第13話 空白の市場と銀色の晩餐
1999年4月22日、木曜日。
昨日の重苦しい雨が嘘のように晴れ渡り、今日の東京は初夏を思わせる柔らかな陽気に包まれていた。
放課後。俺は、喧騒渦巻く渋谷の街を歩いていた。
センター街からは最新のJ-POPが流れ、道行く若者たちの熱気がアスファルトの照り返しと共に立ち上っている。日差しを避け、制服のブレザーを左腕にかけ、白いワイシャツの袖を肘までまくる。向かった先は、文化村通りに堂々と構える大型書店だ。
21世紀に向けてインターネットが急速に普及し始めたとはいえ、1999年現在、情報の主役は依然として「紙」だ。特に、体系化された専門知識や最新のグローバルなビジネストレンドを正確に掴むには、信頼できる書店を巡るのが最も効率が良い。
ビジネス書コーナーと専門書コーナーを何度も往復し、現在の、そして未来の俺にとって価値があると判断した本を次々と手に取った。
『e-コマース革命』
『Java言語プログラミング』
『iモード・ストラテジー』
『現代建築の潮流』
『心理学における行動分析』
『フランス料理の科学』
ジャンルは多岐にわたるが、これらすべてが今の俺に必要なピースだ。
計6冊。1,000ページを超える重量感のあるハードカバーを含んでいるため、腕にずしりと確かな重みが伝わってくる。
レジで手早く会計を済ませ、特製の丈夫な紙袋に入れてもらう。
自己投資としての知識への支出は、いかなる金融資産への投資よりも確実なリターンをもたらす。それが俺の不変のルールだ。
「あら。随分と買い込んだわね、オーナーさん」
書店の出入り口、自動ドアが開いた瞬間に聞き覚えのあるハスキーな声がした。
振り返ると、入り口横の大きな円柱に背を預け、文庫本を片手に読んでいる女性の姿があった。
沙耶さんだ。
今日は大学の講義が休みなのか、彼女はいつにも増してラフな出で立ちだった。身体のラインを直接的には拾わないオーバーサイズの白いシャツに、タイトなスキニーデニム。足元は履き古したコンバースのオールスター。
極めてシンプルで飾り気のない装いだが、それがかえって彼女の持つ独特のアンニュイな色気と、スレンダーな肢体を際立たせている。シャギーの入ったショートボブの黒髪が五月の風に揺れ、切れ長の瞳が俺を真っ直ぐに捉えた。口元の小さなホクロが、微笑むたびに妖艶な動きを見せる。
周囲を行き交う男子学生たちが、無意識に足を止め、遠巻きに彼女のオーラに圧倒されているのが分かった。
「こんにちは、沙耶さん。奇遇ですね。このような場所でお会いするとは」
「ええ。ゼミの発表で使う補足資料を探しに来たのよ。で? その腕がちぎれそうな大量の本は、お部屋のインテリア?」
「まさか。今日中にすべて目を通しますよ。枯渇しかけている脳への栄養補給です」
「ふうん。随分と強欲で健啖家なのね。感心しちゃうわ」
沙耶さんはパタンと音を立てて文庫本を閉じ、面白そうに見上げた。
彼女は心理学を専攻している。俺の落ち着いた行動や、時折覗かせる大人びた言動を、常に「分析対象」として楽しんでいる節がある。
「沙耶さんも、相変わらず熱心ですね。昨日は駅前のドラッグストアでアルバイト、今日は本屋で研究ですか」
「まあね。人間観察が好きだから。ねえ、少し立ち話でもどう? 奢ってくれるなら、お茶くらい付き合ってあげてもいいわよ?」
彼女は悪戯っぽく、長い睫毛を揺らしてウインクしてみせた。
断る理由はない。近くの落ち着いたカフェに入り、道行く人々を眺められるテラス席についた。
★★★★★★★★★★★
キンキンに冷えたアイスコーヒーを飲みながら、話題は自然と俺の現在のビジネスのことになった。舞からある程度の情報は共有されているのだろう。
「へえ。次は携帯電話で音楽を売るの? 『着メロ』ってやつ?」
「ええ。今はまだチープな単音の電子音ですが、これから数年で和音になり、やがては原曲に近い形へと爆発的に進化します」
昨日決定した初期投資プロジェクトについて概要を話した。
2月にサービスを開始したNTTドコモの『iモード』。
加入者数は予想を上回るペースで急増しているが、肝心の「コンテンツ」が圧倒的に不足しているのが現状だ。公式サイトの数はまだ一握りで、ユーザーは何か遊べる、あるいは自慢できるサイトを求めて電脳の海を彷徨っている。
「市場は今、空っぽの器のような状態です。そこに、最高品質のコンテンツを最速で投入する。プロのスタジオミュージシャンを使って制作した、ノイズのないハイクオリティな着信メロディ提供サイトです」
「ふーん。でも、たかが電話の呼び出し音でしょ? それにわざわざお金を払う人なんて、本当にいるの?」
沙耶さんはストローを回しながら、懐疑的な視線を向けてくる。
それが一般的な大人の、至極まっとうな感覚だろう。
「いますよ。月額300円という価格設定で提供します。塵も積もれば山となりますよ。化けるプラットフォームになる」
「なるほどね。相変わらず、隙のない可愛げのない分析だこと」
沙耶さんは呆れたように、しかし確かな敬意を込めて笑った。
「貴方の頭の中、一度メスを入れて解剖してみたいわ。少年を演じている、老獪な詐欺師みたい」
「詐欺師とは人聞きが悪い。対価に見合う、あるいはそれ以上の価値を提供しているだけですよ」
「はいはい。ま、頑張りなさいよ。私の大切な親友――舞のためにもね」
彼女は表情を柔らかく和らげ、俺の手の甲にポンと自分の細い手を重ねた。
春の陽光の中でも、その指先はひんやりとしていて、心地よかった。
それは、彼女なりの不器用なエールなのだろう。
「ありがとうございます。では、そろそろ失礼します。今夜は夕食の買い出しがありますので」
「あら、御曹司が主夫もこなすの? 偉いわね。奥さんに逃げられないように精進しなさい」
沙耶さんに軽く手を振って別れ、渋谷の街を後にする。
鋭い観察眼を持つ人間との対話は、自分の思考を客観視し、盲点を見つけ出すのに役立つ。
★★★★★★★★★★★
ハイヤーで向かった先は、渋谷の象徴の一つである東急本店の地下食品売り場だ。
今夜は外食ではなく、自炊をする。
超一流の店で食事をするのも悪くないが、自分の身体に入れる食材を自らの目で選び、調理工程を完全にコントロールする時間は、何よりの贅沢だ。
目指すは、活きの良い食材が並ぶ鮮魚コーナー。
「いらっしゃい! 社長、今日は北海道から最高のホタテが入ってるよ!」
顔なじみの店員の威勢のいい声に迎えられる。
ショーケースを厳格に吟味し、殻付きの特大ホタテ、身の引き締まった才巻海老、そして既に処理されたズワイガニの剥き身を購入した。どれもが刺身で提供できるほどの鮮度を持つ最高級品だ。
これらを、あえて惜しげもなく加熱調理に使う。それこそが大人の贅沢というものだ。
続いて野菜コーナーへ回り、旬のアスパラガス、瑞々しい新玉ねぎ、そして香りの強いマッシュルームを籠に入れる。
フルーツコーナーでは、熊本県産の立派な甘夏をチョイスした。
爽やかな酸味と独特の苦味が、濃厚なグラタンを食べた後の口直しには最適だろう。
最後に、地下1階のワインセラーへ足を運ぶ。
今日選んだのは、ブルゴーニュの名門が手がける白ワイン『シャブリ・グラン・クリュ』。
1997年ヴィンテージ。キリッとした鋭い酸味と強烈なミネラル感が、シーフードの濃厚な旨味を最高に引き立ててくれるはずだ。
外商部を通した定期購入枠であるため、担当者の顔パスで処理される。
すべての準備を整え、満足げな足取りで店を出た。
帰路、駅前の馴染みのフラワーショップに立ち寄る。
無機質なマンションのリビングに、少しばかりの彩りを加えたかった。
店内には春の花が溢れんばかりに咲き乱れていたが、選んだのは一過性の切り花ではない。
「これを2つ、いただけますか」
指差したのは、小ぶりながらも生命力に満ちた鉢植えの『ミニバラ』だ。
深紅と、純白。極端にコントラストが効いた二色を選んだ。
リビングの窓際にあるパキラの横に並べれば、部屋の空気も和らぐだろう。
★★★★★★★★★★★
帰宅後、制服から着心地の良いカジュアルなシャツに着替え、リネンのエプロンを締めた。
広大なアイランドキッチンの上に、厳選した食材を整然と並べていく。
テレビもラジオもつけない。まな板を叩く音、水が流れる音。その調理の音そのものを楽しむ。
まずはホワイトソースのベース作りからだ。
厚手の銅鍋に発酵バターをたっぷり溶かし、振るった小麦粉を丁寧に炒めていく。
焦がさないよう、弱火でじっくりと。ナッツのような香ばしい香りが立ってきたら、冷蔵庫から出したばかりの冷たい牛乳を少しずつ加えて伸ばしていく。
ダマになるのを防ぐため、ホイッパーで円を描くように一定の速度で混ぜ合わせる。
滑らかなシルクのようなクリーム状になったら、ゲランドの塩、挽きたてのホワイトペッパー、そして隠し味としてナツメグを指先で一摘み。これでソースのベースは完璧だ。
次にメインの具材の準備に取り掛かる。
ホタテと海老は、少量の白ワインでさっと蒸し焼きにし、凝縮された海の旨味を内側に閉じ込める。
新玉ねぎとマッシュルームは、別のフライパンでバターと共に炒め、野菜本来の甘みを極限まで引き出した。
アルデンテに茹で上げたマカロニと共に、これらをホワイトソースの海へと絡める。
さらに、たっぷりのズワイガニの身を投入。
大きな耐熱皿に均一に盛り付け、その上からグリュイエールチーズとパルミジャーノ・レッジャーノを、おろし金でたっぷりと削りかける。
最後に上質なパン粉を散らし、小さな冷たいバターを点々と乗せる。
200度に完璧に余熱されたオーブンの中央へ。
焼成されるのを待つ間に、甘夏の皮を丁寧に剥いていく。
薄皮まで取り除き、ルビーのように輝く果肉だけをクリスタルの器に盛る。スペアミントの葉を添えれば、見た目にも涼やかなデザートの完成だ。
バゲットは厚めにスライスし、軽くトーストして小麦の香りを立たせる。
――チーン、という軽快な電子音が静かな室内に響き渡る。
オーブンの扉を開けると、そこには黄金色の焦げ目がついたグラタンが、グツグツと幸せそうな音を立てて鎮座していた。濃厚なチーズと魚介の芳醇な香りが、キッチン全体、そしてリビングまで一気に満たしていく。
ダイニングテーブルに料理を運び、リーデルのワイングラスに冷えたシャブリを注ぐ。
黄金色の液体が、天井のダウンライトに照らされて美しく輝く。静かに手を合わせた。
「いただきます」
まだ熱々のグラタンを木製のスプーンで掬い、口に運ぶ。
熱い吐息を漏らしながら噛み締めると、濃厚なホワイトソースと魚介の旨味が口内ではじけた。
ホタテの甘み、海老のプリプリとした食感、そしてカニの繊細な風味。それらを二種類のチーズの力強いコクが完璧に包み込んでいる。
そこに、キリッと冷えたシャブリを流し込む。
鋭い酸味がチーズの脂を鮮やかに切り、シーフードのミネラル感と同調して、口の中を至福の状態へとリセットする。
トーストしたバゲットにソースをたっぷりとつけて頬張るのも、また格別だ。
誰かとこの感動を共有したいという思いもないわけではないが、今の俺には、この静寂の中で己の感覚と対話する孤独こそが、最大のリターンであると感じていた。
★★★★★★★★★★★
充実した食事を終え、デザートの甘夏をゆっくりとつまみながら、リビングの大きなソファに深く身を沈める。
最新式のホームシアターのリモコンを操作し、プロジェクターを起動させた。
今日観るのは、先日レンタルショップで入会特典を使って借りてきた、もう一つのDVD。
スティーヴン・スピルバーグ監督の傑作、『プライベート・ライアン』だ。
100インチを超える巨大なスクリーンに映し出されるのは、1944年、ノルマンディー上陸作戦の凄惨な戦場。
高性能のスピーカーから部屋全体を震わせる銃声、爆発音、そして兵士たちの悲痛な叫び。
徹底したリアリズムで描かれる生と死の境界線。
オマハ・ビーチの絶望的な状況下で、恐怖に震えながらも前進を命じるミラー大尉。その極限状態における人間の精神力と、泥にまみれた兵士たちの姿が、圧倒的な映像美と音響で迫ってくる。
弾丸が容赦なく肉体を切り裂き、透明だった海が瞬く間に赤黒い血で染まっていく。
それは、今まさに享受している、この平穏で贅沢な日常とは完全なる対極にある残酷な世界だ。
ワイングラスをゆっくりと揺らしながら、食い入るように画面を見つめた。
トム・ハンクス演じるミラー大尉の、迷いと覚悟が混じり合った瞳に、いつしか自身の覚悟を重ね合わせていた。
この1999年から始まる新しい世界で、俺はいったい何を守り、何を成し遂げるべきなのか。
映画がエンディングを迎え、静かな余韻が部屋を支配する頃には、ワインのボトルは既に半分ほど空いていた。
心地よいアルコールの酔いが、全身をゆっくりと巡っている。
最後の一口となったシャブリを、喉の奥へとゆっくりと流し込んだ。




