第16話 ギャルの指先と翡翠の天丼
1999年4月25日、日曜日。
昨日の浅草観光の心地よい疲れも見せず、いつもの時間に起床し、朝日が差し込むリビングでモーニングコーヒーを飲んでいた。
挽きたての豆の香りに包まれながら、何気なくつけたテレビでは、早朝の通販番組が流れている。
大袈裟なリアクションで商品を褒めちぎる外国人司会者の吹き替えと、モニター価格を強調する派手なテロップ。
紹介されている商品は、驚異の切れ味を誇る高枝切り鋏と、貼るだけで腹筋が割れるダイエット器具。いかにも、世紀末の深夜から早朝にかけてのラインナップだ。
「お電話、お待ちしております! オペレーターが増員して対応中! 今すぐお電話を!」
画面にはフリーダイヤルの番号が大きく表示されている。
オペレーターが増員されて対応しているとはいえ、回線が混み合えば繋がらない。注文するには、わざわざ電話機の前に座り、番号をプッシュし、住所や氏名を口頭で伝えなければならない。クレジットカードの番号を読み上げるのも、心理的な抵抗感が強い時代だ。
非効率だ。
リモコンでテレビを消す。
この「電話する」という行為の物理的・心理的ハードルは、若年層にとっては極めて高い。既に若者たちは、電話をかけることを億劫がり始めている。彼らが求めているのは、もっと直感的で、衝動的な購買体験だ。
手の中にある小さな端末で、欲しいと思った瞬間に決済が完了する世界。
脳裏に、新たなビジネスモデルの青写真が鮮明に描かれていく。
iモードというインフラを使った、モバイル・エレクトロニック・コマース。
着メロや待受画像といったデジタルコンテンツの次は、必ず「モノ」が動く時代が来る。
午後。
マーケティングリサーチのため、休日の渋谷に来ていた。
スペイン坂の途中にある、テイクアウト専門のドリンクスタンド。ここは感度の高い若者たちが集まる、最先端のスポットだ。
注文したのは、ブラックパールミルクティー。いわゆるタピオカミルクティーだ。
太いストローで、底に沈んだ黒い粒を吸い上げ、モチモチとした食感を楽しむ。
面白い食感だな。確かに癖になる。
カップを片手に、ガードレールに腰掛けて周囲を観察する。
行き交うのは、ガングロメイクに厚底ブーツ、ミニスカートの女子高生たち。彼女たちの手には、例外なく携帯電話やPHSが握られている。目にも止まらぬ速さで親指を動かし、ショートメールやポケベル打ちでメッセージを送り合っている。その速度は、熟練のタイピストをも凌駕するほどだ。
彼女たちは、パソコンを持っていない。キーボードでのタッチタイピングはできなくても、携帯電話のテンキー入力なら誰よりも速い。
PCベースのインターネット通販がまだリーチできていない、巨大な未開拓の購買層。
彼女たちをターゲットにした、携帯電話だけで完結するプラットフォームを作る。
渋谷や原宿の古着屋、セレクトショップと提携し、若者向けブランドをiモード上で販売する。あるいは、彼女たちが持っている不要なブランド品や古着を、携帯ひとつで売買できるオークションサイト。
手帳を取り出し、構想を書き留める。
手帳を閉じ、最後の一粒のタピオカを飲み込んだ。甘いミルクティーの味が、喉の奥へと落ちていく。
センター街を抜け、駅の方へ戻ろうとした矢先。
雑多な人混みの中で、一際目を引く透明感を纏った女性とすれ違った。
派手なギャルたちとは対照的な、シンプルで清潔感のある装い。白のTシャツに、色落ちしたヴィンテージデニム。腰にはチェックのシャツを巻いている。
化粧っ気のない肌は透き通るように白く、バッサリと切り揃えられたショートカットの黒髪が、初夏の日差しを浴びて輝いていた。中性的な危うさと美しさを併せ持つ美少女、涼さんだ。
「涼さん」
「ん? あ、玲央!」
彼女は気づくと、パァッと表情を明るくして駆け寄ってきた。その無邪気な仕草は、かつて不良グループの幹部だったとは信じがたいほど愛らしい。
「奇遇ですね。買い物ですか?」
「うん。バイトの給料入ったからさ、新しいスニーカー見に来たんだ。玲央は? また難しい顔して歩いてたけど」
「少し、考え事をね」
「ホント可愛くないなぁ、ボンは」
涼さんはケラケラと笑い、背中をバンと叩いた。手加減しているつもりだろうが、元レディースで体幹がしっかりしている彼女の一撃は、結構重い。
「痛いですよ、涼さん」
「へへっ、ごめんごめん。でもさ、あんまり根詰めんなよ? 眉間にシワ寄ってると、せっかくの顔が台無しだし、モテないぞ?」
「肝に銘じます。涼さんは、大学はどうですか?」
「楽しいよ! 講義は難しいけどさ、知らないこと知れるのってワクワクするし。教師になるって夢、少しずつ近づいてる気がするんだ」
彼女は眩しそうに目を細め、スクランブル交差点の空を見上げた。
その横顔には、自分の力で人生を切り拓こうとする人間の強さと、希望に満ちた美しさがあった。路地裏で震えていた彼女はもういない。未来だけを見ている。
彼女の強さが、俺にとっても誇らしかった。
「応援していますよ。貴女なら、きっと生徒に慕われる良い教師になります」
「ありがと。玲央に言われると、なんか説得力あるんだよなー。年下のくせに」
彼女は少し照れくさそうに鼻を擦った。
「じゃ、アタシあっちの店見てくるから。またな、玲央! 今度なんか奢ってやるよ!」
「ええ。楽しみにしています」
手を振って去っていく彼女の背中は、颯爽としていて格好良かった。守りたくなる儚さと、頼りたくなる強さが同居しているのだ。
彼女が見えなくなるまで見送り、再び歩き出した。
帰路、いつものように東急本店のデパ地下へと立ち寄った。
今日の夕食のテーマは「初夏の訪れ」だ。
青果コーナーで、鮮やかな緑色のそら豆を見つけた。鹿児島産の『一寸そら豆』。大粒でホクホクとした食感が特徴だ。
これと合わせるのは、鮮魚コーナーの『芝海老』。
かき揚げにするなら、ブラックタイガーやバナメイエビではなく、殻が柔らかく甘みの強い芝海老に限る。
良い組み合わせだ。
油の箸休めとなる京漬物の盛り合わせと、お吸い物用に結び湯葉と三つ葉を購入する。さらに、日本茶専門店で最高級の『加賀棒茶』を手に入れた。香ばしい焙煎香が、揚げ物の油をさっぱりと流してくれるはずだ。
帰宅し、エプロンを締めてキッチンに立つ。
そら豆は鞘から出し、薄皮を剥く。鮮やかな翡翠色が美しい。
芝海老は殻を剥き、背わたを取って酒で洗う。新玉ねぎを少々、角切りにして加えることで甘みを足す。
ボウルに具材を入れ、打ち粉をまぶす。ここがポイントだ。打ち粉をしっかりすることで、衣が薄くても均一につき、サクッと仕上がる。
衣は、冷水と卵、薄力粉をざっくりと混ぜる。混ぜすぎてグルテンを出してはいけない。
揚げ油は太白胡麻油とサラダ油のブレンド。170度に熱する。
具材を衣にくぐらせ、木べらに乗せて静かに油へ滑らせる。
ジュワアアァァッ!
軽快な音がキッチンに響く。
油の中で具材が踊る。菜箸で突いて適度に空気を入れ、水分を飛ばす。
そら豆の緑と、海老の赤が鮮やかに発色してくる。
最後に温度を上げてカラリと揚げ、バットに上げる。
丼つゆは、鰹出汁、醤油、味醂、ザラメを煮詰めた濃厚なもの。
炊きたての魚沼産コシヒカリを丼に盛り、揚げたてのかき揚げを乗せ、熱々のつゆを回しかける。
ジュッ。
つゆが衣に染み込む音と共に、香ばしい香りが爆発する。
お吸い物は、一番出汁に塩と薄口醤油で味を調え、湯葉と三つ葉を浮かべる。急須で淹れた加賀棒茶からは、芳しい香りが漂う。
ダイニングテーブルにつき、手を合わせる。
「いただきます」
かき揚げ丼を一口。
サクッとした衣の食感の後、そら豆のホクホクとした甘みと独特の香り、芝海老のプリプリとした弾力が口いっぱいに広がる。甘辛いタレがご飯に絡み、箸が止まらない。
濃厚な味わいを、熱いほうじ茶が洗い流してくれる。京漬物の酸味と塩気が、絶妙なアクセントになる。店では味わえない、揚げたて一秒の贅沢だ。
食事を終え、リビングのソファに移動した。
シアターセットのリモコンを手に取る。今日観るのは、先日借りてきたもう一本のDVD、リュック・ベッソン監督の『レオン』だ。
画面の中で、ジャン・レノ演じる孤独な殺し屋と、ナタリー・ポートマン演じる少女マチルダの奇妙な共同生活が始まる。
不器用な愛と、非情な暴力の世界。
ほうじ茶をすすりながら、画面に見入った。
レオンは文字が読めず、社会との接点を持たないが、その腕一本でマチルダを守ろうとする。不器用な男の生き様に、静かに胸を打たれる。
大切なものを守るという覚悟において、彼のような強さを持ちたいと素直に思わされた。
映画の終盤。悪徳刑事スタンスフィールドとの壮絶な銃撃戦。
そして、レオンの最期の選択。
スティングの『Shape of My Heart』が流れるエンドロールを、無言で見送った。
名作だ。
空になった湯呑みを置いた。




