第14話 桜色の寿司と行動経済学の夜
昼休みの学園は、午前の重苦しい授業から解放された生徒たちの喧騒と熱気で満ちていた。
俺は混雑する廊下を避け、中庭の隅にある木陰のベンチへと腰を下ろした。微かに吹き抜ける風が、ブレザーの下にこもった熱を程よく冷ましてくれる。ボトルの冷たいミネラルウォーターを喉に流し込んでいると、視界の端に小柄な影が差した。
「……あ、西園寺くん。ここにいたんだ」
桜木さんだった。
一昨日の放課後、俺の車の後部座席でずぶ濡れになりながら声を殺して泣いていた姿とは打って変わり、今日の彼女は憑き物が落ちたように晴れやかな表情をしていた。ショートボブの黒髪が心地よい風に揺れ、健康的な頬には本来の血色が戻っている。
彼女は俺の隣に座る許可を目線で求め、俺が短く頷くと、握り拳一つ分の距離を置いて静かに腰を下ろした。
「一昨日は、本当にありがとう。……車、汚れちゃったよね。本当にごめんなさい」
「気にすることはありません。舞に指示してクリーニングに出しました。すでに元通りです」
「ううん、そういうことじゃなくて……気持ちの問題。西園寺くんがあの時声をかけてくれなかったら、私、もっと惨めな気持ちで、自分を責めながら帰ってたと思う」
桜木さんは膝の上で指を組み、真っ直ぐに前を見つめた。その視線の先には、グラウンドで砂煙を上げながらサッカーに興じる翔太の姿がある。以前の彼女なら、その瞳には慈愛や、危なっかしい幼馴染を案じる心配の色が浮かんでいたはずだ。だが今、彼女の瞳に宿っているのは、見知らぬ他人の挙動を眺めるような、静かで、どこか乾いた光だけだった。
「私ね、決めたの。もう翔太の世話は焼かない。……あいつが宿題を忘れても、お昼ご飯がなくて困っても、私はもう知らない」
「良い決断です。それは彼を一人の大人として自立させる機会を与えることでもあり、何より桜木さん自身が自分の人生を取り戻すための第一歩になる」
「うん。……なんかね、すごくスッキリしたの。今までなんであんなに必死に、嫌われないように顔色を窺ってたんだろうって」
桜木さんは自嘲気味に、しかし力強く笑った。幼馴染という名の呪縛。十数年の時間をかけて強固に編み上げられた関係性を断ち切るのは、並大抵の意志では不可能だ。だが、あの一昨日の雨と、翔太が見せた決定的で無自覚な拒絶が、彼女の未練をすべて洗い流したようだ。
今の彼女は、守られるべき少女ではなく、自分の足で大地を踏みしめる一人の女性として、非常に鮮やかに見えた。
「……あ、そうだ。これ、受け取って?」
桜木さんは制服のポケットから、透明なフィルムで丁寧に包まれた小さな包みを取り出した。
「お礼。……お弁当は、また今度、君の好みをちゃんとリサーチしてから作るから。これは今日のおやつに食べて」
「いただきます。桜木さんの実家は評判の洋食屋だ。その娘が作るマドレーヌなら、味は保証付きだろう」
俺が受け取ると、彼女はパァッと春の花が咲くような眩しい笑顔を見せた。その笑顔に向けられる感情が、以前のような「庇護者としての安堵」ではなく、明確な「一個人の男性に対する好意」へと変質しつつあることを、俺は微かな空気の変化として感じ取っていた。
放課後。俺はハイヤーを渋谷で降り、馴染みのレンタルショップへと足を向けた。先日借りた『アルマゲドン』と『プライベート・ライアン』の銀盤をカウンターで返却し、そのままDVDコーナーへと進む。週末の夜、静寂の中で自分と向き合うための新たな「物語」を探すためだ。
VHSの背表紙が壁のようにそそり立つ店内で、新設されたばかりのDVDコーナーはまだ小規模だが、そこには選りすぐりのタイトルが並んでいた。
俺が手に取ったのは、2本のケースだ。
1本目は、リュック・ベッソン監督の『レオン』。孤独な殺し屋と、すべてを失った少女の魂の交流を描いた傑作。
2本目は、『ショーシャンクの空に』。理不尽な絶望の中にありながら、希望という名の武器を捨てなかった男の物語。
どちらも派手なエンターテインメントではないが、人間の本質と、環境に抗う意志の強さを問う、今の俺の心境に共鳴する作品だ。
「……これにするか」
年間会員の特典を利用し、手際よく会計を済ませる。数十円、数百円の節約だが、資本を動かす者にとってコスト意識を欠くことは致命的な欠陥となる。巨万の富を築こうとも、無益な出費を垂れ流すことは俺の美学に反する。
店を出たその瞬間、ポケットの携帯電話が振動した。液晶には「隼人」の二文字。
『よぉ西園寺! 今どこだ?』
「渋谷だが。DVDの調達を終えたところだ」
『ちょうどいい! 俺もセンター街にいんだよ。……ボウリング行こうぜ、ボウリング! 昨日のリベンジだ!』
隼人の声は、弾むボールのように活き活きとしていた。
先日、翔太が桜木さんを誘って一蹴されていたボウリング。皮肉な巡り合わせだが、隼人と行くのであれば、それは社交ではなく「勝負」としての色合いが強くなるだろう。
「いいだろう。駅前のセンターか」
『おう! 遅れた方がジュース奢りだかんな!』
合流し、俺たちはオイルの匂いが漂うレーンに立った。
隼人はマイボールこそ持っていないものの、ハウスボールの中から自分に最適な重量と指穴のピッチを瞬時に見抜き、慣れた手つきで構える。流れるような助走から放たれたボールは、美しいカーブを描いてポケットへ吸い込まれた。
――ガシャーン!
耳を劈くような快音と共に、10本のピンが粉々に砕け散る。
「っしゃあ! 見たか、この完璧なポケットヒット!」
「やるな。……だが、フォームに微かなブレがある。次はそこを狙わせてもらうよ」
俺もまた、最もバランスの良い14ポンドのボールを手に取った。
前世で数え切れないほどの接待ボウリングをこなし、取引先の役員を気持ちよく勝たせつつも、自分のスコアはきっちりまとめるという技術を叩き込まれた記憶が蘇る。余計な力は入れず、レーンの奥にあるスパットだけを見つめ、自然な振り子運動でボールをリリースした。
――ゴロゴロ……パァーン!
乾いた破裂音と共に、ピンが放射状に弾け飛んだ。ストライクだ。
その後も、互いに譲らないハイレベルな攻防が続いた。最終的に3ゲームを終え、俺のアベレージは210、隼人は195。僅差で俺の勝利となった。
「くっそー! なんで勝てねぇんだよ! お前、家で秘密の特訓でもしてんのか!?」
「まさか。ただ、昔ちょっとやり込んだ時期があってね。体が投げ方のコツを覚えていただけだ」
「嫌な奴! ……ほらよ、約束のコーラだ」
隼人は悔しがりながらも、清々しい笑顔でジュースを差し出してくれた。炭酸の刺激が、心地よい疲労を伴う喉を潤す。
翔太のように異性を釣るための口実としてスポーツを利用するのと、こうして真剣に技術を競い合うのとでは、得られる充足感の質が根本から違う。
「……サンキュな、西園寺。なんか、体の芯に溜まってた澱が消えた気がするわ」
「鷹森の件か」
「……まあな。あいつ、最近俺を追い出すために、他の先生たちにも根も葉もねぇ噂を流してやがる。だが、こうして体を動かしてると、あんな奴の存在なんてちっぽけに見えてくるぜ」
隼人の瞳には、不当な圧力に屈しない強い光が戻っていた。
安心しろ、隼人。舞による調査は最終段階に入っている。お前を追い詰めようとするその卑劣な罠、俺が根底から叩き壊してやる。
隼人と別れた直後、再び携帯電話が鳴った。今度は姉の摩耶からだ。
『もしもし玲央? 忙しいところ悪いわね!』
「珍しく殊勝ですね。今どちらですか」
『渋谷の駅ビルよ! あのね、マミーが急に「レオの新しいお城で、日本らしい晩餐を楽しみたいわ」って言い出したの。私も今からそっちに向かうから、おもてなしの準備、よろしくね!』
「……相変わらずの行動力ですね。承知しました。最低限の体裁は整えておきます」
『さすが私の弟! お酒は最高に美味しいのをお願いね、チャオ!』
一方的な断絶。
俺は小さくため息をつき、時計を確認した。母と姉、この二人の要求を満足させるには、生半可な準備では通用しない。だが、今から自宅で一から懐石料理を仕込むには、物理的な時間が足りず、リソースの配分としても非合理的だ。
俺は迷わず、東急本店の地下食品売り場、いわゆる「デパ地下」へと急いだ。
目指すは、銀座に本店を構える老舗料亭の惣菜コーナー。
熟練の職人が一粒ずつ丁寧に仕上げた『特上・海鮮ちらし寿司』の折詰めを三つ。宝石のように散りばめられたイクラ、穴子、そして桜色に染まった鯛の身が、春の情緒を象徴している。
さらに、京都の老舗料亭が手掛ける、京野菜の炊き合わせと旬の魚介をふんだんに使ったオードブルを確保した。メインと前菜の外枠はこれで完璧だ。
だが、すべてを既製品で済ませるのはホストとしての矜持が許さない。
鮮魚コーナーへ足を運び、まだ海水に浸っている大ぶりな活ハマグリと、目に鮮やかな三つ葉を買い求めた。温かい汁物だけは俺自身の手で作り、食卓に熱を吹き込む。
次に酒類コーナーへ。
選んだのは、山形の銘酒『十四代 本丸』。1999年当時でも、その人気はすでに神格化されており、一般の店頭に並ぶことは稀だ。だが、西園寺家の外商アカウントによる優先確保権を行使し、一本を無事に手に入れる。
さらに、乾杯用としてブルゴーニュの白、『モンラッシェ』のハーフボトルをワインセラーから救出した。
帰宅後、俺は超人的な手際で準備を開始した。
買ってきたちらし寿司とオードブルを、無機質なプラスチック容器から、有田焼の青磁の皿や、職人が磨き上げた輪島塗の器へと慎重に、かつ美しく盛り付け直す。空間の演出と器の選定。これだけで、一皿の価値は数倍に跳ね上がる。
並行して、鍋に利尻昆布とハマグリを沈め、静かに火を通す。貝がゆっくりとその口を開いた瞬間に、アクを丁寧に取り除き、一滴の薄口醤油と微量の塩で味を調える。最後に三つ葉を散らせば、最高級料亭の味にも引けを取らない吸い物が完成した。
すべての準備を終え、エプロンを外した瞬間にチャイムが鳴った。
「レオ! Surprise! 素敵な香りが玄関まで届いているわ!」
「お邪魔しまーす! うわ、これ本当にデパ地下の惣菜? 玲央が魔法でもかけたの?」
母と姉だ。
真紅のドレスを纏った母ソフィアと、洗練された都会の令嬢といった風情の姉・摩耶。二人が入室するだけで、ペントハウスの空気が一気に華やぐ。
「いらっしゃい。ちょうど準備が整ったところです。まずは『モンラッシェ』を」
俺は手際よくグラスを満たし、三人で静かに乾杯した。
「ん~、至福のひとときね。レオ、貴方は私の好みを神経質なまでに把握しているわ。怖いくらいにね」
「このお吸い物、ハマグリの出汁が濃くて……体の中に春が来るみたい。美味しい……」
母と姉は、ちらし寿司の色彩と温かな汁の味に感嘆の声を漏らした。外注の知恵を借り、自らの手で核となるエッセンスを加える。これも一種のレバレッジだ。
『十四代』の封を切ると、芳醇な吟醸香が場を支配した。
ビジネスの鉄火場も、学園での陰湿な駆け引きも今は忘れ、俺は西園寺家の長男として、二人の女性の機嫌を巧みに取る。新発売されたばかりのiMacのカラーバリエーションの話や、ノストラダムスの大予言で盛り上がるキャンパスの馬鹿馬鹿しいゴシップに耳を傾けながら、俺は静かに杯を重ねた。
嵐のような二人が去った後、リビングには心地よい静寂が戻った。
片付けを舞に任せず、俺自身の手で終えた後、俺はソファに深く沈み込んだ。
手元には、iモード事業の戦略立案のために読み進めている行動経済学の専門書がある。
『不確実性下の判断:ヒューリスティクスとバイアス』。
人間は常に合理的に動く経済人ではない。感情に支配され、偏見に流され、時に自らを破滅させるような非合理的な選択を繰り返す脆い生き物だ。その心理の動きを解明し、データとして扱うことが、次の時代の覇権を握る鍵となる。
ページを捲りながら、俺は今日一日の出来事を理論に当てはめてみる。
翔太の独善的な行動は「自己奉仕バイアス」と「現在性バイアス」の結果だろう。自分の都合の良いように世界を解釈し、将来的な損失を顧みない。
鷹森の隼人への執着は、おそらく「損失回避性」から来る、既得権益の維持に対する防衛本能の暴走だ。
そして桜木さんが翔太への依存から脱却できたのは、蓄積されたコストよりも将来の便益が上回ることを直感した、「サンクコスト効果」の克服に他ならない。
「……人間を知ることは、相場を知ることと同義か」
俺は読みかけのページに細い栞を挟み、分厚い専門書を静かに閉じた。
サイドテーブルに置きっぱなしになっていたグラスの底には、微かに日本酒の雫が残っている。明日からはまた、新たな事業の立ち上げと、鷹森を完全に排除するための容赦のないタスクが押し寄せてくる。
俺は立ち上がり、メインの照明を落とすと、静寂に包まれた寝室へと歩みを進めた。




