第7話 渋谷の城と黄金の鍵
1999年4月15日、木曜日。
放課後の渋谷。若者たちの熱気と喧騒が渦巻くこの街の一角、桜丘町にある雑居ビルの一室に、俺はいた。
まだ什器もまばらなフロアだが、ここが俺の新たな拠点、「レオ・キャピタル」のオフィスとなる。
窓の外には、建設中のセルリアンタワーの巨大なクレーンが見える。
この1999年の渋谷一帯は、間もなく「ビットバレー」と呼ばれ、日本のITベンチャーの中心地となる場所だ。だが、その多くは学生気分の延長で消えていく。俺が作るのは、そんな一過性のブームに踊らされる泡沫の夢ではない。20年、30年先を見据えた、世界を飲み込むための揺るぎない基盤だ。
「オーナー。採用予定のシニアエンジニアの方ですが、先ほど承諾の連絡が入りました」
秘書の舞が、淹れたてのコーヒーをデスクに置きながら報告する。
今日の彼女は、ライトグレーのパンツスーツ姿だ。その凛とした美貌と身体のラインに沿ったスーツのシルエットが、無機質なオフィスに確かな彩りを添えている。これほどの落ち着きと完璧な所作を見せられると、彼女がいるだけで、殺風景な空間に一本の芯が通ったような心地よい緊張感が生まれる。
「釣れたか。条件は?」
「年収1,000万円。加えて、プロジェクトの全裁量権を保証しました。……大手SIerからの引き抜きとしては、破格かと存じます」
舞が微かに綺麗な眉を寄せた。
無理もない。1999年の今、ネットベンチャーのエンジニアといえば、学生バイトか独学のアマチュアが主流だ。そこに1,000万円プレイヤーを投入するのは、業界の常識からすれば暴挙に近い。
だが、ここが勝負の分かれ目だ。当時のネットサービスは、アクセスが集中すればすぐにサーバーが落ち、データベースが破損する脆弱なものばかりだった。俺が必要としているのは、OracleデータベースとUNIXを自在に使いこなし、金融機関並みの堅牢なインフラを構築できる「本物のプロ」だ。
「安いものだよ。ストックオプションという不確かな餌ではなく、現金の札束で誠意を見せる。それが大人の流儀だ」
「……承知いたしました。オーナーの慧眼を信じます」
舞は深く一礼した。
次に、俺は重厚なアタッシュケースに視線を落とした。中には、鈍く光る延べ棒が鎮座している。金地金。総額4,000万円分だ。
現在の金価格は1グラム1,000円前後。歴史的な安値圏にある。世間はドットコム株やIT関連銘柄に熱狂し、利子を生まない金など見向きもしない。
だが、この黄金こそが、来るべきITバブル崩壊と、その後の不安定な世界経済における最強の「盾」となる。
「舞。これを貸金庫へ。契約期間は無期限だ」
「……はい。いつ取り出しますか?」
「25年は忘れておくつもりだ。鍵と暗証番号は厳重に管理し、俺が指示を出すまで封印してくれ」
2024年には、この金塊は10倍以上の価値を持つことになる。これは投資というより、未来の俺たちへのタイムカプセルだ。
俺は未来への布石を打ち終え、学園での出来事を反芻した。
さかのぼること数時間前、昼休みのことだ――。
俺は教室の喧騒を離れ、中庭のベンチで米国の経済誌を読んでいた。春の陽気が心地よい。
だが、その平穏は、植え込みの向こうから聞こえてきた甲高い声によって破られた。
「だーかーら! 俺、今日は部活のミーティングがあるんだって! 宿題やってる暇ないの!」
翔太が、1人の女子生徒にプリントの束を押し付けようとしていた。
相手は、高城藍。マナの親友であり、クールで知的な雰囲気を纏った美少女だ。
透明感と憂いを帯びたビジュアル。顎のラインで切り揃えられた黒髪のボブカットと、理知的な光を宿した涼しげな瞳。クラスでも隠れファンが多い彼女だが、今はその美貌が冷ややかな軽蔑の色を帯びていた。
「……日向。自分の宿題くらい、自分でやりなさい」
「ケチだなぁ高城は! マナなら『しょうがないなぁ』ってやってくれるのにさー」
翔太は悪びれもせず、幼馴染の名前を出した。高城の瞳が、不快感にスッと細められる。
「……貴方ね。マナは貴方の母親でも家政婦でもないのよ。彼女の善意に寄生している自覚はあるの?」
「はあ? 何マジになってんの? 俺たち幼馴染だし、助け合うの普通だろ?」
「それは助け合いじゃなくて、搾取よ。貴方の『普通』は、他人の犠牲の上に成り立っているわ」
高城はピシャリと言い放った。正論だ。だが、翔太にはその言葉の真意が1ミリも届かない。彼は「なんだよ、付き合い悪いな」と不満げに口を尖らせている。
「……私はマナほど甘くないわよ。自分のことは自分でなさい。これ以上マナに甘えるなら、私が許さない」
高城は翔太を射抜くような視線で睨みつけ、その場を立ち去った。残された翔太は「ちぇっ、なんだよアイツ」と舌打ちをしている。
植え込みの陰で、俺は音もなく息を吐き出した。翔太の無自覚な甘えと、それを許容してきた、甘やかされた環境。だが、高城のような眼を持つ存在が側にいることは、マナの自立にとっても大きな救いになるだろう。
放課後。
俺は校舎裏手にある体育教官室へと向かっていた。隼人が、体育教師の鷹森に呼び出されたのを目撃したからだ。
鷹森は、執拗に隼人を目の敵にしている。
教官室のドア越しに、粗暴な怒鳴り声が漏れ聞こえてくる。
「おい城戸! なんだその態度は! 教師に対する口の利き方も親に教わらなかったのか!」
「……っせーな。シャツ入れただろ。他に何があんだよ」
「その目だ! その腐った不貞腐れた目が気に食わんと言ってるんだ! ……陸上部崩れの落ちこぼれが、粋がるのもいい加減にしろよ?」
ドン、と机を激しく叩く音。
俺はドアの隙間から中の様子を慎重に窺った。
鷹森が隼人の胸倉を片手で乱暴に掴み、壁に力任せに押し付けている。巨躯による威圧。明らかな体罰、いや暴行だ。だが、隼人は拳を固く握りしめ、手を出さずに耐えている。ここで手を出せば、即座に「暴力沙汰」として退学に追い込まれることを、彼なりに理解しているからだ。
「……離せよ。俺は何もしてねぇ」
「口答えするな! ……いいか、俺はお前みたいな社会のゴミを更生させるために指導してやってるんだ。感謝しろ、負け犬!」
鷹森の顔には、教育者の仮面が剥がれ落ち、醜悪で嗜虐的な笑みが浮かんでいた。
俺は胸ポケットのICレコーダーが正常に稼働していることを確認した。
まだだ。今ここで飛び込んでも、鷹森は「熱血指導」と言い逃れ、事なかれ主義の学校側も揉み消すに違いない。もっと決定的な、奴を社会的に、そして法的に抹殺できるだけのカードが必要だ。
幸い、舞への調査依頼は着々と進んでいる。俺は録音を続けながら、隼人が解放されるのを見届け、音を立てずにその場を離れた。
夜。
渋谷での打ち合わせを終えた俺は、とあるファミリーレストランの駐車場にいた。
店内には、1人の少女の姿がある。くるみさんだ。昨日の逃亡劇から一夜明け、彼女はプロとして仕事に復帰していたが、やはりその表情には隠しきれない疲労の色が濃い。深夜のファミレスで1人、サラダの葉を力なくつついている姿は、痛々しくも美しかった。
華奢な肩を丸めるようにして座っている彼女を見つけ、俺は舞に「ここで待っていてくれ」と告げて車を降りた。
店内へと入り、俺はくるみさんの席の向かいに断りもなく座った。
「えっ……!? レ、レオ!? なんでここに……」
「こんばんは、くるみさん。ボディーガードから連絡がありました。……こんな時間までお疲れ様です」
「あ、あんたねぇ……ストーカーみたいなことしないでよ。びっくりするじゃない」
彼女は呆れたように言ったが、その瞳には明らかな安堵の色が混じっていた。俺は店員を呼び、メニューには載っていないオーダーを告げた。
「サーロインステーキ、300グラム。焼き加減はミディアムレアで。……ああ、この系列チェーンの筆頭株主として、厨房には無理を聞いてもらっている。気にしないでいい」
店員は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「かしこまりました、オーナー」と恭しく頭を下げた。くるみさんが口をあんぐりと開けて固まる。
「はぁ!? 筆頭株主って……あんたホントにバカなの!? 高校生のやることじゃないでしょ!」
「投資の一環ですよ。それに、くるみさんの肌荒れの原因は栄養不足だ。サラダだけでこのハードスケジュールを乗り切れるわけがない」
やがて運ばれてきたのは、ファミレスの常識を遥かに超越した、最高級の和牛ステーキだった。
「……なによこれ。めちゃくちゃ美味しそうじゃん。……負けたわ」
くるみさんは躊躇いながらもナイフを入れ、一口食べた瞬間、幸せそうに頬を緩めた。年相応の、少女らしい笑顔。俺はその様子を見守りながら、本題を切り出した。
「くるみさん。……俺が近く立ち上げる新しいIT事業のCMに、貴女を起用したいと考えています」
「え? 新しい事業?」
「モバイルオークションとEC(電子商取引)のサイトです。携帯電話1つで、世界中の物が買えるようになる時代が来る。……その未来の顔に、くるみさんが相応しい」
俺は企画書をテーブルに置いた。彼女はフォークを止め、真剣な眼差しでそれを見つめる。
だが、次の瞬間、彼女の表情がスッと硬くなった。
「……ちょっと待って。それって、また私を『オーナーのお気に入り』として特別扱いするってことじゃないの? そんなの、昨日と何も変わらないじゃん」
彼女は突き放すように言い放った。昨日、露骨な忖度に嫌気がさして現場から逃げ出した彼女のプライドを思えば、当然の反発だ。実力で這い上がりたい彼女にとって、コネによる抜擢は最も忌み嫌うものだろう。
「同情や忖度ではありませんよ」
俺は真っ直ぐに彼女の目を見据え、言葉に力を込めた。
「貴女の持つ大衆を引きつける力、その圧倒的な親しみやすさと内面の強さが、俺の立ち上げる新しい文化には必要不可欠なんです。……西園寺の威光など関係ない。天童くるみというタレントのポテンシャルを見込んだ、ビジネスとしての正当なオファーです」
「……」
くるみさんは俺の瞳の奥をじっと探るように見つめ返してきた。そこに一切の誤魔化しがないことを確かめるように。
やがて、彼女は張り詰めていた肩の力を抜き、八重歯を見せてニカッと笑った。
「……いいわよ。その代わり、あたしを使うからには最高のCMにすること。それと、ギャラはしっかり弾んでよね!」
「交渉成立ですね」
食後、俺は彼女を近くのダーツバーへ連れ出した。もちろん、事前に貸切にしてある。
薄暗い店内に、落ち着いたジャズが流れる空間。
「へえ、ダーツ? やったことないけど、難しそう」
「教えますよ。単純ですが、奥が深い」
俺は手本を見せ、彼女にダーツの矢を渡した。フォームを教えるため、自然と背後から身体が密着する。
ふわりと香る、彼女のシャンプーの匂い。アイドルとして完璧に作られた美貌が、今は無防備に俺の胸の中にある。
「こう? ……えいっ!」
放たれた矢は、的の端に突き刺さった。
「あーっ! 惜しい! もう一回! 次は絶対当てるから!」
はしゃぐ彼女は、ただの少女に戻っていた。俺もまた、オーナーという肩書きを一時だけ忘れ、彼女との穏やかな時間を楽しんだ。
数ゲーム終えた後、くるみさんがカウンターでジュースを飲みながら、ふと真面目な顔で言った。
「……あたし、頑張るから。……レオが用意してくれたステージで、一番輝いてみせるわ」
「ええ。期待していますよ、くるみさん」




