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40代IT社長の俺がギャルゲーの悪役に転生したけど、主人公が頼りないので「大人の包容力」と「経済力」でヒロイン全員幸せにします  作者: 伊達ジン


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第8話 チョークの弾道と放課後の解呪

 1999年4月17日、土曜日。

 週休二日制が完全に定着する前のこの時代、第2・第4土曜日以外はまだ午前授業――いわゆる「半ドン」が教育現場に色濃く残っていた。昼過ぎには日常から解放されるという特有の開放感が、週末の教室にはどこか浮ついた、熱を帯びた空気を生み出している。放課後に渋谷へ繰り出す計画や、カラオケの約束を交わす生徒たちの小声が、授業前からそこかしこで囁かれていた。


 3限目、公民。

 教壇に立っているのは、生活指導補佐も兼任する真田厳だ。角刈りに太い眉、安物のスーツの上からでもはっきりと分かる分厚い胸板。昭和の熱血刑事ドラマからそのまま抜け出してきたようなその強面教師は、重厚な出席簿を武器のように構え、教室内を鷹のような鋭い眼光で射抜いていた。


「……おい、そこの! 欠伸を噛み殺すとはいい度胸だなぁ!」


 真田の怒声が、静まり返った教室に雷鳴のように響き渡る。

 最前列で白昼夢に浸っていた男子生徒が、椅子を鳴らして飛び上がるように姿勢を正した。この真田という教師は、生徒の自主性よりも規律と服従を絶対視する、典型的な旧時代のスパルタ教育者だ。授業内容は教科書をなぞるだけの退屈なものだが、その場に漂う緊張感だけは、下手をすれば戦場に近いものがあった。


「基本的人権の尊重……ふん、権利ばかりを主張して義務を果たそうとせん若者が増えたものだ。就職氷河期だ何だと世間は騒いでおるが、いいか、社会に出れば甘えは一切通用せんぞ!」


 真田は黒板に向き直り、粉を撒き散らしながら乱暴な筆致で板書を始めた。その隙を突くように、クラスのあちこちで小さな私語や紙の擦れる音が漏れ出す。

 俺は背筋を伸ばしたまま、手元の大学ノートに黒のボールペンを滑らせていた。無論、真田の視点からは「熱心に講義のメモを取っている優等生」に見えているはずだが、実際に紙面に刻んでいるのは、独自のアルゴリズムを用いた米国市場のボラティリティ予測と、それに付随する複雑な確率統計の数式だ。1999年の今、ウォール街のアナリストすらまだ気づいていないバブルの綻びを、俺は計算機を使わずに導き出していた。


 その時だった。

 俺の斜め前方、日向翔太が、隣の席の友人に消しゴムを投げようと、大きく身を乗り出した。周囲の緊張感が緩んだ一瞬を突いた、あまりにも無防備で不用意な動き。

 黒板に向かっていたはずの真田が、背中に目がついているかのような速度で、音もなく振り返った。


「――たるんどるッ!!」


 怒声と共に、真田の右腕がプロの投手のような鋭いしなりを持って振り抜かれた。

 指先から放たれたのは、一本の白いチョーク。

 それは凄まじい回転を伴った弾丸となり、一直線に翔太の頭部を……ではなく、その射線上、わずかに軌道が逸れた先にいた俺の顔面へと迫った。

 完全なる巻き添えだ。翔太を狙ったコントロールが未熟だったのか、あるいは無心でノートに書き込み続ける俺の「落ち着き」が教師の逆鱗に触れ、あえて狙いを定めたのか。どちらにせよ、通常の15歳の反射神経では回避不能なタイミングと速度だった。


 だが、俺の意識はその弾道を、まるで深海を沈んでいく泡のようにスローモーションで捉えていた。

 俺はノートから一切視線を外さず、ペンを走らせるリズムも変えないまま、首をわずか数センチだけ、左へ傾けた。


 ――ヒュッ。


 鼓膜をかすめる鋭い風切り音。

 チョークは俺の右頬の数ミリ横を通り抜け、背後で机に突っ伏して漫画を読んでいた城戸隼人のデコに、バシィッ! と乾いた、見事な音を立てて直撃した。


「いってぇぇ!! なにすんだコラァ!」

「貴様だ城戸ォ! 授業中に漫画とは、我慢の限界だ!」

「はぁ!? 今投げたのお前だろ! 西園寺が避けなきゃ当たってねぇよ!」


 粉まみれの額を押さえて立ち上がる隼人と、さらに顔を赤くして怒鳴る真田。

 俺は何食わぬ顔で数式の続きを書き込みながら、心の中で静かに謝罪した。


(……悪いな、隼人。だが、お前の石頭なら、これくらいの衝撃は吸収できると信じていたよ)


 教室内は緊張から解放されたような笑いとざわめきに包まれた。

 真田は「西園寺……今、ノートを見ていたはずだが」と、自分の目を疑うような困惑の色を浮かべていたが、俺は顔を上げ、教卓を真っ直ぐに見つめた。


「何かありましたか、真田先生」


 その落ち着き払った声に、真田は毒気を抜かれたように「……いや、なんでもない。城戸、立て! 廊下だ!」と再び隼人への怒りに逃げた。

 無駄な被弾はせず、リソースを最小限の動作で守る。それが投資においても、日常においてもリスク管理の基本だ。


 4限目が終わり、終礼が解散となった。

 生徒たちは快哉を叫び、鞄を抱えて雪崩のように教室を飛び出していく。

 そんな喧騒の中、黒板の前で一人、粉まみれになって奮闘している少女がいた。桜木マナだ。彼女は小さいため息をつき、黒板消しを手に背伸びを繰り返している。


「あれ、翔太? どこ行くの? 日直、まだ終わってないよ?」


 マナが、扉から駆け出そうとする翔太に声をかけた。

 黒板の隅には『日直:日向・桜木』と白いチョークで書かれている。放課後の掃除、黒板の清掃、そして学級日誌の記入。それが二人で分担すべき義務だ。

 だが翔太はサッカーボールを小脇に抱え、申し訳なさそうな色など微塵も見せず、明るく振り返った。


「わりぃマナ! 俺、サッカー部の練習試合の見学に行く約束しちゃってさ! 先輩を待たせてるから、あと全部頼むわ!」

「えっ、ちょっと翔太!? さっきの公民の宿題も、私がやるって言ったじゃない!」

「サンキュー! マナなら手際いいし、すぐ終わるだろ? じゃあな、月曜にアイス奢るから!」


 翔太は彼女の返事も待たず、風のように廊下へと消えていった。

 残されたマナは、上げた手を下ろすこともできず、ぽつんと黒板の前に立ち尽くしていた。その細い肩が、がっくりと力なく落ちる。


「……もう。いつもこうなんだから」


 聞き取れないほどの小さな呟き。

 彼女は再び黒板に向き直ったが、小柄な彼女の身長では、黒板の最上部に書かれた真田の力強い板書にはどうしても手が届かない。何度もつま先立ちをし、跳ねるようにして消そうとするが、無慈悲に消し残しが広がっていく。舞い上がる粉が、夕日に照らされて光の筋を作っていた。

 幼馴染という免罪符に甘え、彼女の善意と労力を当然のように搾取し続ける男。そして、それを「仕方ない」と受け入れてしまう少女。

 その悪循環を、誰かが断ち切る必要があった。


 俺は鞄を肩にかけ、教卓に置かれていたもう一つの黒板消しを手に取った。

 そして音もなく彼女に近づき、その隣に静かに並び立った。


「……え?」


 驚いて振り返るマナの横で、俺は彼女が届かなかった上段の板書を、端から順に手際よく消していく。


「俺が上のほうを消そう、桜木さん。その間に、君は日誌を終わらせるといい」


 俺は視線を黒板に向けたまま、淡々と、しかし確実な力で黒板を磨き上げていく。粉をたっぷりと吸い込んだ黒板消しを、教卓の横にある電動クリーナーに押し当てる。ヴィィィンというけたたましい吸引音と共に粉が吸い込まれ、数秒で黒板は新品のような深い緑色を取り戻した。


「あ、ありがとう……。でも、これ私の仕事だし。西園寺くんは関係ないのに」

「日向は、君の時間を自分の所有物か何かと勘違いしているようだな」


 日誌を書き始めたマナのペンの先が、紙面でピタリと止まった。


「違うの、私が勝手に世話を焼いてるだけ。翔太は……昔からああいう性格だし、部活とかも忙しそうだから」


 マナは反射的に翔太を庇おうとした。その声には、長年自分に言い聞かせてきた正当化の響きがあった。

 だが、その瞳には隠しきれない諦めと、蓄積された疲労の色が滲んでいる。俺はクリーナーのスイッチを切り、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。


「桜木さんの時間は、桜木さんだけのものだ。他人の怠惰を埋めるために、無償で浪費していい資源ではないはずだ」

「え……」

「桜木さん自身が、今、一番やりたいことは何だ? 翔太の尻拭いか? それとも、早く帰って実家の店を手伝うことか、あるいは自分の時間を楽しむことか」


 彼女は口ごもり、視線を伏せた。

 それ以上は追い詰めず、俺は彼女が日誌を書き終えるのを無言で待った。

 やがてペンを置いた彼女に対し、俺は静かに提案した。


「日直の仕事はこれで終わりだな。……荷物が重そうだ。帰る方向が同じなら、途中まで持とう。ついでに駅前で買いたいものがあるからな」

「えっ、そ、そんなの悪いよ! 自分で持てるし……それに、西園寺くんを付き合わせるわけには……」

「気にするな。効率の問題だ。重い荷物を抱えてゆっくり歩くより、分担して普通の速度で歩いたほうが互いの時間を節約できる。……さあ、行こう」


 理を尽くして断る理由を潰し、俺は歩き出した。

 マナは一瞬呆気にとられていたが、慌てて鞄を抱え直し、小走りで俺の斜め後ろについてきた。


「ま、待ってよ西園寺くん! ……あ、ありがとう……」


 彼女は上目遣いで俺の横顔を盗み見る。その頬は、春の夕暮れを先取りしたかのように、ほんのりと朱に染まっていた。

 今まで「与える側」に固定されていた彼女が、他者から無条件のサポートを受ける。俺の隣を歩く彼女の瞳には、長年の思い込みという呪縛が、かすかに解れ始めたような戸惑いの色が浮かんでいた。


 マナを実家の洋食屋の近くまで送り届けた後、俺は駅前の大型ドラッグストアに立ち寄った。

 日用品の買い出しではない。ここにある人物が潜伏しているという、舞からの事前情報を確認するためだ。


 店内は土曜日の夕方、休日を楽しむ人々で賑わっていた。

 処方箋カウンターの脇。気だるげな様子で棚に薬品の箱を並べている店員の姿があった。

 規定の白衣を羽織ってはいるものの、その襟元からは上質な生地の私服が覗いている。昨日、青山のカフェで俺を「分析」しようとした柚木沙耶だ。


「……いらっしゃいませー。ポイントカードはお持ちですかー?」


 やる気のなさを隠そうともしない、しかしどこか男性を惹きつける色気を帯びたハスキーな声。

 俺がカゴをカウンターに置くと、彼女は事務的にバーコードを読み取り――そして、俺の顔を見てピタリと動きを止めた。


「……あら」


 彼女の目が、面白がるように見開かれる。


「オーナーさんじゃない。……奇遇ね。こんな生活感溢れる店にも、神様は降臨されるんだ?」

「必要な物資があれば、どこへでも出向く。柚木さんこそ、ここで実地研修でも?」

「ええ。心理学の実地調査よ。……人間が何を求めて棚を彷徨うのか、観察するには最高だわ」


 彼女は手際よく商品を袋詰めしながら、周囲に聞こえない程度の小声で囁いた。


「……で? 今日は可愛い秘書さんはお休み? 彼女がいなきゃ、君はただの綺麗な男の子ね」

「舞には週休二日の権利を与えている。……彼女を酷使するのは俺のポリシーに反するからな」

「ふうん。優しいのね。……舞があんなに必死になる理由、少しずつ解明できそうだわ」


 沙耶は釣り銭を渡す際、俺の指先にわざと長く触れるようにして手を重ねた。ひんやりとした指先。彼女なりの、観察という名のからかいだろう。


「……またね、西園寺くん。今度、私の大学にも遊びにおいで。もっと深い心理テスト、用意して待ってるから」

「ああ。楽しみにしているよ、柚木さん」


 俺は短く会釈をして店を出た。

 買い物を終え、初夏の予感を感じさせる大通りへ出る。そこで、信号待ちをしている一台の黒塗りの送迎車が目に入った。

 後部座席の窓がスッと下がり、大きなサングラスをかけた少女が顔を出した。


「あれ、玲央じゃん! 奇遇ね!」


 天童くるみだ。

 俺が構築したセキュリティ網に守られ、次の撮影現場へと移動している最中らしい。昨夜の会食で精力をつけたのか、今日の彼女からはプロとしての自信に満ちた空気が溢れていた。


「こんにちは、くるみさん。仕事の移動中ですか」

「うん。今から雑誌の表紙撮影。おかげで肌のコンディション、過去最高よ」

「それは重畳だ。現場の雰囲気はどうですか?」

「んー、まあまあ。……スタッフが変に媚びなくなったから、純粋に仕事の話ができるようになったわ。あんた、裏で何か釘を刺したでしょ?」

「さあ? 俺はただ、プロとして当然の環境を整備するよう明智に伝えただけだ」


 俺がとぼけると、彼女は疑わしげな視線を向けつつも、嬉しそうに口角を上げた。


「ま、いいけどね。……あ、そうだ。今度のCM撮影、期待しててよ。あたしを選んだこと、絶対に後悔させないから!」

「期待しているよ、くるみさん。君なら、この新しい時代の象徴になれる」


 信号が青に変わり、送迎車が滑らかに走り出す。

 彼女は窓から身を乗り出すようにして手を振り、眩しい笑顔を残して去っていった。


 ようやくマンションのペントハウスに帰宅した俺を待っていたのは、静寂ではなく、賑やかな笑い声とエスプレッソマシンの駆動音だった。

 嫌な予感が確信に変わる。リビングに一歩足を踏み入れると、そこには見慣れた光景が広がっていた。


 広大なイタリア製のソファでは、姉の摩耶が、東大の分厚い専門書を顔に乗せたまま豪快に爆睡している。

 そしてキッチンでは、母のソフィアが、俺が秘蔵していた最高級のコーヒー豆を勝手にミルにかけていた。


「あ、おかえり玲央。このマシンの設定、少し複雑すぎるわ。もっと直感的にできないかしら?」

「……母さん。先週も来たばかりでしょう。オートロックはどうしたんですか」

「コンシェルジュの素敵な男性に微笑みかけたら、『西園寺様のご家族なら、どうぞ』って。ここ、本当に日当たりが良くて最高だわ。本邸よりずっとリラックスできるもの」


 悪びれもせず微笑む母と、鼾をかき始めた姉。

 どうやら、俺の聖域であるはずのペントハウスは、早々に身内によって「都合の良い別荘」として占拠されつつあるようだ。


 俺は小さくため息をつき、母の手からコーヒーフィルターを無言で取り上げた。そして、自分たちで淹れることを早々に諦め、ソファから俺に期待の視線を向ける二人のために、最適な湯温の調整からやり直すことにした。

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