第8話 チョークの弾道と放課後の解呪
1999年4月16日、金曜日。
週末を目前に控えて短縮日課となった学園は、昼過ぎには解放されるという特有の開放感が漂い、教室に独特の浮ついた空気を生み出している。
3限目、公民。
教壇に立っているのは、生活指導補佐も務める真田厳だ。
45歳。角刈りに太い眉、安物のスーツの上からでも分かる分厚い胸板。昭和の熱血刑事ドラマから抜け出してきたような強面教師は、厚みのある出席簿を武器のように構え、教室内を鷹のような鋭い眼光で見回していた。
「……おい、そこの! 欠伸を噛み殺すとはいい度胸だなぁ!」
真田の怒声が、静まり返った教室に響く。
最前列で居眠りしかけていた男子生徒が、飛び上がるようにして姿勢を正した。この真田という教師は、生徒の自主性よりも規律と服従を絶対視する、典型的なスパルタ教育者だ。授業内容は教科書をなぞるだけの陳腐なものだが、その緊張感だけは戦場並みだった。
「基本的人権の尊重……ふん、権利ばかり主張して義務を果たさん若者が増えたものだ。いいか、社会に出れば甘えは通用せんぞ!」
真田は黒板に向き直り、乱暴な筆致で板書を始めた。その隙に、クラスのあちこちで小さな私語が漏れる。俺は背筋を完璧に伸ばしたまま、手元のノートパソコンで米国市場の引け値と週末のニュースをチェックしていた。
無論、真田には「熱心に授業のメモを取っている」と思わせるよう、キータイプ音は最小限に抑え、視線は定期的に黒板へと向けている。
ふと視界の端で、斜め前の翔太が、隣の席の友人に消しゴムを投げようと不用意に身を乗り出した。少年らしい、あまりに軽率で隙だらけの動き。
黒板に向かっていたはずの真田が、まるで背中に目がついているかのような速度で振り返った。
「――たるんどるッ!!」
怒声と共に、真田の太い右腕が唸りを上げた。
指先から放たれたのは、1本の白いチョーク。それはプロ野球のピッチャー顔負けの豪速球となって、一直線に翔太……ではなく、その射線上にいた俺の顔面へと迫った。
とばっちりだ。翔太を狙ったコントロールが甘かったのか、あるいは不気味なほど落ち着いている俺を狙い撃ちしたのか。どちらにせよ、通常の反射神経では回避不能なタイミング。
だが、俺の動体視力はそれをスローモーションのように捉えていた。
大人の精神が命じる合理的判断と、今生で鍛え上げた肉体。俺は視線を画面から外すことすらなく、首をわずか数センチだけ、最小限の予備動作で左に傾けた。
――ヒュッ、という鋭い風切り音。
チョークは俺の右頬の数ミリ横を通り抜け、そして俺の後ろの席で隠れて漫画を読んでいた隼人の額に、バシィッ! と小気味よい音を立ててクリーンヒットした。
「いってぇぇ!! 真田、なにすんだコラァ!」
「貴様だ城戸ォ! 授業中に漫画とは舐めているのか! その根性を叩き直してやる!」
「はぁ!? 今投げたのお前だろ! 西園寺が避けなきゃ当たってねぇんだよ!」
ギャーギャーと騒ぎ出す隼人と真田。教室内がドッと沸く中、俺は何食わぬ顔でパソコンの画面を見つめたまま、心の中で謝罪した。
(……悪いな、城戸。だが、君の石頭なら無傷で済むと確信していたよ)
真田は「西園寺……貴様、今見ていなかったはずだが」と狐につままれたような顔で俺を凝視している。俺は涼しい顔で「何かありましたか、先生」と返すだけだ。
無駄な被弾はしない。それが資産管理においても、学園生活においてもリスク管理の基本だ。
★★★★★★★★★★★
4限目が終わり、ホームルームが解散となった。
生徒たちは「やっと休みだ!」と歓声を上げ、鞄を掴んで教室を飛び出していく。そんな中、日直の仕事を任されていたマナが、1人黒板の前で粉まみれになっていた。
健康的なショートボブが似合う、愛らしい顔立ちの少女。弾けるような笑顔が魅力の彼女だが、今は黒板消しを手に、精一杯背伸びをしていた。
「あれ、翔太? どこ行くの? 日直、まだ終わってないよ?」
マナが、教室を出ようとする翔太に声をかけた。今日の日直は、マナと翔太の2人だ。黒板を消し、学級日誌を記入する義務がある。
だが、翔太はサッカーボールを小脇に抱え、悪びれもせずに振り返った。
「わりぃマナ! 俺、サッカー部の見学行く約束しちゃってさ! 先輩待たせてるから、あと頼むわ!」
「えっ、ちょっと翔太!? まだ日誌も書いてないのに!」
「サンキュー! マナならすぐ終わるだろ? 明日なんか奢るからさ、じゃあな!」
翔太はマナの返事も聞かず、風のように廊下へと消えていった。
残されたマナは、ぽつんと黒板の前で立ち尽くしていた。その華奢な肩が、がっくりと落ちる。
「……もう。いつもこうなんだから。しょうちゃんは……」
溜息をつき、彼女は再び黒板に向き直った。黒髪が、寂しげに揺れる。
156cmという彼女の小柄な身長では、真田が力任せに書いた黒板上部の文字には、背伸びをしても手が届かない。何度もジャンプをして消そうとするが、どうしても上の方に消し残しができてしまう。
チョークの粉が舞い、彼女の制服や綺麗な髪に白く降り注ぐ。その姿は、健気というよりは、あまりに不憫で見ていられなかった。
幼馴染という甘い関係性に依存し、彼女の労力を当然のように搾取する翔太。そして、それを「仕方ない」と飲み込んでしまうマナ。その不健全な共依存を断ち切る機会は、今ここにある。
音もなく席を立ち、彼女の背後に近づいた。
彼女がまた無理にジャンプしようとした、その瞬間。スッと手を伸ばし、彼女の手から黒板消しを無言で取り上げた。
「……え?」
驚いて振り返るマナ。彼女がどうしても届かなかった高い位置の文字を、軽い一撫でで消し去った。
「……西園寺、くん?」
「日向くんは、桜木さんを家政婦か何かと勘違いしているようですね。あるいは、自分の手足の一部だとでも思っているのか」
淡々と言いながら、残りの文字も効率的な動作で消していく。黒板消しを滑らかに走らせ、数秒後、黒板は本来の深い緑色を取り戻した。
「あ、ううん! 違うの、私が勝手に世話焼いてるだけだし……翔太、部活のことですごく張り切ってるみたいだから」
マナは慌てて翔太を庇おうとする。だが、その瞳には隠しきれない諦めと、長年の献身が生んだ疲労の色が滲んでいた。
「……桜木さん」
作業を終えて黒板消しを置き、彼女と視線を合わせた。
まっすぐに、その大きな瞳を見つめ、確信を告げる。
「桜木さんの時間は、桜木さんだけのものです。他人の不始末を埋めるために浪費していい資源ではない。……もっと、自分を大切にすべきだ」
「え……」
「桜木さんのやりたいことはないんですか? 早く帰って店を手伝いたいとか、友達と映画に行きたいとか。……日向くんの人生ではなく、貴女の人生を生きてください」
彼女は言葉を失い、視線を伏せた。図星だったのだろう。
それ以上彼女を追い詰めることはせず、机に置いてあった通学鞄を手に取った。ルーズソックスが似合う健康的な脚が、微かに震えている。
「送りますよ。荷物が重そうだ。……『キッチン・チェリー』の看板娘を、粉まみれで帰すわけにはいきませんから」
「えっ、そ、そんなの悪いよ! 自分で持てるし……第一、西園寺くんの家とは逆方向でしょ?」
「日直の仕事は俺が引き継ぎます。日誌も完璧に書いておきましょう。……さあ、行きましょうか」
有無を言わせぬ落ち着いたトーンで告げ、歩き出した。
マナは一瞬呆気にとられていたが、慌てて小走りで隣へと追いかけてきた。
「ま、待ってよ西園寺くん! ……あ、ありがとう……」
隣に並び、彼女は少し恥ずかしそうに上目遣いで俺を見上げた。
その頬が、春の陽光を受けてほんのりと朱に染まっている。
突然の優しさに戸惑いながらも、翔太への長年の想いと、今の新鮮なときめきの間で、彼女の心が静かに揺れ動いているのを感じた。
★★★★★★★★★★★
マナを実家の洋食屋まで送り届けた後、俺は駅前のドラッグストアに立ち寄った。
マンションに備え付けておきたい消耗品があったこともあるが、ここに「ある人物」がいると把握していたからだ。
店内は週末の昼下がりらしく、買い物客で賑わっていた。
レジカウンターの奥。気だるげに品出しの作業をしている女性店員の姿があった。
退廃的でアンニュイな空気を纏った美女。白衣を羽織っているが、その下からは当時の最先端であるシャギーの入ったショートカットと、お洒落な私服が覗いている。口元のホクロが、彼女のどこか突き放したような色気を際立たせていた。
「……いらっしゃいませー。ポイントカードはお持ちですかー?」
やる気のない、しかし耳に心地よいハスキーな声。
俺が買い物カゴを置くと、彼女は事務的にバーコードを読み取り――そして、俺の顔を見て、ピタリと動きを止めた。
「……あら」
沙耶さんが、目を丸くした。
そしてすぐに、獲物を見つけた猫のような、面白がる笑みが浮かんだ。
「オーナーさんじゃない。……奇遇ね。こんな庶民的なお店にも、お買い物に来るんだ?」
「必要なものは、場所を問わず手に入れますよ。柚木さんこそ、心理学科の学生がこんなところでアルバイトですか」
「ええ。人間観察にはうってつけのフィールドよ。……レジに並ぶ人の顔を見れば、その人の生活指数まで透けて見えるわ」
彼女は手際よく商品を袋詰めしながら、隣のレジに客がいないことを確認して小声で囁いた。
「……で? 今日は可愛い秘書さんはいないの? 彼女、あんたがいないと生きていけなさそうな顔してたけど」
「舞さんには今日、休日を与えています。優秀な部下ほど、適切な休息が必要ですから」
「ふうん。優しいのね。……舞があんなに『信仰』を深める理由も、少しだけ分かった気がするわ」
沙耶さんは釣り銭を渡す際、俺の指先にわざと触れるようにして手を重ねてきた。
ひんやりとした、細い指先。年上の女性からの、俺への試し、あるいはからかいだろう。
「……またね、西園寺くん。今度、私の大学にも遊びにおいでよ。君専用の、とびきり難解な心理テスト、用意して待ってるから」
「ええ。柚木さんの分析を楽しみにしていますよ」
俺は軽く会釈をして店を出た。
彼女のような、自分の「鎧」を自覚している大人の女性との駆け引きは、学園生活の平穏な時間とは違う、心地よい緊張感がある。
ふと、店頭のラックに置かれた経済紙の見出しが目に入った。
『金価格、底値圏で推移。1グラム950円台』
先日仕込んだ4,000万円分の金地金。900円から1,000円を彷徨う現在の相場は、歴史的なバーゲンセールだ。あと数年で底を打ち、そこからは上昇の一途をたどる。俺の資産形成の柱として、この「黄金の防波堤」は確実に機能するだろう。
★★★★★★★★★★★
買い物を終え、マンションへの帰路につく。
整備された公園のベンチで、少女が帽子を深く被り、1人で缶コーヒーを飲んでいた。
周囲の人間は気づいていないようだが、その隠しきれないオーラは、俺の目には明確に映った。くるみさんだ。
「……こんにちは、くるみさん。こんなところで1人ですか?」
「うわっ!? ……なんだ、レオか。びっくりさせないでよ、心臓止まるかと思った」
彼女は帽子のつばを上げ、俺を見てニッと快活に笑った。
圧倒的な小顔と整った目鼻立ち。厚底ブーツにミニスカートを着こなす姿は、まさに時代を象徴するアイコンだ。
「昨日はありがとね。あのステーキ、本当に美味しかった。……おかげで肌のコンディションも絶好調よ」
「それは良かった。仕事の方は、順調ですか?」
「んー、まあまあかな。……スタッフが変に媚びなくなったから、逆に仕事に集中できるようになったわ。あんた、裏で何か言ったでしょ?」
「さあ、何のことでしょう。俺はただ、現場の自主性とプロフェッショナリズムを尊重しただけですよ」
俺はとぼけてみせた。彼女は疑わしげな視線を向けつつも、どこか嬉しそうに缶コーヒーを飲み干した。
「ま、いいわ。……あ、そうだ。今度の新しいCM撮影、楽しみにしてるから。あたしを起用したこと、1秒も後悔させないわよ!」
「ええ、期待しています。くるみさんなら、この国の未来の『顔』になれる」
短い対話だったが、過日の逃亡劇を経て、彼女との信頼関係はより強固なものになっている。彼女は軽やかに手を振り、「じゃあね!」と人混みの中へと消えていった。
★★★★★★★★★★★
ようやくマンションの自室に帰宅すると、エントランスのコンシェルジュからインターホン越しに連絡が入った。
「西園寺様。ご家族を名乗るお客様がお見えです」
モニターに映し出されたのは、派手なブランド物のサングラスをかけた、あまりに華やかな2人の女性だった。
「Open the door, Leo! 私よ! 寂しすぎて飛んできちゃったわ!」
「ちょっと玲央! 開けなさいよ、お姉ちゃんを待たせるなんていい度胸ね!」
母、ソフィアと、姉、摩耶だ。
俺は苦笑しながらオートロックを解除し、エレベーターホールで彼女たちを迎えた。
母は今日も完璧だった。奇跡的な美貌。イタリア製のシルクドレスを優雅に纏い、彼女が歩くだけでマンションの豪華な回廊が映画のセットのように塗り替えられていく。
一方の姉も、母譲りの整った顔立ちを持つ。キュートで愛らしいビジュアル。大学でも相当に目立っているはずだが、弟の前ではその威厳も霧散し、ただの「残念な姉」と化していた。
「Surprise! レオ、元気にしてた? 私、貴方の顔を見ないと枯れちゃいそうだったのよ!」
「嘘をおっしゃい。昨日の夜も電話で話したばかりでしょう」
母がいきなり俺に抱きついてくる。芳醇な香水の香りと、確かな母の温もり。
姉は両手に抱えた大きな紙袋を、誇らしげに掲げてみせた。
「レオ、お祝いよ! あんたが大好きなヴィンテージのワインと、最高級の……」
「姉さん、落ち着いてください。荷物を預かります。……さあ、中へ」
嵐のような「西園寺家の女たち」を迎え入れながら、俺はやれやれと密かに息を吐いた。




