第15話 論理の家庭教師と浅草の休日
1999年4月24日、土曜日。
この年は公立学校では第2・第4土曜日が休業日となる移行期間の真っ只中だったが、私立の名門校である桜花学園もそれに準じて今日は休みとなっていた。
だが、進学校としての側面を持つ本校では、休日でも図書室や自習室が開放されており、熱心な生徒たちがちらほらと校門をくぐっていく姿が見える。
午前10時。静まり返った図書室の貸出カウンターに立っていた。
本日返却するのは2冊の専門書。
『大蔵省 権力と腐敗の構造』と、行動経済学の名著『予想どおりに不合理』だ。
どちらも、これから訪れる激動の21世紀初頭を読み解き、歪んだ市場を攻略する上で、非常に有用な視座を与えてくれた。
「返却ですね。期限内です、確認いたします」
図書委員の女子生徒が、手慣れた手つきで事務的にバーコードを読み取っていく。
そのまま高い天井まで続く書架へと向かい、新たな戦略のピースを探した。
分厚い背表紙が並ぶ棚を指でなぞりながら、次に選んだのは『プロパガンダ工作論』と『群衆心理』。
今の俺に必要な知識だ。
手続きを済ませ、閲覧席へ向かおうとすると、窓際の一角に見慣れた金髪の後頭部があった。
隼人だ。
彼は大きな頭を抱え、シャーペンを親の仇のように握りしめて唸っていた。
近づくと、彼は地獄で救世主を見たような目で顔を上げた。
「お、西園寺! 待ってたぜ!」
「城戸。本当に、休日まで登校して勉強しに来ていたとはな」
「当たり前だろ! 赤点取ったら補習地獄で部活停止になんだよ! 頼む、ここマジで教えてくれ。死んじまう」
彼が必死の形相で差し出したのは、数学1の教科書と、乱雑に書きなぐられたノートだ。
開かれているページは「二次関数」。多くの高校1年生が最初に直面し、挫折を味わう壁だ。
「なるほど。二次関数の最大値と最小値を求める、動く定義域の問題か」
「全然わかんねぇ。グラフが勝手に動くとか、意味不明だろ。固定しとけよ!」
隼人は根っからの感覚派、野性味の塊だ。
論理的な積み上げと抽象的な思考が必要な数学は、彼にとって苦行以外の何物でもないだろう。隣の席に座り、自前のノートパッドを取り出した。
「難しく考えるな。いいか城戸。二次関数のグラフは、『野球でボールを投げた時の軌道』だと思えばいい」
「ボールの軌道?」
「ああ。君はバッティングセンターで、打球が描く放物線の行方を常に注視しているだろう? あの空高く上がった打球の頂点。そこが『最大値』だ」
ペンを走らせ、簡略化した図を描きながら説明を続けた。
数式を無機質な記号として教えるのではなく、彼の得意とする身体感覚の領域に翻訳する。
定義域は、ボールが視界に入っている範囲。軸の移動は、投げる位置のズレや風の影響だ。
「打球の軌道……ここが頂点……あ、なんだ、そういうことか! 軸が範囲の中にあればいいのか!」
隼人の瞳に知性の光が灯った。
一度イメージさえ掴んでしまえば、彼の飲み込みは驚くほど速い。元々、ハイレベルなスポーツで培った卓越した空間把握能力を持っているのだ。ただ、それを学問という枠組みに応用する術を知らなかっただけだ。
「すげぇな、西園寺! お前、教えんのが上手すぎだろ。公民の真田のオッサンより100倍分かりやすいぜ」
「教師と比較するのは彼らに失礼だが。理解できたなら何よりだ」
「へへっ、これなら赤点回避どころか、平均点いけるかもな! サンキュ!」
隼人は嬉しそうにガッツポーズをした。
その濁りのない笑顔を見ていると、彼のような純粋な才能を、自身の歪んだ支配欲のために貶めようとする鷹森への怒りが、熱く湧いてくる。
この若者の可能性と明るさを、大人の汚い都合で潰させてたまるか。
鷹森排除への決意をより強固なものにした。
★★★★★★★★★★★
昼過ぎ。
隼人と別れた後、初夏の香りが混じり始めた渋谷の街へ出ていた。
夕方から母と出かける約束があるため、その前の時間調整として、最新のトレンドを自身の目で確認するためだ。
センター街を抜け、若者たちの熱気が澱む路地を抜け、少し落ち着いた神南エリアのカフェに向かおうとした矢先、路地の入り口で、見覚えのある女性が、柄の悪い男にしつこく絡まれているのを目撃した。
沙耶さんだ。
今日の彼女は、膝上の黒いタイトスカートに、薄手のシアー素材のブラウスという、少し攻めた大人びたファッションを纏っていた。
アンニュイな美貌。シャギーの入ったショートボブ、気だるげな瞳、そして口元のホクロ。
その独特の磁場のような美しさは、道行く人々の視線を無意識に釘付けにしていた。だが、今の彼女の表情は、明らかに深い不快の色を帯びていた。
「だからぁ、柚木ちゃんさぁ。俺らのサークル、マジで楽しいって! 合宿とか超盛り上がるし、女の子もみんなノリいいしさ!」
「興味ないって、さっきから言ってるでしょ。いい加減に手を離して」
「そんな冷たいこと言うなよ~。一度だけでいいからさ、この後の飲み会来なよ。俺が全部奢るしさ!」
相手は、典型的な「チャラい大学生」といった風情の男だ。
安っぽいシルバーアクセサリーをジャラつかせ、ブランドロゴが誇張されたTシャツを着ている。沙耶さんの細い腕を、強引に掴もうと身を乗り出していた。
彼女は心理学専攻の分析家だが、こういう原始的で物理的な強引さには分が悪い。
「失礼。私の連れになにか用ですか?」
迷うことなく二人の間に割って入った。
男の手が、沙耶さんの肌に触れる寸前で、その動きを制する。
「あ? なんだテメェ。ガキがすっこんでろよ、邪魔すんな」
「ガキではありません。彼女の待ち合わせ相手です」
感情を排した冷徹な視線で、男を真正面から見下ろした。
178cmの身長はまだ成長期の途上だが、その身に纏う空気の重圧は、本物の『強者』のものだ。
さらに、背後の通りの反対側には常に警護の車が待機している。その威圧感は、言葉にせずとも男に伝わったはずだ。
「チッ。なんだよ、男いんのかよ。シラケたな」
男は射抜くような眼光に気圧されたのか、最後は捨て台詞を吐いて、そそくさと雑踏の中へと退散していった。この手の手合いは、引き際だけは本能的に早い。
「災難でしたね、沙耶さん。怪我はありませんか?」
「あ、西園寺くん?」
沙耶さんは驚いたように大きな目を丸くし、それから大きく肩の力を抜いて安堵の溜息をついた。
「助かったわ。ああいう手合い、論理的な言葉が1ミリも通じないから苦手なの。心理学以前の問題だわ」
「お怪我がないなら、何よりです」
「ええ、平気よ。ふふ、また助けられちゃったわね。素敵なナイトに」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、バッグから細い煙草を取り出そうとして、静かな視線に気づいてピタリと手を止めた。
「あ、そうだったわね。君の前じゃ、大人の女のハッタリは通じないんだった」
「ええ。ファッションなら、もっと健康的なアイテムをお勧めしますよ」
「相変わらず、可愛くないわねぇ。じゃあ、お礼に付き合ってよ。ちょうど、最悪な気分をリフレッシュしたいと思ってたの」
彼女は手を迷いなく引き、足早に歩き出した。
向かった先は、渋谷の雑居ビルの中にある、当時は最先端だったカラオケボックスだった。
★★★★★★★★★★★
薄暗く、独特の煙草の匂いが染み付いたカラオケルーム。
1999年当時、カラオケは若者文化の、そしてコミュニケーションの中心地だった。
沙耶さんは、まだ最新ではなかったデンモクではなく、分厚い電話帳のような歌本をパラパラとめくり、壁に取り付けられたリモコンで番号を入力していく。
「まずは私からね。これ、今の私の気分にぴったりなの」
重厚なベースのイントロが部屋を震わせた。椎名林檎の『歌舞伎町の女王』だ。
1998年にデビューしたばかりの彼女の楽曲は、その攻撃的で退廃的な世界観が、沙耶さんの持つアンニュイな雰囲気に見事にマッチしていた。
ハスキーで芯のある歌声が、狭い個室の空気を支配する。
マイクを握る指先の角度、伏せられた長い睫毛、気だるげにリズムを刻むステップ。
彼女はただ機械的に歌っているのではない。その曲が持つ情念の世界を完璧に「演じて」いた。
普段のクールな心理学者の仮面の下にある、激しい情動の断片が垣間見えるようだ。
「上手いですね。その辺のアイドルより、よほど魂がこもっている」
「あら、お世辞? でも、悪い気はしないわね。次は西園寺くんの番よ」
歌い終え、上気した顔で冷たいアイスティーを喉に流し込んだ彼女が、マイクを向けてきた。
「まさか、年下のオーナーさんは歌が苦手、なんて言わないわよね?」
「手加減はしませんよ、沙耶さん」
選んだのは、L'Arc~en~Cielの『HONEY』。
この時代の爆発的なヒット曲なら、すべて網羅している。
大人の色気を微かに意識しつつ、低音の魅力を最大限に引き出して歌い上げた。
沙耶さんはソファに深く身を預け、顎を引いてじっと口元を見つめていた。その瞳は、やはり鋭い「分析」の色を帯びていたが、次第にそれは純粋な心酔へと変わっていく。
「へえ。歌い方まで大人そのものなのね。君、本当に高校生?」
「ただ少し、背伸びをしているだけですよ」
「嘘ばっかり。でも、その底知れないギャップ、私、嫌いじゃないわ」
彼女は楽しそうに声を上げて笑い、次の曲を予約した。
宇多田ヒカルの『First Love』、浜崎あゆみの『Depend on you』、そしてDragon Ashの『Grateful Days』。
1999年という世紀末の音楽シーンを鮮やかに彩る名曲たちを、俺たちは交互に、時にデュエットするように歌い続けた。
★★★★★★★★★★★
カラオケ店を出た後、沙耶さんと駅で別れて自身のハイヤーへ向かう途中だった。
渋谷スクランブル交差点の、押し寄せるような人混みの中で、帽子を目深に被り、大きなサングラスをかけた小柄な人物とすれ違った。
一瞬肩が触れ、目が合っただけで、すぐに確信が持てた。
くるみさんだ。
彼女も正体に気づいたようで、周囲の視線を避けるように、足早に路地の隅へと移動し、手招きをした。
「レオ? こんなところで何してんのよ。サボり?」
彼女はサングラスを少しだけずらし、猫のような上目遣いで捉えた。
驚異的な美貌。今日はオフなのか、オーバーサイズのパーカーにデニムというラフな格好だが、それでも隠しきれない「選ばれた者」のオーラが溢れ出していた。
「友人と少し、情報の交換とリフレッシュをしていただけですよ。くるみさんこそ、今日はお忍びですか?」
「ん、まあね。次のシングル、絶対に外したくないから。スタイリストに丸投げしないで、自分の足で109のトレンドをチェックしておきたくてさ」
彼女は少し照れくさそうに、しかし誇らしげに語った。
「感心ですね、くるみさん。そのプロ意識があれば、次も必ず成功します」
「うん! 109で最高のアクセサリーも見つけたし、イメージは固まったわ。あ、そうだ。今度の着メロサイトのCM撮影、来週の土曜日だったわよね?」
「ええ。現場には、オーナーとして俺も顔を出します。楽しみにしていますよ」
「ホント!? じゃあ、気合入れなきゃ。オーナーに『やっぱり大したことないな』なんて思われたくないしね!」
彼女は八重歯を見せてニカッと笑った。
その笑顔には、かつて事務所の経営危機に怯えていた数日前のような影は微塵もない。
「期待しています。では、また現場で」
「うん、またね、レオ!」
短い対話だったが、彼女との信頼関係が、より深い次元で結ばれつつあるのを感じた。
彼女は再び渋谷の雑踏の中へと、一人の力強い女性として消えていった。
★★★★★★★★★★★
夕方。
ハイヤーで母と合流し、下町の情緒が残る浅草に来ていた。
「日本の伝統的な美意識に触れたい」という、彼女の強いリクエストだ。
世界的ハリウッド女優が浅草観光とはいささかアンバランスだが、彼女の本音は単に、息子との穏やかな時間を楽しみたいだけなのだろう。
雷門の前。
母は変装用の大きなサングラスをかけていたが、その圧倒的なプロポーションと、一歩一歩がレッドカーペットを歩いているかのような洗練された所作は、隠しようもなく周囲の目を引いていた。
匂い立つような圧倒的な美貌。
「Leo! Look at this! あの赤い大きな提灯、なんて力強いの!」
「母さん、あまり大きな声を出さないでください。変装の意味がなくなりますよ」
「いいじゃない。今の私は、可愛い息子に甘えるただの観光客よ?」
母は少女のようにはしゃぎ、歴史ある仲見世通りを歩き出した。
人形焼、雷おこし、揚げ饅頭。
目につくものを次々と買い食いしようとする母を、苦笑しながら、しかし優しくエスコートした。
「あまり食べ過ぎると、今夜の夕食が喉を通りませんよ」
「大丈夫、別腹よ。ほら、レオも一口食べなさい。はい、あーん!」
母は焼きたての人形焼を、俺の口元に運んできた。
甘いあんこの風味が口の中に広がる。こうして並んで歩いていると、彼女がアカデミー賞女優であることを完全に忘れてしまいそうになる。
ただの、息子を誇りに思い、慈しむ一人の母親。
浅草寺でお参りを済ませた頃には、周囲は夜の帳に包まれていた。
ライトアップされた五重塔が、漆黒の夜空に鮮やかに、そして幻想的に浮かび上がっている。
「綺麗ね。日本の夜は、華やかさの奥に、どこか切なくて高潔な美しさがあるわ」
母は手すりに寄りかかり、瞬く夜景を見つめた。
その横顔は、昼間の無邪気さとは打って変わり、静かな知性と慈愛に満ちていた。
「レオ。貴方は今、とても重いものを背負おうとしているわね。私の目には、そう見えるわ」
「気づいていましたか。やはり、母さんには隠し事はできませんね」
「母親だもの。ビジネスも、学園生活も、貴方なりに全力で楽しんでいるようだけど、無理だけはしないで。貴方がもし壊れてしまったら、私の人生はそこでおしまいよ」
母の温かな手が、俺の頬に優しく触れた。
ハリウッドの栄光も、西園寺財閥の権威も関係ない、ただ無償の愛を注いでくれる手。
この温もりだけは、俺が何歳になっても、どれほどの富を築いても、決して敵わない。
「大丈夫ですよ。俺は、貴女が命をかけて生んでくれた息子ですから」
「ふふ、そうね。私の、世界でたった一人の自慢の王子様だもの」
母は満足そうに深く微笑み、俺の腕をしっかりと取った。




