第17話 扇動の教科書と深紅のパスタ
1999年4月26日、月曜日。
ゴールデンウィークを目前に控え、街全体がどこか浮き足立っている週明けの朝。
通学中のハイヤーの後部座席で、揺れを感じさせない快適な革張りのシートに背を預け、一冊の分厚い本に没頭していた。
『プロパガンダ工作論』。
先日の土曜日に図書室で借りた専門書だ。
第一次大戦中の情報操作から、現代の広告戦略や政治的扇動に至るまで、大衆心理を誘導し、意図的な方向へと動かすためのメソッドが体系化されている。
「なるほど。『単純化』と『敵の明確化』、そして『バンドワゴン効果』か」
万年筆を取り出し、重要なフレーズをノートに書き留める。
バンドワゴン効果。ある選択肢を多数が支持しているという現象が、さらなる支持者を呼び込む心理効果。いわゆる「勝ち馬に乗る」心理だ。
これから本格的に仕掛ける「着メロ」および「モバイルEC」事業において、これらの古典的な理論はそのまま最強のマーケティング戦略に転用できる。
ターゲットは、渋谷に集う女子高生たち。ルーズソックスやプリクラといった流行を生み出す彼女たちのコミュニティに、「これを買わないと遅れている」「これが今の最強のトレンドだ」と信じ込ませる空気を作る。
論理や機能性ではない。感情と帰属意識に訴えかける。
それが、1999年という熱狂の時代に、爆発的なブームを生むための鉄則だ。
「オーナー。朝から随分と怖い顔をなさっていますよ」
運転席の舞が、バックミラー越しに苦笑する気配がした。
今日の彼女は、ライトベージュのパンツスーツ姿だ。陶器のように白く滑らかな肌と、全てを見通すような知的な瞳。完成された美貌は、朝の光の中で隙のない美しさを放っている。
「失敬。少し集中しすぎていたようだ」
「ふふ、また何か、世間をあっと言わせるような悪いことを企んでいるお顔でした。ですが、その真剣な横顔も嫌いではありません」
舞は楽しげにハンドルを切った。
普段は完璧な秘書として振る舞う彼女だが、こうした二人きりの空間で見せる柔らかい表情は、年相応の女性の可愛らしさを感じさせる。
★★★★★★★★★★★
1限目、古文。
連休前の気だるさが漂う教室で、教壇に立つ初老の教師が、出席簿を片手に気だるげに指名した。
「えー、では次の段落。城戸、読んで訳せ」
指名されたのは、隣の席で船を漕ぎ、爆睡しかけていた隼人だ。
彼はビクリと椅子を鳴らして跳ね起き、慌てて教科書を開いたが、自分がどこを読んでいるのかすら分かっていない様子で目を泳がせた。
「えっと……あー……どこだっけ」
隼人の視線が宙を彷徨う。
教師の眉間に、深い皺が寄り始めた。
このままでは、「たるんどる!」という長時間の説教タイムが始まり、貴重な授業時間が浪費されてしまう。
自分の教科書の端に、今の該当箇所とその現代語訳を走り書きした付箋を貼り、音もなく隼人の机の端に滑らせた。
「34ページ、6行目だ」
誰にも聞こえない声量で囁く。
隼人は地獄に仏を見たような顔で付箋を凝視し、咳払いをして読み上げた。
「『春の夜の夢の浮橋とだえして、峰に別るる横雲の空』。えーと、春の夜の夢のように儚い夢の浮橋が途絶えて、峰から離れていく雲が漂う空のように、心細い気持ちです?」
たどたどしい読み方だが、意味は概ね合っている。
教師は意外そうに眉を上げたが、とりあえず納得したようだ。
「まあいい。座れ。次は寝るなよ」
隼人は大きく息を吐いて着席した。
そして、教科書の陰でこちらに向かって手を合わせ、拝むポーズをした。
「マジ助かった……! サンキュな西園寺、一生ついてくわ!」
「安い一生だな、城戸。次は自分で予習してくれ」
「へへっ、努力します!」
隼人はニカッと、少年らしい屈託のない笑顔を見せた。
単純だが、その裏表のなさは彼の美徳だ。彼のような人間が、理不尽な大人に潰されることなく、こうして笑っていられる環境を守る。それもまた、力を振るう理由の一つだ。
2限目の後の休み時間。
移動教室のため廊下を歩いていると、向こうから凛とした、しかしどこか冷ややかな空気を纏った女子生徒が歩いてきた。
霧島先輩だ。
生徒会副会長としての腕章を左腕につけ、艶やかな黒髪をなびかせて歩く姿は、さながら学園を巡視する女王のようだ。日本人離れした彫りの深いエキゾチックな美貌。すれ違う生徒たちが、そのオーラに気圧されて思わず道を開けてしまうほどの存在感がある。窓から差し込む光が、彼女の顔に深い陰影を作っていた。
「霧島先輩。おはようございます」
立ち止まって挨拶をすると、彼女も足を止めた。
以前のような刺すような敵意はないが、相変わらず人を容易には寄せ付けない、高い壁を感じる。
「おはよう、西園寺くん。今日はあの、奇声を発するご友人は一緒ではないの?」
「城戸のことですね。彼は今、購買のパン争奪戦へダッシュしています」
「そう。貴方も大変ね、猛獣使いみたいで」
彼女はフッと、小さく、しかし美しく笑った。
皮肉めいているが、その表情は以前よりもずっと柔らかい。親友である結衣先輩を助けた一件以来、彼女の中でこちらへの評価が少しは変わったようだ。
「猛獣の方が、裏表がなくて扱いやすいですよ。人間の方がよほど複雑で、厄介です」
「同感ね。特に、笑顔で近づいてくる人間ほど信用できないわ」
彼女の瞳に、ふと暗く重い陰が差した。
没落の危機にある霧島家に群がる、有象無象の大人たちや足元を見ようとするハイエナたちのことを思い出しているのだろう。気丈に振る舞ってはいるが、プライド高い少女が一人で背負うには、あまりに重すぎる荷物だ。
「先輩。無理はなさらないでくださいね。結衣先輩も心配していましたよ」
「っ……! 余計なお世話よ。私は、霧島家の娘としての義務を果たしているだけ」
彼女はツンと顔を背けたが、その白く形の良い耳は、僅かに赤くなっていた。
弱みを見せることを極端に嫌うプライドの高さ。だが、それこそが彼女の魅力であり、同時に危うさでもある。
一礼して、その場を離れた。
彼女が本当に追い詰められ、その誇りが折れそうになった時、手を差し伸べる準備はできている。
★★★★★★★★★★★
放課後。学校を抜け出し、都内のテレビ局の控え室を訪れていた。
オーナー権限による顔パスだ。
雑然としたメイク道具や台本が積まれた部屋の中では、くるみさんが参考書と問題集の山に埋もれ、頭を抱えていた。
「う~……わかんない! なんで歴史ってこんなに年号多いのよ! 1192年でいいじゃん!」
頭を抱える彼女は、収録の衣装のままだった。
フリルのついた華やかなアイドル衣装に身を包んでいるが、その表情は受験生のように必死だ。圧倒的な小顔に猫のような大きな瞳。国民的美少女としての輝きは、悩んでいても損なわれないどころか、その一生懸命さが魅力を増幅させている。
「お疲れ様です、くるみさん。クイズ番組の予習ですか?」
「あ、レオ! ちょうどいいところに来た! これ教えて! 全然わかんない!」
彼女は顔を見るなり、問題集を突きつけてきた。
ゴールデンタイムの人気クイズ番組への出演が決まり、また「おバカキャラ」として扱われるのを避けるために、プライドを懸けて猛勉強しているらしい。前回の逃亡劇を経て、彼女は仕事に対してより貪欲に、そして能動的になっている。アイドルの裏の努力として、その姿勢は高く評価できる。
「どれどれ、『鎌倉幕府の成立年は?』。現在は1185年説が有力ですが、テレビ的には一般認知度の高い1192年と答えておけば無難でしょう」
「えっ、変わったの!? 教科書と違うじゃん! 詐欺よ詐欺!」
「歴史認識は常にアップデートされますからね。次、『太陽系の惑星で、最も大きいのは?』」
「えっと……土星? 輪っかあるし、強そうじゃん」
「残念、木星です。土星は2番目ですね」
次々と出される問題に、即座に、かつ記憶に残りやすいエピソードや語呂合わせを加えて解説していく。
くるみさんは目を丸くして感心している。
「あんた、ホントになんでも知ってんのね。中身おじいちゃん入ってるんじゃない?」
「博識と言ってください、くるみさん。それに、くるみさんの地頭は悪くない。単に知識の引き出し方が整理されていないだけです」
彼女の思考の癖を見抜き、連想ゲームのように知識を繋げる方法を教える。
彼女の瞳が、次第に輝きを取り戻していく。
「そっか! 丸暗記じゃなくて、流れで覚えればいいんだ!」
「その通りです。くるみさんならできますよ」
微笑むと、彼女は嬉しそうにニカッと八重歯を見せて笑った。
その笑顔は、カメラに向けられる作り物ではなく、少女の素顔だった。
「ありがと、レオ! これで本番もバッチリかも! 賞金取ったら、なんか奢ってあげるからね!」
「楽しみにしていますよ」
彼女のモチベーションは完全に回復したようだ。
彼女の頭をポンと軽く撫でて、控え室を後にした。
★★★★★★★★★★★
テレビ局を出た後、渋谷の『タワーレコード』へ向かった。
音楽CDの販売ランキングと、試聴機に群がる若者たちの動向を肌で感じるためだ。
店内には最新のJ-POPがエンドレスで流れ、至る所に巨大なポスターが貼られている。フロアは熱気に包まれており、CDが最も売れていた時代のエネルギーが充満していた。
この熱量を、そのままビジネスの燃料に変える。
携帯を取り出し、舞に電話をかける。
「オーナー。お疲れ様です。テレビ局での用事は済みましたか?」
「ああ。彼女のケアは完了した。ところで舞、例の雑誌広告の件だ」
「はい。リストアップは済んでおります」
「『egg』と『Cawaii!』、それと『Popteen』。これらの表4と中面のカラーページを、年間契約で押さえろ」
「全誌、ですか? かなりの広告宣伝費になりますが」
断言する。
「構わない。手元資金のうち、システム開発費を除く残りは全て広告に突っ込む」
PCベースの巨人が、まだガラケー市場を「子供の遊び場」と軽視している今が好機だ。女子高生たちのバイブルであるファッション誌をジャックし、そこに自社のモバイルオークションサイトと着メロサイトのQRコードを載せる。
『携帯で服が買える』『レアな着メロが手に入る』。その文化を、彼女たちの間に浸透させる。
「在庫は持つな。アパレル店舗と提携し、注文が入ったら店舗から直送させるドロップシッピング形式だ。我々はシステムと集客だけを担う」
「なるほど。リスクを極限まで減らしつつ、手数料を取るモデルですね」
「そうだ。そして、サイトのイメージモデルには、再ブレイク中の天童くるみを起用する」
クイズ番組で知名度を上げつつある彼女を広告塔に据えることで、相乗効果を狙う。完璧な布陣だ。
「承知いたしました。オーナーの描く未来図、楽しみにしております」
「期待していてくれ。では、帰るよ」
通話を切り、渋谷の喧騒を見下ろした。
この街のエネルギーを、全てビジネスの燃料に変えてやる。
★★★★★★★★★★★
帰路、高級スーパー『紀ノ国屋』に立ち寄る。
今夜の夕食は、あえて庶民的なメニューを最高級の食材で作ることに決めていた。
『ナポリタン・スパゲティ』だ。
パスタは、イタリア産の最高級ブランドの2.2ミリの太麺。具材には、自家製の熟成パンチェッタと、有機栽培の玉ねぎ、ピーマン、マッシュルーム。そして味の決め手となるケチャップは使わず、完熟トマトから煮詰めた特製トマトソースと、隠し味に赤ワインと熟成ウスターソースを使う。
飲み物は、ガラス瓶に入ったインポートものの高級コーラと、台湾産の最高級凍頂烏龍茶だ。
帰宅後、キッチンに立った。
パスタを表示時間より長く茹で、一度冷水で締めてから油をまぶして数時間寝かせる。これで、老舗喫茶店のナポリタンのような、独特のモチモチとした食感が生まれる。
パンチェッタをじっくり炒めて脂を出し、野菜を投入。そこに特製ソースと寝かせたパスタを加え、強火で煽る。フライパンの中で麺とソースが絡み合い、焦げたソースの香ばしい匂いが立ち上る。
「完成だ」
深紅に染まったナポリタンを皿に盛り、パルメザンチーズとパセリを振る。
フォークで巻き取り、口に運ぶ。濃厚なトマトの旨味と、パンチェッタの塩気、そしてモチモチの太麺。大人の深みがある味わいだ。そこに、スパイシーな高級コーラを流し込む。炭酸の刺激が濃厚な味をリセットし、次の一口を誘う。完璧なマリアージュだ。
食後、リビングの照明を落とし、シアターセットを起動する。
今日観るのは、『ショーシャンクの空に』。
無実の罪で投獄された銀行員アンディが、絶望的な状況の中で希望を捨てずに生き抜く物語だ。
画面の中で、アンディは理不尽な暴力に耐えながらも、静かに、そして確実に自由への道を掘り進めていく。雨の中で両手を広げ、ついに自由を手にするシーンの美しさとカタルシス。そしてラストの、青い海辺での静かな再会。
凍頂烏龍茶の香りを楽しみながら、画面に見入った。
ただただ、その映像の持つ力と、人間の希望の尊さに胸を打たれる。
「いい映画だ」
呟き、リモコンを置いた。




