第14話 桜色の寿司と行動経済学の夜
1999年4月23日、金曜日。
一昨日の冷たい雨が嘘のように、今日の東京は穏やかな春の陽気に包まれていた。
昼休み。騒がしい教室を離れ、中庭のベンチで冷えたミネラルウォーターを飲んでいた。木漏れ日が水面に反射し、視界をキラキラと彩っている。初夏の匂いが混じり始めた心地よい風を胸いっぱいに吸い込んでいると、視界の端に小柄な影が差した。
「あ、西園寺くん。ここにいたんだ」
マナだ。
一昨日の放課後、ハイヤーの後部座席でずぶ濡れになって泣いていた姿とは打って変わり、今日の彼女は憑き物が落ちたように晴れやかな表情をしていた。
健康的なショートボブの黒髪が風に揺れ、少し太めの意思の強そうな眉の下、大きな瞳には本来の活き活きとした輝きが戻っている。彼女は隣に座る許可を目線で求め、こちらが小さく頷くと、控えめな距離を開けて腰を下ろした。
「一昨日は、本当にありがとう。せっかくの綺麗な車、汚しちゃって、ごめんなさい」
「気にすることはありません。クリーニングに出せば元通りです。それよりも、体調は?」
「全然大丈夫! むしろ、西園寺くんがいなかったら、私、もっと惨めな気持ちで帰って、心まで風邪引いてたと思う」
彼女は膝の上で細い指を組み、真っ直ぐに前を見つめた。
その視線の先、グラウンドの隅では、翔太が友人たちと騒がしくサッカーボールを追いかけている。
以前なら、その瞳には母親のような慈愛や、危なっかしい弟を見るような心配の色が浮かんでいたはずだ。だが今、彼女の瞳にあるのは、ただの「クラスメイトの一人を見る」ような、静かで乾いた光だけだった。
「私ね、決めたの。もう翔太の世話は焼かない。あいつがどんなに困っても、大事なものを忘れ物しても、もう知らない」
「良い決断です。それは、いつまでも『子供』から抜け出せない彼のためでもあり、何より貴女自身の人生を取り戻すためになる」
「うん。なんかね、すごくスッキリしたの。今までなんであんなに必死だったんだろうって」
マナは自嘲気味に、しかし清々しそうに笑った。
幼馴染という呪縛。十数年という時間をかけて強固に編み上げられた関係性を断ち切るのは、並大抵の覚悟ではない。だが、あの一昨日の雨が、彼女の中に沈殿していた未練をすべて洗い流したようだ。
自立の一歩を踏み出した今の彼女は、等身大の美少女として、驚くほど魅力的に見えた。
「あ、そうだ。これ、食べてほしいな」
マナは制服のポケットから、可愛らしくラッピングされた小さな包みを取り出した。
「昨日、お店の厨房を借りて焼いたの。手作りのマドレーヌ。お礼と言ってはなんだけど」
「いただきます。貴女のお菓子なら味は保証付きだ。午後のエネルギーにさせてもらいますよ」
受け取ってその場で包みを開け、一口かじる。上質なバターの芳醇な香りと、しっとりとした生地の優しい甘さが口いっぱいに広がった。美味しい、と素直に伝えると、彼女はパァッと花が咲くような満面の笑顔を見せた。
その笑顔に向けられる感情が、以前のような「幼馴染としての安堵」ではなく、「異性としての明確な好意」に変化しつつあることを、肌で敏感に感じ取っていた。
★★★★★★★★★★★
放課後。
ハイヤーを渋谷駅付近で降り、『TSUTAYA』の青と黄色の看板の下をくぐった。
火曜日に借りた『アルマゲドン』と『プライベート・ライアン』を返却するためだ。カウンターで手際よく処理を済ませ、再び、まだ棚の一部を占めるに過ぎない「DVDコーナー」へと足を向けた。
1999年の週末。まだストリーミングなどという概念が存在しないこの時代、物語を自宅で楽しむための儀式は、この銀色の円盤を手に取るところから始まる。
棚をじっくりと眺めていると、2本のタイトルが目に留まった。
1本は『レオン』。孤独な殺し屋と家族を失った少女の、切なくも純粋な愛を描いたリュック・ベッソン監督の金字塔。
もう1本は『ショーシャンクの空に』。無実の罪で投獄された男が、希望を捨てずに生き抜く不朽の名作。
どちらも派手なアクションや爆発はないが、人間の尊厳と絆を深く掘り下げたヒューマンドラマだ。今の少し落ち着いた気分にはこれ以上ない選択に思えた。
「今週はこの2本にするか」
ケースを手に取り、レジへと向かった。
店を出ると、ブレザーのポケットで携帯電話が震えた。隼人からの着信だ。
『よぉ西園寺! 今どこだ?』
「渋谷のTSUTAYAだ。DVDを借りてきたところだが、何か用か?」
『ちょうどいい! 俺も今、センター街にいんだよ。ボウリング行こうぜ、ボウリング! 体がなまって仕方ねぇんだ!』
隼人の声は、電話越しでも分かるほど弾んでいた。
先日、翔太がマナを誘って体よく断られていたボウリング。皮肉な巡り合わせだが、隼人と行くのであれば、それは「遊び」ではなく純粋な「スポーツ」としての真剣勝負になる。
「いいだろう。受けて立つ。場所は?」
『駅前のあのデカいボウリング場な! 負けた方が高い方のジュース奢りだかんな!』
合流後、喧騒に包まれたライトの下、レーンの前に立った。
隼人はマイボールこそ持っていないが、ハウスボールの中から自分に合う重さと指穴を瞬時に選び出し、慣れた手つきで構える。
助走からの、無駄のないスムーズな投球。ボールは美しい弧を描き、1番ピンと3番ピンの間――ポケットへと吸い込まれた。
――ガシャーン! という快音。
10本のピンが一斉に弾け飛ぶ。
「っしゃあ! 見たか、西園寺! これがストライクだ!」
「やるな。だが、リリースの瞬間に少し力が入っている。甘いな」
自分に合った重さのボールを手に取る。ボールの回転を意識し、ピンを見据えて静かに放つ。
――ゴロゴロ……パァーン!
寸分の狂いもなく中央を捉え、こちらも完璧なストライク。
その後もハイレベルな攻防が続いた。結局、3ゲームを投げ終えて、俺のアベレージは210、隼人は195。
わずか15ピン差での勝利だった。
「くっそー! なんで勝てねぇんだよ! お前、家で秘密のボウリング練習でもしてんのか!?」
「まさか。イメージトレーニングを数秒しただけだ」
「この嫌な奴! ほらよ、約束のコーラだ。一番デカいサイズにしといたぜ」
隼人は心底悔しがりながらも、約束通り冷え切ったジュースを差し出してくれた。喉を焼くような炭酸の刺激が心地よい。
隣のレーンでは、大学生らしき集団が酒を飲みながら騒いでいるが、この一角だけはアスリートのような純粋な熱気に包まれていた。翔太のように「女子目当ての手段」として遊ぶのと、こうして友人と互いの限界を競い合うのとでは、得られる充足感の質が根本から違う。
「サンキュな、西園寺。なんか、体の毒が抜けた気分だわ」
「鷹森の件か?」
「まあな。あいつ、最近また廊下ですれ違うたびにネチネチうるせぇんだよ。俺の足のことまで持ち出しやがって」
隼人の表情が一瞬、苦渋に曇った。だが、彼はすぐにそれをニカッと笑い飛ばした。
「ま、気にしてもしょうがねぇ! 俺は俺のやり方で、最後まで抗ってやるさ!」
「ああ。その意気だ。忘れるな、君は一人ではない」
舞から提出されるはずの最終調査報告書は、すでに形になりつつある。鷹森という学園の癌を摘出するためのメスは、すでに研ぎ澄まされている。もう少しの辛抱だ、相棒。
★★★★★★★★★★★
隼人と駅前で別れた直後、再び携帯電話が鳴り響いた。
姉の摩耶からだ。
『もしもし玲央? 今どこにいるの?』
「まだ渋谷ですが」
『ちょうどいいわ! マミーがね、どうしても今日、あんたの部屋で夕飯を食べたいって言い出して聞かないのよ。私も今からそっちに行くから、準備よろしくね!』
「相変わらず急ですね。分かりました、最低限の準備はしておきます」
『さすが愛してるわ弟よ! あ、お酒はとびきり高いのを期待してるから!』
一方的に通話が切れた。
やれやれ、嵐の予感がする。だが、世界的スターである母と、東大生の姉を同時にもてなすとなれば、並大抵の料理では納得しないだろう。
踵を返し、渋谷の誇る食の殿堂、東急本店のデパ地下へと急いだ。
今夜のメニューは、春らしく華やかで、かつ彼女たちの舌を満足させる和食にしよう。
鮮魚コーナーで、瀬戸内・明石産の天然桜鯛を一尾まるごと確保する。さらに、まだ活きのいい車海老、北海道産の極上いくら、そして一箱数万円は下らない最高級の生ウニを迷わず購入した。
メインは、春の食材を惜しげもなく使った『特製海鮮ちらし寿司』だ。
野菜コーナーでは、香りの強い旬の筍と三つ葉、そして肉厚な高級椎茸を。これらは茶碗蒸しとお吸い物の出汁を完成させるために必要だ。さらに、砂抜き済みの愛知県産の大アサリもカートに入れる。
酒の選択も重要だ。和酒コーナーを巡り、奇跡的に在庫のあった山形の幻の日本酒『十四代 本丸』を、外商ルートを使い裏から回してもらう。さらに、ワインセラーでブルゴーニュの白の最高峰、『モンラッシェ』のハーフボトルも購入した。和食の繊細な旨味に寄り添う、至高の一杯だ。
両手にずしりと重い高級食材の詰まった紙袋を提げ、ハイヤーで帰路についた。
★★★★★★★★★★★
帰宅し、制服のままキッチンに立つ。大急ぎで下準備を開始した。
米を研ぎ、利尻昆布を贅沢に入れて硬めに炊き上げる。その間に、合わせ酢を調合する。赤酢をベースに、きび砂糖と海塩で味を調え、角のないまろやかな酸味へと仕上げる。
桜鯛は慣れた手つきで三枚におろし、薄造りにする。皮目をサッと湯引きし、氷水で締める「松皮造り」を施すことで、見た目の鮮やかさと歯ごたえの両立を図る。
車海老は背わたを丁寧に取り除き、酒蒸しにしてから殻を剥く。紅白の美しいコントラスト。
筍は薄くスライスして出汁で甘辛く煮含め、錦糸卵は弱火でじっくりと、焦げ目を一箇所もつけずに焼き上げてから、髪の毛のように細く刻んだ。
炊き上がったご飯を木製の飯台に移し、熱いうちに合わせ酢を回しかける。「切るように」混ぜ、団扇で一気に扇いでツヤを出し、人肌の温度まで冷ます。
ここからが職人としての腕の見せ所だ。
酢飯の上に黄金色の錦糸卵を敷き詰め、その上に桜鯛、車海老、溢れんばかりのいくら、そしてウニを色彩のバランスを考えながら配置していく。最後に若々しい木の芽を散らせば、まるで宝石箱を開けたような『春の贅沢海鮮ちらし寿司』が完成した。
並行して、茶碗蒸しとお吸い物も仕上げる。お吸い物は、大アサリから出る濃厚なエキスを活かしたシンプルな仕立て。吸い口に柚子の皮を浮かべれば、気品ある香りが立ち上る。
準備が完璧に整った頃、インターホンの重厚なチャイムが鳴った。
「Leo! こんばんは! 会いたかったわ!」
「お邪魔しまーす! うわ、もういい匂いがしてる!」
母と姉だ。
母は燃えるような真紅のドレス、姉は上品なコンサバ風のワンピース。二人が並んで立つだけで、エントランスの空気は映画のセットのように華やぎ、圧倒的な存在感で満たされる。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ダイニングへ。お腹も空いているでしょう」
二人を案内し、まずは冷やしておいた『モンラッシェ』で再会を祝して乾杯した。クリスタルグラスが触れ合い、清らかな音が響く。
「ん〜! 最高! さすがレオ、私の好みを完璧に把握しているわね!」
「このお寿司、綺麗すぎて食べるのがもったいないわ。ねえ、写真撮っていい? あ、デジカメ忘れた!」
二人は、ちらし寿司の圧倒的なビジュアルに歓声を上げた。
桜鯛の繊細な旨味、ウニの濃厚な甘み、そして計算し尽くされた酢飯の酸味。すべてが調和し、口の中で至福の旋律を奏でる。
『十四代』の封を開けると、その芳醇な香りだけでさらに会話が弾んだ。
ビジネスの冷徹な緊張感も、学園での不透明な駆け引きも、この瞬間だけは霧散する。家族としての無条件の安らぎ。母のハリウッドでの愉快な失敗談や、姉の大学での他愛のない愚痴を聞きながら、静かに、しかし確かな充足感とともに杯を傾けた。
★★★★★★★★★★★
二人が嵐のように去り、夜も深まった頃。
部屋には再び、祭りの後のような心地よい静寂が戻っていた。
手早く片付けを済ませ、一息つき、ソファの背もたれに体重を預けた。
手元には、先日図書室で借りた行動経済学の専門書『予想どおりに不合理』がある。人間は決して合理的な経済人ではなく、感情やバイアスによって非合理的な選択を繰り返す生き物であるという前提に立つ学問だ。
静かなペントハウスで、ページをめくる微かな音だけが響く。
数ページ読み進めたところで本を閉じ、高い天井を見上げた。




