悪戯っぽく、長い睫毛を揺らしてウインクをした。
断る理由はない。俺たちは文化村通りから一本入った路地にある、落ち着いた雰囲気のカフェのテラス席についた。
アイスコーヒーの結露したグラスを指先で弄びながら、話題は自然と俺が立ち上げようとしている新規事業のことになった。
「へえ。次は携帯電話の音楽? ……『着メロ』ってやつ?」
「ええ。今は自分で雑誌を見ながらボタンを叩いて入力している層も多いですが、じきに高品質なデータを直接ダウンロードする時代が来ます。すでにそのインフラ整備に数千万の投資を決定しました」
俺は、昨日舞に指示を出したばかりの、携帯電話向けコンテンツ配信事業の展望を語った。
「ふーん。でも、たかが電話の呼び出し音でしょ? そんなものに毎月お金を払う人が、本当にいるのかしら」
沙耶は頬杖をつき、懐疑的な視線を向けてくる。
それが、1999年という現在における一般的な大人の感覚だろう。だが、俺が狙っているのは利便性の追求や、単なる音楽の小売りではない。その先にある「承認欲求」という巨大な市場だ。
「今はそう思えるでしょうね。ですが、携帯電話はもはや単なる通信の道具ではなく、持ち主のセンスやアイデンティティを誇示するアクセサリーになりつつある。若者たちは、自分の『個性』を周囲に知らしめるために、数百円の月額料金など惜しまなくなりますよ。……これは利便性の販売ではなく、自己表現の場の提供です」
「……なるほどね。相変わらず、中身が大人びているというか……可愛げのない分析だこと」
沙耶はストローで氷をかき回しながら、呆れたように、しかし隠しようのない感心を込めて笑った。
「君の脳味噌、一度解剖してみたいわ。15歳の皮を被った、老獪な戦略家さん。……ま、精々頑張りなさいよ。舞があんなに必死になる理由、少しだけ分かった気がするから」
彼女は席を立つ際、俺の手の甲にポンと自分の手を重ねた。ひんやりとした指先。それは彼女なりの、激励の意味を含んだ触れ合いなのだろう。
「ありがとうございます。……では、そろそろ。夕食の仕込みがありますので」
「あら、家庭的な一面も見せるの? 本当、掴みどころがない子ね。またね、西園寺くん」
沙耶に手を振って別れ、俺は夕暮れの渋谷を後にした。
心理学者との対話は、澱んでいた思考を整理する良い刺激になった。彼女のような鋭い観察眼を持つ人間とのラリーは、自分のプランを客観的な視座で再確認させてくれる。
ハイヤーを呼び、向かった先は渋谷の喧騒とは一線を画す、東急本店の地下食品売り場だ。
今日は自炊をする。
外食で他者の技術から刺激を受けるのも悪くないが、自らの肉体を構成する物質を自らの手で選び、コントロールする時間は、何よりの贅沢だ。
「いらっしゃい! 今日は最高にいいホタテが入ってるよ!」
活気ある鮮魚コーナー。俺はショーケースの奥に鎮座する、北海道産の特大ホタテ、透き通るような身の才巻海老、そしてたっぷりと身の詰まったズワイガニを厳選した。
どれも刺身で供されるべき鮮度の逸品だ。これらをあえて惜しげもなく加熱調理に使い、旨味を凝縮させる。それが、今の俺が求める「食」の流儀だった。
続いて野菜コーナーで、力強く芽を伸ばしたアスパラガスと新玉ねぎ、肉厚のマッシュルームを籠に入れる。
デザートには、熊本県産の甘夏を。その鮮烈な酸味とほろ苦さが、濃厚なディナーの締めくくりには欠かせない。
最後に、専用のセラーが設えられたワインコーナーへ。
選んだのは、ブルゴーニュの名門が手掛ける『シャブリ・グラン・クリュ』。キリッとした酸味と強固なミネラル感が、シーフードの甘みを最大限に引き出してくれるはずだ。
会計は西園寺家の外商アカウントで処理させる。手続きを待つ間、店員たちの丁寧すぎる対応を背に受けながら、俺は次の行き先を思考した。
帰路、駅前のフラワーショップに立ち寄る。
無機質なモノトーンで統一されたペントハウスに、少しばかりの生命の彩りが欲しかった。
「……これを、二つください」
俺が指差したのは、小ぶりだが生命力に溢れた『ミニバラ』の鉢植えだ。
深い血のような深紅と、一点の曇りもない純白。対照的な二色。
花言葉はそれぞれ『熱烈な愛』と『清純』。今の俺の生活には酷く縁遠い言葉だが、殺風景な部屋にはこれくらい強い色彩の対比があってもいいだろう。俺はそれを、単なる観賞用として受け取った。
帰宅すると、静まり返ったリビングのダイニングテーブルに、一枚の派手な便箋が置かれていた。
『急な撮影が入ったわ! しばらく留守にするけど、掃除と補充は完璧よ! Love!』
母の、ハリウッド女優らしい奔放な筆致。どうやら、嵐のような女子会はひとまず終焉を迎えたらしい。
ようやく取り戻した、完全なプライベート空間。俺は一人、この贅沢な静寂を噛み締めるべく、エプロンを締めた。
広いアイランドキッチンに食材を並べ、調理を開始する。
BGMは不要だ。包丁がまな板を叩く音、バターが鍋で爆ぜる音、それらが最高の音楽になる。
まずはホワイトソース、ベシャメルの構築からだ。
厚手のル・クルーゼに上質な無塩バターを溶かし、振るった小麦粉を合わせる。焦がさないよう弱火でじっくりと加熱し、粉っぽさを飛ばしていく。香ばしい香りが立ち始めたところで、十分に冷やした牛乳を、最初は数滴ずつ。少しずつ組織を馴染ませ、滑らかなクリーム状へと昇華させていく。
ダマは許されない。ホイッパーで丁寧に、しかし迅速に撹拌し、最後に塩、ホワイトペッパー、そして隠し味のナツメグを微量。完璧なベースが完成した。
具材の準備に移る。
ホタテと海老は、少量のシャブリでさっと蒸し焼きにし、身を固めすぎずに旨味だけを閉じ込める。新玉ねぎとマッシュルームはバターでソテーし、水分を飛ばして甘みを極限まで引き出した。
茹で上げたアルデンテのマカロニを合わせ、ソースに絡める。さらに、先ほど剥き身にした大量のズワイガニを投入した。
耐熱皿に盛り付け、上からグリュイエールチーズとパルミジャーノ・レッジャーノを、雪を降らせるように削りかける。パン粉を散らし、バターをちぎって数カ所に置く。
200度に予熱したオーブンへと滑り込ませる。
焼いている時間を使い、甘夏の皮を丁寧に剥く。薄皮一枚残さず取り除き、果肉だけを冷やしたガラスの器に盛った。ミントの葉を一枝添えれば、目にも鮮やかだ。バゲットは斜めに切り、軽くトーストして小麦の香りを立たせる。
――チーン。
予鈴の音が、リビングに響いた。
オーブンを開けると、黄金色の焦げ目がついたグラタンが、表面でフツフツと泡を立て、濃厚なチーズと魚介の芳香がキッチンを支配した。
寸分の狂いもない、俺の想定通りの仕上がりだ。
ダイニングテーブルに料理を並べ、リーデルのグラスにシャブリを注ぐ。
透過する黄金色の液体が、ダウンライトの光を受けて美しく揺らめく。
俺は一人、静かに手を合わせた。
「いただきます」
熱々のグラタンを一口運ぶ。
濃厚なベシャメルソースの中で、ホタテの暴力的な甘みと海老の弾力が踊り、カニの繊細な風味が鼻を抜けていく。チーズの塩気が全体を力強く引き締め、飲み込んだ後には深い余韻が残った。
そこに、冷えたシャブリを流し込む。
鋭い酸味がチーズの脂を鮮やかに洗い流し、ミネラルの複雑味が次の一口への渇望を劇的に高める。
誰とも共有する必要のない、純粋な快楽。今の俺には、この孤独こそが何よりの贅沢だった。
食事を終え、甘夏で口内をリセットした後、俺はリビングのメインソファへと移動した。
シアターセットのリモコンを操作し、先日借りてきたもう一枚のDVDをトレイにセットする。
『プライベート・ライアン』。
画面に映し出されるのは、ノルマンディー上陸作戦の凄惨な戦場。
スピーカーから轟く重厚な銃声と爆発音、兵士たちの阿鼻叫喚。
スティーヴン・スピルバーグが描く、極限のリアリズム。弾丸が肉を裂き、海が鮮血に染まる光景は、俺が今身を置いている静かな生活とは対極にある地獄だ。
だが、同時にこれは、俺がこれから身を投じるビジネスの世界とも深く通底している。
生き残るためには、冷徹な現状認識と、極限状態での判断、そして時に非情なまでの決断が必要だということ。ミラー大尉の瞳に宿る、逃れられない責任の重さと、目的を完遂せんとする意志。
俺はワイングラスを揺らしながら、その一挙手一投足を、自らの覚悟と重ね合わせるように凝視した。
映画が終わる頃には、ボトルの半分以上が空いていた。
心地よい酔いの中で、俺はゆっくりと立ち上がり、窓際へ向かった。
今日買ってきたミニバラの鉢植えが、眼下に広がる東京の夜景を背景に、誇り高く咲いている。
深紅と純白。暗い窓ガラスに反射するその対照的な色彩を眺めながら、俺はグラスに残った最後の一口を静かに飲み干した。




