第16話 ギャルの指先と翡翠の天丼
昨夜、浅草観光を満喫してはしゃぎ疲れた母を定宿の高級ホテルへと送り届け、俺は自分のペントハウスで静かな朝を迎えていた。
いつもの時間に起床し、リビングで挽きたてのモーニングコーヒーを飲みながら、何気なくテレビの電源を入れる。
画面に映し出されたのは、早朝の民放特有のハイテンションな通販番組だった。大袈裟なリアクションで商品の魅力を褒めちぎる司会者と、「放送終了後30分以内!」というモニター価格を強調する派手なテロップ。
紹介されている商品は「高枝切り鋏」と「腹筋を鍛えるダイエット器具」だ。
「……お電話、お待ちしております! 今すぐ画面下のお電話番号まで!」
ブラウン管の画面には、フリーダイヤルの数字が画面の三分の一を占めるほどの大きさで表示されている。
番組側もオペレーターを増員して対応しているのだろうが、アナログな電話回線ではピーク時に混み合えば繋がらない。何より、注文を確定させるためには、わざわざ電話機の前に座り、十桁の番号をプッシュし、オペレーター相手に自分の住所や氏名、クレジットカード番号を口頭で伝えなければならない。
「……非効率極まりないな」
俺はリモコンでテレビを消した。
この「自ら電話をかける」という行為の心理的ハードルは、購買意欲を削ぐ大きな摩擦になっている。
これからの時代を担う若者たちは、リアルタイムの音声通話そのものを億劫がり始めている。彼らが求めているのは、もっと直感的で、衝動的な購買体験だ。
手の中にある小さな端末で完結し、欲しいと思ったその数秒後には決済が完了している世界。
俺の脳裏に、新たなビジネスモデルの青写真が精密な線を描いていく。
爆発的に普及し始めた『iモード』というインフラを利用した、モバイル・エレクトロニック・コマース。
着メロや待受画像といった形のないデジタルコンテンツの市場を開拓した次は、必ず「実体のあるモノ」が携帯電話の画面上で動く時代が来る。その土壌は、すでに整いつつあるのだ。
午後。
俺は肌で市場の熱量を感じるため、渋谷の街へと足を運んでいた。
スペイン坂の途中にある、テイクアウト専門の小さなドリンクスタンド。ここは感度の高い若者たちが吸い寄せられるように集まるスポットだ。
俺が注文したのは、『ブラックパールミルクティー』。
いわゆるタピオカミルクティーだ。90年代後半に一度ブームを起こし、今や若者の間で定番化した感のある飲み物。極太のストローで底に沈んだ黒い粒を吸い上げ、モチモチとした独特の食感を楽しむ。
「……悪くない。適度な糖分と、この咀嚼を促す食感は癖になるな」
俺はプラスチックのカップを片手に、ガードレールに軽く腰掛けて周囲の生態系を観察した。
目の前を行き交うのは、濃いブラウンのファンデーションに目の周りを白く塗ったガングロメイク、足元には凶器のような厚底ブーツを履き、制服のスカートを限界まで短くした女子高生たち――いわゆる「コギャル」と呼ばれる層だ。
彼女たちの手には、例外なくストラップをじゃらじゃらとつけた携帯電話やPHSが握られている。
歩きながらでも目にも止まらぬ速さで親指を動かし、ショートメールやポケベル打ちで、友人たちと絶え間なくメッセージを送り合っている。
彼女たちのほとんどは、自宅に自分専用のパソコンを持っていない。
キーボードでのタッチタイピングはできなくても、携帯電話のテンキー入力なら世界中の誰よりも速く、そして正確だ。
ここだ。
PCベースのインターネット通販がまだ全くリーチできていない、巨大で未開拓の購買層。
彼女たちをターゲットにした、「携帯電話の画面と親指だけで完結する」プラットフォームを作る。
「新規事業の柱は……『モバイルオークション』と『アパレル・コスメ特化型通販』か」
俺は胸ポケットから手帳を取り出し、湧き上がる構想を箇条書きで書き殴った。
渋谷や原宿の古着屋、人気のセレクトショップと提携し、若者向けブランドをiモード上の公式メニューで販売する。
あるいは、彼女たちが持っている不要なブランド品や服を、携帯のカメラ機能が普及したタイミングで個人間売買できるオークションサイトを構築する。
iモードの契約者数は、現在も垂直に立ち上がるようなグラフを描いて伸びている。
この波の頂点に乗れば、システムを構築してプラットフォームを解放するだけで、毎月数千万円、いや数億円の手数料収入が自動的に転がり込んでくる。
ゴールは明確だ。
2000年代前半、ITバブルが弾ける直前の最も市場が熱狂しているタイミングでIPO(株式公開)を果たし莫大なキャピタルゲインを得るか、あるいは大手通信キャリアに事業ごとバイアウトする。
「……よし。帰ったらすぐに舞へ市場調査の指示を出そう」
俺は手帳を閉じ、最後の一粒のタピオカをストローで吸い込んだ。
舌に残るミルクティーの甘い後味が、確かな勝利の予感に変わる。
センター街の喧騒を抜け、ハイヤーを待たせている駅の方へ戻ろうとした時だった。
雑多な人混みの中で、ひときわ目を引く女性とすれ違った。
派手な装いのギャルたちとは対照的な、活動的でありながら清潔感のある出で立ち。
明るいイエローの薄手サマーニットに、トレンドを取り入れたカーキ色のカーゴパンツ。足元は歩きやすそうなハイテク系のスニーカーだ。首元には華奢なシルバーのネックレスが光っている。
初夏の日差しを浴びて健康的に輝くショートカットの黒髪。
涼さんだった。
「……涼さん」
「ん? ……あ、レオ!」
彼女は俺の声に気づくと、パァッと表情を明るくして小走りで駆け寄ってきた。
その警戒心のない無邪気な仕草は、かつて不良グループを束ねていた幹部だったとは信じがたいほど愛らしい。
「奇遇ですね。今日は渋谷で買い物ですか?」
「うん。高校時代からずっと続けてるバイトの給料が入ったからさ、新しいスニーカー買いに来たんだ。……レオは? 休みなのに、また難しい顔して歩いてたけど」
「少し、マーケティングの視察を兼ねた人間観察をしていました。この街のエネルギーの奔流は、新しいビジネスのヒントになりますから」
「出た、社長発言。ホント可愛くないなぁ、ボンは。たまには年相応にクレープでも食べて笑いなよ」
涼さんはケラケラと笑い、俺の背中をバンと遠慮なく叩いた。
手加減しているつもりなのだろうが、日頃から鍛え抜かれ、体幹がしっかりしている彼女の一撃はそれなりに重い。
「……痛いですよ。背骨が折れるかと思いました」
「へへっ、ごめんごめん。……でもさ、あんまり一人で根詰めんなよ? 眉間にシワ寄ってると、せっかくの顔が台無しだぞ?」
「肝に銘じておきます。……涼さんは、大学での生活はどうですか?」
「すっごく楽しいよ! 講義の内容は難しいけどさ、自分の知らない世界を知れるのってワクワクするし。……教師になるって夢に、毎日少しずつ近づいてる気がするんだ」
彼女は眩しそうに目を細め、スクランブル交差点の先を見上げた。
その横顔には、自分の意志と力で人生を切り拓こうとする人間の、本質的な強さと美しさがあった。
俺が路地裏で彼女を助けた時、彼女は過去のしがらみと暴力に縛られていた。
だが今は、自らが選んだ未来だけを真っ直ぐに見据えている。
その鮮やかな変化が、俺にとっても純粋に誇らしかった。
「……応援していますよ。涼さんなら、きっと生徒の痛みが分かる、素晴らしい教師になれます」
「ありがと。……レオにそうやって断言されると、なんか説得力あるんだよなー。年下のくせに」
彼女は少し照れくさそうに鼻の頭を擦った。
「じゃ、アタシあっちのスポーツショップ見てくるから。……またな、レオ! 今度会った時は、アタシがなんか美味いもん奢ってやるよ!」
「ええ。楽しみに待っていますよ」
手を振って去っていく彼女の背中は、颯爽としていて格好良かった。
俺は彼女が人波に紛れて見えなくなるまで見送り、再び自分の歩みを進めた。
帰路、俺はハイヤーを降りて、いつものように東急本店のデパ地下へと向かった。
休日の夕食、今日のテーマはすでに決まっている。
「初夏の訪れ」だ。
青果コーナーの平台で、目にも鮮やかな緑色のそら豆を見つけた。
鹿児島産の『一寸そら豆』。一つ一つの粒が大きく、火を通せばホクホクとした食感が楽しめる極上品だ。
これと合わせるメイン食材を探しに鮮魚コーナーへ向かい、狙い通りに『芝海老』を発見する。
かき揚げにするなら、肉厚なブラックタイガーやバナメイエビではなく、殻が柔らかく、揚げた時に特有の強い甘みが出る芝海老に限る。
「……そら豆と芝海老のかき揚げ丼。悪くない組み合わせだ」
その他に、箸休めとなるさっぱりとした京漬物の盛り合わせと、お吸い物の具材として生結び湯葉と三つ葉を購入。
さらに、日本茶専門店で最高級の『加賀棒茶』を手に入れた。
一番茶の茎だけを焙煎したその芳ばしい香りが、揚げ物の油を口の中からさっぱりと流してくれるはずだ。
帰宅後。
俺はシャツを腕まくりし、エプロンを締めて広大なキッチンに立った。
そら豆はふかふかとした鞘から出し、黒い筋の反対側に浅く切れ目を入れて薄皮を剥く。中から現れた鮮やかな翡翠色が美しい。
芝海老は丁寧に殻を剥き、背わたを取ってから少量の酒と塩で揉み洗いして臭みを抜く。
新玉ねぎを少々、角切りにして加えることで、かき揚げ全体に優しい甘みを足す。
ボウルに水気を切った具材を入れ、薄力粉をまぶす。
ここが天ぷらの仕上がりを左右する重要なポイントだ。打ち粉を具材一つ一つにしっかりと纏わせることで、衣が薄くても均一につき、油の中でバラバラにならずサクッと揚がる。
衣は、キンキンに冷やした冷水と卵、そして薄力粉をざっくりと混ぜ合わせるだけだ。箸で混ぜすぎて粘り気を出してしまえば、衣は重く野暮ったい食感になってしまう。
揚げ油は、コクを出す太白胡麻油と、軽さを出すサラダ油のブレンド。温度計で正確に170度をキープする。
具材を衣にくぐらせ、木べらの上に乗せて形を整え、鍋の縁から静かに油へ滑らせる。
――ジュワアアァァッ……!
水分が弾ける軽快な音が、静かなキッチンに響き渡る。
油の中で具材が華やかに踊る。菜箸で数カ所を突いて適度に空気を入れ、中心部の水分を飛ばしていく。
そら豆の緑と、海老の赤が熱に反応してより鮮やかに発色してくる。
最後に油の温度を少しだけ上げてカラリと揚げきり、しっかりと油を切ってバットに上げる。
丼つゆは、濃いめに引いた鰹出汁に、醤油、味醂、そしてコクのあるザラメを加えてとろみがつくまで煮詰めたもの。
炊きたての魚沼産コシヒカリを丼に盛り、揚げたての巨大なかき揚げを鎮座させ、熱々のつゆを上から回しかける。
――ジュッ。
つゆがサクサクの衣に染み込む心地よい音。醤油と胡麻油の香ばしい香りが爆発的に立ち上る。
並行して、お吸い物は一番出汁に少量の塩と薄口醤油で味を調え、湯葉と三つ葉を浮かべる。
急須で丁寧に淹れた加賀棒茶からは、空間を浄化するような芳しい焙煎香が漂っていた。
完璧な手際だ。
ダイニングテーブルにつき、静かに手を合わせる。
「いただきます」
かき揚げ丼を一口頬張る。
サクッとした小気味よい衣の食感の直後、そら豆のホクホクとした甘みと初夏の香り、そして芝海老のプリプリとした弾力が口いっぱいに広がる。
甘辛く濃厚なタレが熱々のご飯に絡み、箸が止まらない。
油の重さを感じ始めたところで、熱い加賀棒茶を一口含む。香ばしさが口内を優しく包み込み、すべてをリセットして心地よい余韻へと変えていく。
京漬物の酸味と塩気をつまみ、再び丼へ。
これは、どんな高級料亭の出前でも絶対に味わえない「油から上げて一秒後」の特権的な贅沢だ。
食事と後片付けを終え、俺はリビングのソファに深く腰を下ろした。
シアターセットのリモコンを手に取る。
今日観るのは、先日TSUTAYAで借りてきた二本のDVDのうちの一本。
リュック・ベッソン監督の『レオン』だ。
部屋の照明を落とすと、巨大なプロジェクターの光がスクリーンに投射された。
画面の中で、ジャン・レノ演じる無骨で孤独な殺し屋と、ナタリー・ポートマン演じる家族を惨殺された少女マチルダの、奇妙で痛切な共同生活が始まる。
鉢植えの観葉植物を大切に育てる不器用な愛と、圧倒的な暴力が支配する裏社会。
俺は新しく淹れ直した加賀棒茶をすすりながら、その対比が織りなす映像美に見入った。
映画の終盤。
悪徳麻薬捜査官スタンスフィールドとの、アパートメントでの壮絶な銃撃戦。
そして、マチルダを逃がすための、レオンの最期の選択。
スティングの『Shape of My Heart』の物悲しいギターのアルペジオが流れるエンドロールを、俺は無言のまま最後まで見届けた。
画面が完全に暗転し、リビングに再び完全な静寂が戻る。
俺はリモコンでプロジェクターの電源を落とし、空になった湯呑みを手に取って立ち上がった。
キッチンで茶器を洗い、布巾で丁寧に拭き上げてから食器棚へ戻す。
休日が終わる。
明日の月曜からは、また容赦のない相場と、ビジネスの実務が始まる。
俺はペントハウスの消灯スイッチを押し、暗闇に包まれた寝室へと静かに足を進めた。




